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太平洋戦争末期の日本終戦外交ー『繆斌(みょうひん)工作』の謎

   

太平洋戦争末期の日本終戦外交

『繆斌(みょうひん)工作』の謎
                   
前坂 俊之【静岡県立大学名誉教授】
 
 
①小磯内閣とは・・きびしい船出、戦局は絶望的、和平工作は難航・
 
岡田啓介元首相ら重臣たちによって東条内閣が倒された後、昭和19年7月22日、小磯内閣が誕生した。昭和天皇は陸海軍の不協和音を解消するため、小磯国昭、米内光政両大将を呼び、「協力内閣を組織せよ」と指示して小磯内閣(米内副総理兼海軍大臣)が船出したが、戦局は日に日に絶望的になっていた。
 
杉山元陸相は小磯とは同期だったが、ライバル意識が強く、面従腹背し、陸軍内には東條の息のかかった者が依然として残っており、陸軍、参謀本部、支那総軍とも小磯首相には非協力で、「サボタージュしている」と、いわれたほどであった。
 
一方、重光外相も小磯首相を「指導者の資格なし」、「謀略政治屋にすぎぬ」と日記で酷評するなど、首相の外交への容喙には強く反対していた。「終戦模索内閣」として、首相の強力なリーダーシップと陸海軍、外相の一致協力が必要なときに、閣内は依然バラバラで、緒方竹虎国相(情報局総裁)だけが小磯を強力に支えて和平工作を積極的に行った。
 
小磯首相は決戦で一度、敵に大打撃を与えた後に和平を模索する戦略で、和平工作も秘密裏にいろいろなルートで進めていた。重光外相はソ連との工作を最重点に進めており、ソ連に特使を派遣して独ソ和平の斡旋を日本がする一方、日本と重慶政府との和平の仲介役をソ連に頼もうという計画を練っていた。
 
もう1つは重慶工作で、これは南京政府を通じて東条内閣当時から試みられてはいたが、うまくパイプがつながらず暗礁に乗り上げた。
小磯首相は戦争指導への関与を強めて、戦争指導の一元化を図るため、それまでの「大本営・政府連絡会議」を改組して首相、陸相、海相、参謀総長、軍令部長らで構成する「最高戦争指導会議」を新たに設置した。

しかし、陸海軍とも統帥権をタテに抵抗して、名称の変更以上のものではなかった。陸海軍の対立、軍内部での派閥抗争などでの情報断絶はよりひどくなり、戦局の推移、情報については小磯首相にも十分伝えていなかった。これに外務省、官庁のタテ割り、秘密主義などの官僚主義の弊害が一層輪をかけて、血液の流れがストップした場合に脳梗塞、心筋梗塞のなどの「死に至る病」につながるのと同じく、国家、政府、軍内部の情報・コミュニケーション不全は末期的な様相を呈してきた。
 

小磯首相は重慶工作を仕切るため、大東亜相の兼任を主張したが、重光外相は「外交の1元化」を理由に猛反対した。また、対支那政策の全面的再検討を主張したが、これも、杉山陸相と重光外相の猛反対に直面して、孤立した小磯自身は有効な手を打てず内心ジリジリしていた。
当初、小磯首相はフィリピン、レイテ決戦で勝利して、これをきっかけに和平工作を一挙に推し進めようという腹で、ラジオで国民に広く決戦を呼びかけた。
しかし、戦局は好転するどころか、より悪化した。9月15日、パラオ・ぺリリュー島の守備隊玉砕、10月10日には台湾沖航空戦の敗北、同20日には米軍がフィリピン・レイテ島に上陸し、レイテ沖海戦では海軍が海上決戦能力を失う大敗北を喫して、次の決戦地・サイパン、硫黄島が米軍の手に落ちれば、日本本土全面空襲の危機が目前に迫ってきた。
「和平工作をもっと急がねばならない」。小磯首相だけではなく、内閣のだれもが模索しながら、それぞれ別のアクションを起こしていた。
外務省が進めたソ連との和平工作は9月16日に佐藤尚武駐ソ大使がモロトフ外相に特派使節の派遣を提議したが、拒否され、いき詰まっていた。11月7日、スターリンは革命記念日の演説で初めて「日本はドイツとともに侵略国である。真珠湾攻撃はナチス・ドイツのソ連攻撃とかわらない」と日本を名指しで非難して、ドイツの敗北後は、対日戦争に踏み切ることを匂わせたが、外務省はその腹の内を読めなかった。
 
