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日本リーダーパワー史(37) テレビ東京「世界をかえた日本人100人」(2月5日放送)のコスモポリタン・薩摩治郎八(下)

   

日本リーダーパワー史(37)
パリで恋と芸術と賛沢三昧に生き、600億円を使った
コスモポリタン・薩摩治郎八(下)
 
                             前坂 俊之
                           (静岡県立大学名誉教授)
 
 
 5・・『ヴォーグ』に登場した元祖スーパーモデルの千代夫人
 
 一九二六年(大正15年)、三月、治郎八は山田英夫伯爵の令嬢・千代と結婚した。千代は学習院高等科卒業の一九歳のお嬢様。藤田嗣治が「お人形」と呼んでかわいがった可愛い美人で、後にカンヌの美人コンクールで優勝したほど。パリ・モードでフランス人モデルと並んでファッション誌『ヴォーグ』に何度も登場した元祖スーパーモデルであった。
 
一九二七年六月にはパリの『コメディ・デ・シャンゼリゼ』で岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』をフランス人が出演、フランス語で演じるという珍しい試みの演劇が行なわれた。松尾邦之助が仏訳し、藤田嗣治が舞台背景などを担当し、オデオン座の座長ジェミエが主役の夜叉王を演じて、公演は大成功をおさめたが、このスポンサーも治郎八が努めた。
こうした治郎八の芸術への理解と、パトロン的性格を見込まれて、一つの大事業が持ち込まれた。パリの南郊外にある大学都市に日本会館を建設する計画に、薩摩家の資金援助を要請されたのであった。
 
 大学都市はパリ市の南郊外のモンスリー公園の一角にあり、アメリカ、イギリス、オランダ、スウェーデン、スペインなど世界各国の学生会館が建ち並んでいる。各国の留学生のための宿泊施設であり、国際交流の場でもあった。
もともとは、一九二五年にフランス政府が土地を提供、そこに各国が会館を建設したもので、米国のロックフェラーもここに二〇〇万ドルを寄付していた。日本館も建設を予定していたが、莫大な建設費で完全に行き詰まっていた。
 
 当時、治郎八は二十五歳。広田弘毅(後の首相・当時外務省欧米局長)や西園寺公望の秘書松岡新一郎らから熱心に口説かれ、牧野伸頭からも強い要請があった。日本は関東大震災後の震災恐慌で、軍備増強でカネは一銭もなく、渋沢栄一の紹介もあり、薩摩家の財力と気前よくカネを出す治郎八がスポンサーとして見込まれたのであった。
 
結局、資金はすべて薩摩家が負担することになり、百万円を提供した。一万円もあれば利子だけで優雅に暮らせた時代。今になおすと数十億円に相当し、何事にもキップが良かったのである。日本会館は「薩摩財団」によって、フランスの名設計士が日本の城の外観を模倣して建設された。敷地面積千二百平方メートル,地上七階地下一階で六十室あり、一階の正面や広間などには藤田嗣治の壁画が飾られることになった。
「生涯最高の画で,永久にパリ大学都市の宝にするつもりで描いた」と藤田は言い壁画は開館以来ずっと現在でも日本館の広間に飾られている。これによって当時、「文化的国際連盟」といわれたパリ大学都市に日本も加入できた。
 
数十億円をポンと寄付してパリ大学都市に『日本館』(メゾン・ド・ジャパン)を完成
 
この『日本館』(メゾン・ド・ジャパン)が完成したのは一九二九年(昭和四年}五月十日である。開館式にはフランス側からドウメルグ大統領、ポアンカレ首相、文化相、オノラ大学都市総裁ら政治家、文化人、知名人が多数列席、各国大、公使らを含め約一千人が集まった。薩摩が最初に祝辞を述べた後、オノラ総裁,マルロー文相らのお祝いの言葉が続いて、式は盛大に行なわれた。
 その夜はパリを代表する名門ホテル「リッツ」で治郎八が主催し、パリの著名人約二〇〇人を招待して、今の金にして数億円はかけたといわれる豪華絢爛たるパーティーが開かれた。
 
「リッツ」は一八九八年にホテル王のセザール・リッツによって作られたもので、各国のVIP、王族が定宿にしている超高級ホテル。
治郎八は当時、パリ随一の高級紳士服店『ランボー』の特別仕立ての濃紺のタキシードをパリッと着こなし、千代夫人はポールポアレーの最新流行の白黒の夜会服にダイヤ、エメラルドなどの宝石を無数に散りばめたスタイルで登場、夜会の注目を一身に集めた。以後、千代夫人はパリ社交界の華となった。
この時の治郎八のタキシード姿も、黒がそれまで定番だったので大評判となり、濃紺が増えるきっかけとなったといわれる。
 
 フランス政府から治郎八にたいしてレジオン・ド・ヌール勲章が授与された。この時以来、治郎八はバロン(男爵)と呼ばれ、『バロン・サツマ』、ジロハチがジョージと受け取られ、『サー・ジョージ・サツマ!』とも呼ばれるようになった。「『バロン・サツマ』、『マダム・サツマ』がパリの社交界で流行を作る」と言われるまでになった。
 治郎八は結婚記念として千代夫人に特別仕立ての純銀製のクライスラー車をプレゼントした。ボディは純銀で淡紫塗り、運転手の制服は銀ねずみに純金の薩摩家の定紋をつけ、夫人はリユー・ド・ラペのミランド製の淡紫に銀色のビロードのタイニールで車の色調の紫色と見事に調和していた。
 
