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片野勧の衝撃レポート(52)被爆記憶のない世代は、被爆体験をどう伝えるか(上)

      2015/04/20

 

片野勧の衝撃レポート(52)太平洋戦争とフクシマ(27)

『なぜ悲劇は繰り返されるのかー原爆と原発・

被爆記憶のない世代は、被爆体験をどう伝えるか(上)

 

被爆体験の継承~被曝の記憶のない世代として――。

さまざまな困難を乗り越えて、どのように社会に、そして次の世代に伝えていくのか。
「私は長年、被爆者運動をやってきましたが、やはり3・11以降、福島原発のことを抜きに、被爆者運動は考えられないと思っています」
こう語るのは、川副(かわぞえ)忠子さん(71)である。彼女は、2歳の時、長崎で被爆した。しかし、被爆の記憶のない中で育った。被爆体験は父母から聞いてきた。彼女は、その後、地元の大学を卒業して、1966年から小学校教諭として勤めてきた。

その間、「長崎の証言の会」のメンバーとして子どもたちに作文を書かせたり、大人から被爆体験を聞き書きしてきた。

そんな川副さんが福島にやってくるというので、深夜の高速バス(新宿発0・30分)で郡山に向かった。郡山駅に着いたのは2015年1月21日午前5時。近くの、とあるホテルで待ち合わせして午前8時に地元福島県会津の千葉親子(ちかこ)さん(67)の車で、本宮市の仮設住宅に住む橘柳子さん(75)宅に向かう。

爆心地から約2・5キロの自宅で被爆

私は車中、川副さんに被爆体験や被爆者運動について話を聞いた。以下、一問一答。

――「ピカッ」。原爆投下の1945年8月9日午前11時2分。その時、どこにおられましたか。
「爆心地から約2・5キロの自宅にいました。爆心地とわが家の間に金毘羅山という366メートルの小高い山があり、その山が遮蔽物となって、直接熱線は浴びませんでした。ただ、長崎市の中心地にあった母の実家は建物疎開になり、6月ごろ城山町に移り住んでいました。爆心地から600メートルぐらいのところで、母の母(私の祖母)、姉、弟が亡くなりました」
父も被爆し、今から20年ほど前に亡くなった。母も被爆したが、現在93歳で健在だという。川副さんは現在、長崎県原爆被爆教職員の会会長、高校生平和大使派遣委員会で活動を続けている。今も高校生とともにジュネーブの国連本部に毎年、平和のメッセージを届けているという。
――今回、福島に来るキッカケは?

「来たくて来ただけです。福島を知らなければ、被爆者運動はできないと思ったからです。2年前もお邪魔したのですが、その時は何もわからないで、千葉さんにあちこち案内してもらいました」

平和教育について

――平和教育については?
「1970年、長崎県原爆被爆教師の会がスタートしました。その年は戦後25年の節目でしたが、被爆体験を語る人は多くありませんでした。そこで、原爆を体験した教職員の間で被爆を教える教材づくりが始まりました。そういうところから私たちの平和教育が始まったと思います」

――そのころ、庶民の側から空襲を記録する運動が全国各地で起こりましたが、その中で原爆体験を語る運動も広がっていったのですか。

「私は今、長崎の被爆者運動がどのように始まったのか調べているところです。長崎の証言活動は鎌田定夫先生(元長崎総合科学大学教授)が中心となって立ち上げた『長崎証言の会』が始まりかと思います。1968年だったと思います」

今年は長崎被爆70年 

――今年は長崎被爆70年です。どんなことをお考えですか。
「被爆60年のときに『グランド・ゼロからの再生』という被爆証言集を作りました。被爆70年は被爆者として記録を残す最後になると思い、今『被爆70年誌』の編集を進めているところです。その中に『福島』のことを取り上げたいと思い、福島に来ました。誰かから言われてきたわけではないのです」
川副さんがそう言ったあと、千葉さんは言葉を継いだ。
「私も誰からも案内しなさいと言われたわけではありません」
私は2人の話を聞いていて、感心した。ふと、自立とは何なのかを考えた。川副さんは語った。

「3・11以降、できることは何でもやろうと思っていました。しかし、体力も財力もない。何も決めることができなかったのです。しかし、自分が見て福島を知ることから始めるしかないと思いました。なぜなら、それが長崎と福島の心を分け合うことになると思ったからです。しかし、福島に知っている人は誰もいません。福島のどなたでもいいから、つながる人がいないかを捜していた時に、千葉さんと出会ったのです」