11月10日 名古屋で療養中だった南京政府主席・汪兆銘永眠した。このため、陸軍、外務省一体となって進めていた南京政府を窓口にした対重慶工作は見直しを迫られた。
このように全面敗北に向かって押し流される中で、小磯首相は、重慶政府との和平を最優先課題とするにことに切り替えて、緒方の線と、自らの人脈で確認した「繆斌(みょうひん)工作」の独自外交をに踏み切ったのである。
 
②繆斌工作とは何か。
 
繆斌工作とは小磯内閣の要であった緒方竹虎国務相(情報局総裁)を中心とした朝日新聞グループが進めた和平工作であった。緒方は朝日新聞副社長から入閣し、小磯が唯一腹を割って話せる人物だった。緒方は入閣すると同時に、重慶工作を練っていた。
 
 「僕が入閣を決意したとき、なにが出来るかを反省してみた。グルカナル島戦以来、この戦争は、戦争だけでは勝てないと考えていた。それには重慶と交渉し戦局のバランスを破るほかはない。その時、昨夏、南方視察のときに会った繆斌を思い出した。繆斌は重慶と特殊の関係を有する意味で、南京政府内の特異の存在である。

小磯首相もかねてから懇意であったので、のり気になり膠斌を呼ぼうではないかという話になった」と緒方国相秘書官の中村正吾は『永田町一番地(外交敗戦秘録)』【ニュース社】(昭和21年刊)の中で内幕を語る。

八月十四日に緒方は松井支那総軍参謀長と繆斌に手紙を書いた。松井からは返事が返ってこない。そのうち柴山陸軍次官(南京政府の軍事顧問兼陸軍中将)がきて「総理の名で繆斌を呼ぶのは南京政府との関係上困る。擢斌が自発的に渡日するなら、飛行機の斡旋をする」という。
 
しばらくして柴山が、再び緒方に会い「繆斌の問題は打切ってもらえぬか。重慶との交渉は南京政府を通じてやる。重慶を裏切った繆斌では重慶が聞くわけはない」と断ってきた。このため、緒方は断念し、膠斌の来日は一時中止となったが、支那総軍、南京政府、陸軍、外務省も縄張り根性から和平工作の足を引っ張った。
やむなく小磯首相は陸軍士官学校同期の親友で支那通の山県初男元陸軍大佐を支那に派遣して、重慶工作に当らせ、緒方も朝日時代の部下で綴斌と親しい田村真作(元朝日新聞北京支局員)を通じて情報を確認して、工作を推進した。
田村は昭和7年に朝日に入社し、振り出しの仙台通信局で第2師団【仙台】の東久邇宮や同師団第四連隊隊長の石原莞爾と親しくなり、熱烈な石原の信奉者となった。

その後、政治部に転じて陸軍省記者クラブ詰になり、昭和12年7月の盧溝橋事件当時の石原作戦部長ら少数派の「不拡大方針」と大部分の拡大派の激突をつぶさに取材した。敗れた石原は関東軍副参謀に終われ、退役して東亜連盟を主宰して反東条の急先鋒となった。一方、支那事変は石原の予言通り、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」.「支那は一撃で倒せる」という陸軍の驕りで戦線が無制限に拡大、「支那政府を相手にせず」という近衛声明の外交失敗が重なって誤断によって日中戦争が泥沼化、太平洋戦争へと坂道を転がるように突き進んでいったのが、その後の経過である。

一方、田村は昭和14年春に、朝日北京総局に転勤して、北京で支那人を無視してわがもの顔に振舞う陸軍軍人と興亜院の役人、国策会社や業者たちの腐敗と堕落、中国蔑視の姿をみて義憤を感じて、同15年に朝日新聞を退社して、フリーの立場で日華親善の民間外交に尽力しようと、石原の東亜連盟の運動に身を投じた正義漢であった。
そして、敗戦の迫る昭和19年夏に小磯内閣に先輩の緒方が情報局総裁として入閣すると、最後のチャンスとばかり繆斌工作に取り組んだのである。
 