千代夫人は『ドーリー』(人形)の愛称で呼ばれ、着るものは全てパリの最先端の流行となった。
 このスタイルで治郎八は夫人をともなってカンヌでの自動車エレガンス・コンクールにさっそうと出場した。レースではスウェーデンの王室の車などと競走して、堂々のグランプリを獲得した。
 
「この時のマダム・サツマの車はマリー・アントワネットの擬装馬車以来の素晴らしさだった」との評判が長い間、パリ社交界に語り継がれていた、という。
 
王侯貴族もおよばぬ豪華な生活
治郎八夫妻の生活は贅沢を極め、冬場は暖かい南フランスのカンヌの最高級ホテル「マジュスチック」に宿泊し、夏はドービルのホテル「ノルマンディー」で暮らすという王侯貴族もおよばぬ豪華なものであった。このころの一ヵ月の生活費は一億五千万円にものぼったという。
「こんな生活は虚栄だと世間から指弾されるかもしれないが、私は生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であった」と治郎八は自伝で回想している。
 しかし、こんな幸せな結婚生活は長くは続かなかった。千代子夫人は一年ほどして結核を発病して、アルプスのサナトリュウムで療養生活をおくるようになる。治郎八はプレイボーイぶりをいかんなく発揮して、浮気のための自分専用のカルソニエール(男の一人住まいの家)を持って、派手に遊び続けた。
 
 パリ最高の美女といわれた女優のエドモンド・ギイをインドの王様と恋の競争をして長く付き合ったり、次々に美女と浮名を流した。バロン・サツマの行くところ必ず美女ありと言われた。
 
最高級レストラン『マキシム』は治郎八のお気に入りで、彼の専用席があった。この指定席にはマリー・ローランサン、女流作家・コレットやつきあっている女性たちを毎晩のように連れて行っていた。

 

最高の美女たちとラブフェア
 
当時、画家や芸術家たちの多くは金がなくラフなスタイルでネクタイなどしていなかったが、英国仕込みのダンディーな紳士だった治郎八はいつもエルメスの動物柄か、スコッチテリアとフォックスの柄の、いずれかを着用していた。これに、香水をたっぷりふりかけていた。
 
十代のころから、治郎八は香水を愛用しており、「香水こそはわれらがどこでもかげるパリの匂いであり夢である。香水は芸術やモード、料理、ワインのようにフランスだから生まれた香りの芸術である」というほどの香水マニアであった。パリでも常にキャロンの『ニュイ・ド・ノエル』(降誕祭の夜)の入った銀製の香水入れを携帯していた。
こうした最高の舞台設定の中で、美女たちを次々に口説いたのである。
 
一九二〇年代、パリには世界中から画家やその卵たちがたくさん集まっていたが、日本人画家だけでも数百人にのぼっていた。こうしたパリ在住の日本画家たちを紹介しようと治郎八は藤田と協力して一九二九年三月、「仏蘭西日本美術家協会」(会長・藤田嗣治)を設立したが、美術評論家・福島繁太郎らが反藤田派の画家たちを集めて「巴里日本美術協会」を結成して対抗した。日本人特有の島国根性的なやきもちで、ゴタゴタが続いたため治郎八はすっかりいやになり手を引いてしまった。
 
 パリから一時帰国する際、フランス政府は治郎八が数百億円も私財を投げ出していることを考慮して、国賓待遇として仏船の特別船室を提供して送ったほどであった。
 
一九三一年(昭和六年)満州事変が勃発して、以後、三七年に日中戦争、三九年(同十四年)にはヨーロッパで第二次世界大戦が開始されるなど急角度に戦争の時代へと突入していく。三五年にはさしもの「薩摩商店」もついに倒産、廃業してしまった。
 ナチ・ドイツがポーランドに突然、侵攻しヨーロッパが再び戦場と化した三九年秋、「フランス、イギリスに恩返しがしたい」と、一時帰国していた治郎八はわざわざフランス船に乗って訪欧した。
 ドイツのフランス占領で藤田嗣治ら大部分の日本人はすでに国外脱出していたが、フランスに育てられた治郎八は、運命を共にする覚悟で一人、パリに踏みとどまった。ドイツと日本が手を結んでいるのをうまく利用して、ナチに捕らえられた文化人らをその人脈とカネによって何人も救い、助けたのであった。後年、コクトーがアヘン使用で逮捕された時、治郎八が釈放の手を打った。
 パリの旧い知識人たちがいつまでも、『バロン・サツマ』を敬愛してやまないのは、カネを気前よく散財した点以上にこうした理由もあった。
 