それに応える形で千葉さんが語る。

「2年前は南三陸をずっと上っていきました。原発だけでなく、津波の傷跡も見ました。でも、それがきっかけで私は昨年、長崎に行けたの」

1・27ネバダ核実験と反核学習会

千葉さんが長崎に行ったのは1・27ネバダデー学習会の2014年1月27日だった。川副さんは言う。

「私たちはネバダ反核の学習会を30年ぐらいやっていますが、そこに福島原発のことを話してもらいたいと思っていました。100人ぐらい集まりましたけど、とても好評だったようです」

車の中で、こんな会話を1時間ぐらいしていたら、目的地の本宮市の仮設住宅に着いた。この日は寒い日だった。「どうぞ、コートは着てていいですよ」と言って橘さんは迎えてくれた。橘さんはハルピン(現黒竜省)で8・15終戦を迎え、その年の冬に両親と叔母の4人で引き揚げてきた。

長崎の高校生平和大使

 まず川副さんは福島に来た理由から話し始めた。

「今年は長崎被爆70年です。まだ証言をしていない方や反核運動にかかわった人、原爆・戦争体験のない若い世代の人など幅広い声を集めて、後世に伝えていこうと思っています。その中には、やはり福島原発も取り上げなければならないということで、お邪魔したわけです」

橘さんは答えた。

「お疲れ様です。私のようなもので良ければ……」

それに対する川副さんの言葉。

「私は長崎の高校生平和大使の活動をやっています。10数年前から毎年、高校生とともにジュネーブの国連欧州本部に行って、平和のメッセージを届けています。東日本大震災のことも伝えなければと思って、2011年は岩手県陸前高田の高校生2人を、2012年からは福島からも高校生平和大使を選出するようになりました。国連でも、ジュネーブで人権活動をするNGOでも、大きな反響がありました」

今も口をつぐんで語れない人がいる

さらに川副さんは言葉を継いだ。

「核という共通の部分でつながっていく。被爆者運動は福島原発を抜きにして考えられないのは、そのためです。その一方で福島のことを長崎に伝えていきたい。まだ小さな歩みですが、それが私たちの願いです」

こう言って、川副さんは被爆者の中に、今も口をつぐんで語れない人がいると指摘した。たとえば、母の妹(叔母)の場合。

「叔母の住まいは爆心地でした。しかし、たまたま、その時、体調が悪くて、私の家にいて、助かりました。被爆者ですが、叔母はまだ被爆体験を語りたがりません。仲間がいっぱい、死んでいますから」

さらに話を続けた。

「被爆したけど、被爆したことを思い出したくないという人もいます」

橘さんはお茶を出しながら、「その気持ちはよくわかります」と言って、東日本大震災について語り始めた。

「3・11」その時、どこに?

「3・11の時、どこにおられたって? 私は富岡町の夜の森というところで会議をしていました。それが終わって車で帰る途中、地震に遭いました。携帯電話が激しく鳴りました。橋の上で『地震による津波発生、直ちに……』と入っていました。激しい揺れで、車から降りられませんでした。これはすごいことになるな、と思いました。また原発はダメだと直観しました」

浪江町の自宅へ着いたのは、この日の夕方だった。しかし、電気は途絶えて、真っ暗。夫のメモが置いてあった。「『いこいの村なみえ』に避難している」――。車を走らせて、「いこいの村なみえ」へ急いだ。そこで夫と出会い、それ以来、現在までずっと一緒に避難生活している。橘さんは語る。

次の日、女性の声で「『避難してください』と町内放送がありましたが、なぜ避難しなければならないの? と思いました。そして理由も分からないまま、私たちは避難せざるを得ませんでした」

その時、橘さんはふと、ソ連の作家ソルジェニーツィンの1節を思い出した。「刑務所に入れられるとき、唯一持っていったものは歯ブラシだ」――。橘さんは歯ブラシ3、4本持って、避難を始めた。

まずは自宅から浪江町津島羽附集会所へ。橘さんにとって津島は2度の僻地校勤務の場所。ここで3日間、過ごし、その後、二本松市東和第一体育館から神奈川県相模原市、郡山市と避難先を8カ所、転々とし、本宮市の仮設住宅へ。そして、仮設住宅で2度、移動して現在、10カ所目の避難である。

つづく

 - 現代史研究

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