③繆斌とは何者か
 
この和平工作のキーマンとなった繆斌とは一体何者なのか。
 
 繆斌は1903(明治36)年3月、中国江蘇省無錫の道学者の家に生まれた。上海の南洋大学電気学科を卒業、この時東林学派に入門して陽明学を勉強した。その後、孫文が創設した黄捕(くちへんの補)軍官学校の電信教官になる。この時の校長が蒋介石で、同校の政治部副主任が周恩来【その後の中国共産党書記】であった。周恩来は学内に「青年軍人同盟」を創設してサークル活動を行ったのに対して、膠斌は「孫文主義学会」を作った。のちの蒋介石の側近ナンバーワンで軍統局長の戴笠(たいりゆう)は、この学会四期生で膠斌の教え子であった。2人は生涯、師弟関係が続いたのである。
膠斌は蒋介石、何応欽(かおうきん)将軍指揮下の国民党の北伐軍に参加して、昭和元年、2年(1925,26)に戦った南昌攻略戦(対中共軍との戦い)で大きい武勲を挙げて、蒋介石に認められ、昭和3年の国民政府統一後は24歳の若さで陸軍中将、国民党中央執行委員、江蘇省政府民政庁長にも抜擢された。この間、蒋介石に勧められてアメリカの農業研究に留学派遣された。
しかし、ここで収賄事件を起こして失脚した。その後、陽明学と孫文主義の研究と同時に日本研究もしっかり行っており、覇道政治ではなく、王道政治にのみ武力を認める、という彼の思想をまとめた「武徳論」を昭和10年に出版した。同じ年に日中友好を説いた『日中危機之猛省』という冊子も出している。
 
日本語をさらに勉強し、日本文化の研究を深めるため、昭和11年2月末に一家で来日して日本研究に没頭、日中和平を後藤成卿、頭山満ら右翼関係者や日本側の要人に説いて回わっていた。ここで日中間を橋渡しする人物として活動した。
その後、中国にかえり、国での新文化運動にたずさわり、中国東亜連盟、新民会を設立運動にも中心的な役割を果しており、数少ない日本文化のよき理解者でもあった。昭和十三年、華北臨時政府のもとで、国民党に反対する新民会の指導者、同副会長となったが、汪兆銘政権樹立の際、日本軍の推薦によって国民政府委員、次いで立法院副院長となった。
 
田村と繆斌が知り合ったのは田村が北京支局長として赴任した昭和14年春以降のことで、同じ志を持つ者としてすぐに意気投合して生涯の知己となった。
繆斌の妻の実家は上海の名門・栄家であり、上海にも豪邸があった。田村はここも何度か訪れ 繆斌の知人にたくさん紹介された。その中に藍衣社の人物もいた。藍衣社とは、暗殺団として恐れられていた結社で、蒋介石直系の秘密の軍事組織でもある。支那人の間では「復興社」と呼ばれていた。正式には国民党軍事委員会調査統計局(軍統局)で繆斌の教え子・戴笠が主宰していた。
昭和15年に南京政府【汪兆銘政府】が誕生すると、繆斌は立法院副院長という重要ポストについたが、2年後の昭和17年1月に事件が起きた。南京の日本大使館から「重慶との連絡をつけてほしい」という依頼で書いた手紙が、南京政府特務警察隊によって押収され、汪兆銘は重慶政府とのスパイ容疑で極刑を課すことになった。
この時、当時駐中大使をしていた重光葵から待ったがかかり、江兆銘に「繆斌は死刑から、考試院副院長に左遷して穏便に事をおきめさめるよう」に進言した。日本大使館も支那派遣軍も繆斌を通じて情報を収集しており、2重スパイとして利用していた可能性が高い。
この時の繆斌が連絡を取っていた重慶側の相手が戴笠であった。この繆斌-戴笠の線を通じて蒋介石とのパイプを実現しようとするのが田村、緒方ラインの狙いで、田村は石原莞爾、東久遷宮、緒方竹虎らを通じて東京の中央部へ働きかけるという工作である。
 
一方、小磯内閣書記官長・田中武雄は南京政府の監察次長時代に繆斌をしっており、小磯首相ら陸軍関係者にも繆斌は名を広く知られており、特務機関も当然、ご承知の上のことであった。繆斌の評価は二分されており、大陸の軍関係者、陸軍、外務省などは「二重スパイ」「陰謀家」「和平ブローカー」など胡散臭い、理解できない中国人との見方が強かったのである。
 
④米英中はカイロ宣言を発表
 
ところで、和平工作は2国間だけの関係ではなく、グローバルな外交の文脈のなかで、多国関係の上にもつれた糸を研ぎほぐしていかなければ成功しない。そんな外交のイロハのイさえ、当時の陸軍、外務省は理解していなかった。最後まで中国への驕りとメンツにこだわり、自ら下した過去の失敗を清算できなかった。小磯内閣発足直後の年9月18日の最高指導会議では、重光外相の強い意向で「重慶工作は南京政府のみが行なう」方針を決めたが、これに最後まで自縛されていた。
 