 無一文になって30年ぶりに帰国
 
 戦後、治郎八は一九五一年(昭和26)に帰国した。通算のフランス滞在は日本より長い三十年に及んでいた。すでに治郎八は五十歳。この間、フランスからは仏最高勲章「レジオン・ド・ヌール・シュバリエ」「仏文化勲章」「マルロー勲章」「カンボジア王冠勲章」など、数々の栄誉に輝いたが、つぎこんだ金は今に換算すれば六百億円以上にのぼった。
 しかし、帰国してみると、栄華を誇った薩摩家はすでに跡形もなくなっていた。膨大な土地、財産、父親の所有していた絵画、書、骨董の類もすべて人手に渡っていた。世の中もすっかり変わっており、まるで浦島太郎そのものであった。
 
 無一文となった治郎八はパリでの思い出やかつての恋愛、ロマン、生活などをエッセーなどに書く文筆家として生活費を稼いでいた。最初の著書は五四年に『巴里・女・戦争』(同光社刊)を出版し、翌年には自叙伝『せ、し、ぼん-わが半生の夢』(山文社刊)、翌五六年『なんじゃもんじゃ』(美和書院刊)五八年には『ぶどう酒物語―洋酒と香水の話』(村山書店)と次々に刊行した。
 
一九五六年(昭和三十一年)一月、パリを思いだしながら、淋しさをまぎらわせて浅草のストリップ小屋に通っていた。中年太りながら“ドンファン”の面影を残した治郎八はすてきな匂いの葉巻をくゆらせながら楽屋で踊り子から「センセイ、センセイ!」と呼ばれて、モンマルトルの踊り子の話などをしていた。そこで可愛い踊り子の「秋月ひとみ」を見染めた。
 
 連日、通ってパリの踊り子にしたのと同じように、バラの花を楽屋に送り届け、「貴女はドガの踊り子のようにすばらしい」と口説いて、三十歳以上も年の離れた売れっ子の若いストリッパーの利子(当時・二五歳)のハートを射止め、一緒になった。
五九年(昭和三十四年)夏、治郎八は利子の郷里の徳島に一緒に阿波踊りを見にいった。この時、脳溢血で倒れ、以後、徳島に住みついて、若い女房の世話になりながらの、ひっそりと一文無しの療養生活を送っていた。健康を取り戻した一九六六年にはフランス政府の招請を受けて渡仏し、日本政府からも日仏文化交流に功績があったとして勲三等旭日中綬章を受けた。


金なんか残しても仕方がない

取材に訪れた週刊誌記者に「カネなんか残してもしかたないね。どうせ、祖父がポカンと作った財産です。私が無くしてしまったって、どおってことありません。何も後悔はないですよ」と治郎八はアッケラカンと語っていた。
 パリの日本大使館で情報部長をしており、当時の治郎八をよく知っている柳沢健は、 「日本で、彼ほどの行動的な夢の探究者を僕は知らない。あえて探せば、大谷光瑞師がいるが、大谷師は古風ともいえる事業家的な夢と情熱を持っていただけで、薩摩のような芸術、美の感覚はなかったね」と語った。
 
 詩人・堀口大学は治郎八の自伝『せ・し・ぽんーわが半生の夢』(山文社、平成三年刊)の前書きに治郎八を評して、次のように書いている。
「(治郎八が金を使ったのは)ヨーロッパの社交生活を楽しむために使ったのだ。自分も楽しみ、人も楽しませる以外の目的なしに、ただ何となく使ったのだ。それも三十年以上の長きにわたって。薩摩君の一生には絶えず夢があった。ただ一つ同じだったのは、何時もそれが金を使う夢だった点だ。事業の夢も、政治の夢も、外交の夢も、芸術の夢も」

 

 薩摩治郎八の人生を的確に言い表している。パリでは豪華な「シャトー」を買わないかという申し出が数多く寄せられたが、治郎八は不動産の所有には一切関心を示さなかった。金を使うことには熱心だが、財産などはどうでもよかった。
「裸一貫、私有財産を持たざることを念願とす」-これが治郎八の信念だったが、贅沢三昧の人生を送り、恋愛と芸術と美にすべてを注ぎ込んだ治郎八は一九七六年(昭和五十一年)二月、七十五歳で華麗な生涯を終えた。


薩摩の生き方そのものが芸術、美の極致

彼は単に芸術家に金を出す「お金持ちのパトロン」という存在ではなく、生き方そのものが美であり、芸術そのものであった。絵画、音楽、小説、詩、ファッション、恋愛、生活スタイルのすみずみまで彼一流の美学で貫かれており、中でも、恋愛に最大の情熱を傾けた点こそが彼の本質なのだ。彼ほどフランス女性にもて、愛された日本人はいないであろう。
 
 各国の国民性についてのジョークに、『世界に存在しないものが四つある。アメリカ人の哲学者、イギリス人の音楽家、ドイツ人のコメディアン、そして日本人のプレイボーイ』というのがあるが、『バロン・サツマ』こそ日本人としては稀有な世界的なプレイボーイであり、二十世紀の日本人の男性が夢見た最高のロマンの実践者であり、贅沢三昧をし尽して、美と恋愛の極限を極めた男といってよいであろう。

                                                             薩摩治郎八 (上) http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=349

 

 

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