米英ソ連の連合国は戦争も終結に入り、日本の権益の分け前をめぐって熾烈な外交戦を繰り広げていた。重慶政府・蒋介石側も、この超大国の思惑に翻弄され、自国の権益を確保のため日本との和平工作は緊急の課題となってきた。
昭和18年12月1日に米(ルーズベルト大統領)英(チャーチル首相)中(蒋介石)の首脳は日本の戦後処理に関して会談し、カイロ宣言を発表した。米英中の対日戦争継続の表明と日本の無条件降伏、満洲、台湾、澎湖諸島などを中華民国に返還して、朝鮮の独立 第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪などを取り決めた。
ところが、一九四五年二月四日から十一日にかけてのヤルタ会談ではルーズベルト、チャーチルとソ連・スターリンの3国のみのトップ会談で、蒋介石ははずされた。ここで交わされたヤルタ密約では
 
    ドイツ敗戦後2,3ヵ月のうちにソ連が対日戦争に参加する。
    南樺太はソ連に返還する。
    大連においてソ連は優先的利益を持つ、旅順の租借権はソ連に回復する。
    満鉄はソ連の優先的利益は保証される。
    千島列島はソ連に引き渡される。
 
―となっていた。ルーズベルト、チャーチルは蒋介石に1言の相談もなく、中国側の主権を踏みにじって、スターリンと取引して、中国側にはしばらくの間秘密にしておくことを決めていた。
ルーズベルトにとってはソ連をいかに対日戦争に引きずり込むかに頭がいっぱいでで、日ソ中立条約の存在や、中国の主権の侵害などはどうでもよく、米ソ英とも意識の底流には中国無視の態度強く流れていた。
 
二月九日、チャーチルは、日本の無条件降伏について四国共同の最後通牒を発したが、「この戦争が、1年でも半年でも短縮されるならば、無条件降伏は緩和をしてもよい」とのニュアンスの呼びかけを行った。これに対してルーズベルトは、「世界で起こっていることについてまったく無知であり、いまだに満足できる譲歩が得られると考えている日本人に、そのような条件緩和を行うことが効果のあるものだとは思えない」と一蹴した。(長谷川毅『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社、2006年)中国同様、日本などまるで眼中になかったのである。
 
ヤルタの米ソ密約「ソ連の対日参戦」はすぐ蒋介石の耳に入った。スターリンが「対日参戦の見返りとして」中国側の権益取得を要求し、ルーズベルトも蒋介石に全く相談することなく容認したことに蒋介石は激怒し、米ソへの不信感をいっそう募らせた。「ヤルタ会談で果たして中国は売られてしまったのだろうか。そうであるならば、会談で、ソ連の対日作戦参加は決定したと断定できる。」(蒋介石秘録)で書いている。
 
 日本の敗戦は即、中国の内戦へと発展する。蒋介石の国民政府対毛沢東共産政権の内戦へ。これまでタテとなっていた日本軍の敗戦で、ソ連が満州に攻め込んでくれば、中ソ共産主義が合体し「中国全体の共産化」の脅威が一挙に増し、国民政府が敗北する可能性が高まる。
 
こう判断した蒋介石は日本との和平を模索し日本が敗北する前に、重慶政府から北京、華北、満洲は遠く、共産主義が浸透するまでに、日本軍の占領地域を一刻も早く接収するため、和平工作をいそがねばならない。ここで、日中の利害は一致したのである。
 
   繆斌の来日
 
昭和19年12月13日の最高戦争指導会議で、小磯首相は「南京政府は重慶工作に不熱心なので対支那政策を根本的に再検討したい」と方向転換を提案したが、重光外相、軍令部総長、参謀総長、陸相らは「出先機関にこそ権限を与えるべきだ」など口々に反対した。小磯は外相に巻き返しに出て、十二月十七日、記者会見で内閣改造に言及し重光外相が兼任の大東亜相を二宮治重文相(陸軍中将)の専任にすると発表したが、重光は外相をやめると抵抗して、内閣改造を断念させた。繆斌工作は依然前には進まず、小磯は焦燥感にかられていた。
 
昭和20年2月19日、硫黄島の決戦がはじまり、2週間で占領すると豪語した米軍に対して1ヵ月以上を持ち応え栗林中将以下はついに全員玉砕した。もはや一刻の猶予も置けない。小磯首相は繆斌工作に本腰を入れた。
山県の線で蒋介石と直結するルートとして繆斌を確認し、緒方とダブルチェックし、重慶政府の条件を探った結果、小磯総理は繆斌を招請することに踏み切った。当初、謬斌は重慶側との連絡用に無線電信技術者ら七人の一行でいくことを要望し、小磯もその通り陸軍に指示したが、支那総軍は強硬に反対し、結局、繆斌は無線機の携帯も認められず単身で 3月16日、米軍の東京空襲によって焦土と化した羽田に降り立った。
 
3月18日、繆斌は小磯首相に会う前に防衛総司令官・東久邇宮と会談して「日本では天皇以外に誰も信用できない。殿下を通して、天皇の耳に取り次いでいただきたい」と率直に話し、東久邇宮は「胸襟を開いて話し合える人物」とすっかり信頼した。即日、小磯首相に報告して、繆斌工作に努力していくことを要請した。
意を強くした小磯首相は3月21日の最高戦争指導会議で繆斌工作による日中全面和平実行案を提案した。条件は
 
① 南京政府を即時解消する。
②南京政府の自発的な解消声明を行なう。
③民間有力者によって「留守政権」を組織する。
④日本軍が自主撤兵する。
 
などで、小磯首相が説明して審議にはいったが、たちまち閣内は反対論一色となった。
 
重光外相、杉山陸相、米内海相、梅津参謀総長らが次々に「繆斌はこれまで重慶の回し者とみられていたが、どのような資格で来たか、確かめたのか」「蒋介石の親書、委任状をもってきたのか、繆斌には肩書きがないし、そんな仲介者と和平交渉は出来ない」「南京政府からは繆斌は信用できない人物であるという報告がきている。南京政府の倒壊を目的とした和平ブローカーだ」「相手が何者なのか十分に確認せず、たとえ情報蒐集にしても危険この上もない。」「この工作は外交大権への干渉だ」「日本軍が撤退中に米軍が大陸へ上陸してきたら、どうするのか」など反対意見が続いて紛糾した。
 
東久邇宮は「『蒋介石は相手にせず』と日本側が言っているのに、重慶から正式の使者が来るはずがない。支那は昔からの慣例とし、内々で交渉して、その話がまとまったところで公式談判が始まる。信用ができるかできないかは、やって見てからのこと。もし騙されてもよいから、やって見てはどうか」と積極的に支持する発言を行い、緒方も「謬斌の信頼性について問題になっているが、いまの時期に重慶と連絡できるのは彼くらいしかいないではないか」と反論した。
 
小磯首相は繆斌が無線を持ってきていないため、重慶と本当につながっているかどうかを確認させるため官邸から無線連絡させるとまで発言。これには米内海相が唖然として「一国の総理がこのような人物を招致して重要な会談をするのは無謀すぎる」と反対に回った。
結局、小磯首相は次回に協議したいとそのまま退席したが、残った外相、陸相、海相らは一致して「余りに無謀な行動で、会議を続行する必要ない」 と会議を打ち切ってしまった。
陸軍、支那総軍、海軍、外務省とも自らの政策失敗を認める路線変更に猛反対し、小磯、東久邇宮、石原莞爾、緒方らの朝日新聞の共同工作をつぶしてしまった。この期におよんでもメンツにこだわり、「溺れる者はわらをもつかむ」惨めな姿をみせたくなかったのである。
 
3月24日、小磯首相は繆斌工作を実現するためには反対の急先鋒である重光外相を更迭する以外にないとして、吉田茂元駐英大使を外相に据える内閣改造を行う方針を固めて木戸幸一内大臣と相談したが、これもつぶされてしまう。
 
3月末までの交渉期限が刻々と迫ってくる。繆斌は30日、駐日南京政府大使館から南京、上海を経て重慶政府に期限延長を打電して、二日間延長の許可をえて、田村が山形にいた東亜連盟運動の指導者・石原莞爾を東京まで担ぎ出して、実現にむけてぎりぎりの努力を行なった。小磯首相、緒方国務相は米内海相、柴山次官にそれぞれ再考を求めたが拒否され、最後の手段として、4月2日に小磯首相は昭和天皇に繆斌工作を単独上奏した。
 
⑥ 工作失敗、小磯内閣総辞職、繆斌は処刑
 
昭和天皇にはすでに、重光外相らから情報が入っており、「南京政府を取り消すことなど国際信義にもとる。重慶の回し者と疑われている者を呼んで来るとはいかがなものか、帰国させた方がよい」と指示した。 
 
小磯首相は「もう毒がまわっていて駄目だった。」と工作断念を緒方に告げて、4月5日、小磯内閣は閣内不一致で総辞職した。繆斌は政府と軍から即時退京を命じられたが、「使命は失敗に終わっても日本の桜の満開を眺めたい」と希望し、東久邇宮の庇護で四月末まで東京に滞在して、上海に帰国し、工作は幻に終わった。太平洋戦争中に、最高戦争指導会議で論議された唯一の和平工作だったのである。
 

 日本敗戦から7ヵ月後の21年3月22日、繆斌は国民政府に突然、逮捕され上海の杜月生公館に収容された。4月3日、蘇州の江蘇省高等法院で裁判が始まり、一週間後に公判なしで死刑の云い渡しがあり、上告却下で死刑が確定し、5月21日朝、蘇州獅子口第3監獄で漢奸第1号として銃殺されてしまった。

 
「この銃殺の事実こそ、繆斌がイカサマ師、和平ブローカーであり、重慶政府・蒋介石とは全く繋がっていなかったことを証明するもの」と戦後、繆斌工作に一貫して反対した重光外相や支那総軍の南京政府顧問・今井武夫少将らは理由にあげて、この和平工作の信憑性に疑問を投げかけ、これが定説化していた。

横山銕三『繆斌工作成ラズ』(展望社、1992年)によると、粛好委員会委員長・戴笠は昭和20年末には漢奸の追及、処罰は終了したと表明した。政府が戦勝にわきかえた翌21年春の国慶節に、蒋介石は「繆斌の新民主主義」に対して褒賞金8万元を授与していたことが判明した。この褒賞額八万元と記した出版物も入手した。 この時、繆斌は一族を招き、上海の国際飯店二階豊沢園で祝宴を催した。この時の「褒賞状の内容は抗戦に協力した功を賞する、と云うものであったが、項家瑞も共に褒賞されたことによって、不成功に終ったとはいえ、中日和平工作の労を褒賞したことは明らかであった」【同書】と見る。
 

ところが、3月17日に粛好委員会委員長・戴笠の飛行機が事故にあい墜落して、戴笠の遺体が20日に発見された。蒋介石はすぐに現場に駆けつけこの側近ナンバーワンを悼んで遺体に抱きついて号泣したという。これから、1ヵ月後に事態は急変し、繆斌の逮捕、処刑となったが、一体何があったのだろうか。
この間に、「東京裁判に提出された木戸日記から、繆斌と東久邇宮の会談を知った中国の検事が 繆斌を証人として喚問するかも知れない」との情報が国民政府・蒋介石の耳に入った。共産政府は蒋介石が米英を欺きひそかに日本と取引していたことを宣伝工作として大々的に流す恐れが出てきた。一方、東京裁判に繆斌を出廷させない口封じのために急遽、方針を変更したというのが真相ではないかと、横山らの調査チームはみている。。
 
「突然の彼の逮捕(保護収容)は東京裁判の証人喚問防止のため。獄中で女中付という特別待遇は、蒋主席が当初死刑執行の考えがなかったことを証明しよう。当時、国共内戦が発火寸前にあり、延安の共産政府は→蒋介石は繹斌を使って対日投降を策した」と非難し世論を有利に展開した。帝王席は泣いて馬護を斬ったのである」【同書】
 
真相追究の内容は以上のようなものだが、繆斌と重慶政府・蒋介石とは太いパイプがあり、一貫して続いており、証拠物件や関係者の証言も掘り出して繆斌工作が本物であったことを明らかにしている。ただし、歴史にifはないが、同工作が仮に成立して、小磯首相、陸軍中央で命令しても現地支那軍は撤退を実際に行なったであろうか。その実現性はその後の敗戦の土壇場までの経緯に照らすと可能性は少ないのではと思われる。
それだけ、日中間の不信感は強く、日本側の不信感以上に、情報が重慶政府首脳部に伝わったかどうかは疑問だし、蒋介石の当時の行動は日本との和平をちらつかすことによって、アメリカからの援助の増大を図ろうとする形跡も見られた。日本側の要求が過大であったばかりでなく、その内容が絶えず変動し、情勢判断があまりにも甘く、終始、後手を引いた外交音痴ぶりを象徴のようなケースであった。
 
 
 
 

 - 現代史研究

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