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『インターネット江戸学講義②』★『諸国を遍歴、漫遊して芸術創造にまい進した“歩くノマド”たち』★『51歳から諸国を測量の旅に出て地球一周を歩き続けてライフワークの「日本地図」を完成した「伊能忠敬」

      2025/12/25

 

人生50年といわれた江戸時代のこと。伊能忠敬(1745~1818年)は、寛政7年(1795年)51歳のときに幼い頃から興味を持っていた暦学・天文学を本格的に学ぶため、家業の醸造業を息子・景敬に譲って、江戸に出て浅草にあった幕府の天文方暦局(星を観測して暦を作成する部局)を尋ねた。
そして、当時天文学の第一人者であった幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に会い、門下生として入門を懇請したのである。この時、師匠となる高橋至時は彼より20歳近くも年下の32歳の若造であった。至時がいかに優秀だからといって、年長を敬い面子を重んじる封建・儒教社会において、20歳も年下の若者に弟子入りすることなどあり得なかった。それでも忠敬は自らのプライドを捨て、頭を下げて至時への弟子入りを請うたのである。
 
至時は当初忠敬の入門願いを年寄りの酔狂な道楽ぐらいにしか思っていなかった。しかし、その後忠敬が何かに憑かれたように昼夜を問わず猛勉強している姿を見て心を強く打たれ、彼を「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)と呼んで敬うようになった。
 
 その当時暦局にいた人々の最大の関心事は、「地球の直径は一体いくら位なのか」という素朴な疑問であった。忠敬も天文学や測量術を学ぶ一人として、その疑問に大きな関心を持っていた。オランダを始め西洋の天文書の知識から、「地球は丸い」ということだけはわかっていた。しかし、それでは地球の外周や直径はどの位の大きさなのかはよく分からなかったのである。
 
そこである時、忠敬は天体観測を応用して「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、それで2点の距離が分かれば球体である地球の外周を計算でき、直径も割り出せるのではないか」と至時に尋ねてみた。
彼の提案を聞いた至時は「基準となる2点の距離が短過ぎては不正確となる。その距離が長ければ長いほど誤差が少なくなる」と指摘した。「それではどの位の距離を測ればいいのか」と忠敬が尋ねると、至時は「江戸から蝦夷地までの距離を元にすれば、推測が可能だろう」とアドバイスした。この時の至時とのやりとりは、後年忠敬が日本中を歩き回り、日本測量の旅に出る重要なきっかけになったものである。
 
 実際に距離を測るといっても、江戸から蝦夷地まで、その距離はあまりに遠い。50歳をすでに過ぎた老人が蝦夷地まで自ら歩いて測量の旅に出るのは無謀にさえ思えた。
それだけの距離を歩くには相当の体力とトレ-ニングが必要だ。それに幕府の援助が期待できないから、私財を投じてすべて自費でやるしかなかった。家業を再興して蓄財してきた私財を当てれば資金の工面は何とかできたが、自分の体力や健康など様々な困難や心配事が脳裏に浮かび、すぐには決心がつかなかった。
 
 それでも彼の決意は固かった。「自分の足で蝦夷地まで行き、測量を行いたい」という気持ちは揺るがなかった。蝦夷地に行くには幕府の許可が必要であった。そこで、至時が考えた幕府説得の名目は、「地図を作る」というものであった。
 
当時、日本沿岸にロシアなど外国艦船がやって来ても幕府にはそれを追い返せる艦船がなく、それどころか国防(海防)に欠かせない正確な日本地図さえなかった。そのため、幕府は「地図を作る」という目的なら、蝦夷地だけでなく東日本の測量を行ってもよいと許可したのである。
ただし、その費用を幕府が援助することは一切なかった。その費用はすべて自費で賄うしかなかったのである。忠敬は当時幕府に送った手紙の中で「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を何としても作りたい」という思いと決意を書き留めている。
 
寛政12年(1800年)56歳のとき、忠敬は江戸を出発して、奥州街道-蝦夷地(太平洋沿岸)-奥州街道にいたる日本沿岸の測量の旅(第一次測量)を開始した。忠敬の測量は原則として沿岸測量であった。およそ3年間をかけて、彼は蝦夷地太平洋沿岸と奥州・東北の東日本沿岸の測量を終えた。
 
彼の測量方法は、「導線法」と呼ばれる多角測量法であった。それは一地点から次の地点へと次々と方位と距離を測る方法である。距離は藤つるや竹でできた物差しや歩幅で測り、歩幅が一定になるように訓練し、数人が歩いて歩数の平均値を出して距離を計算した。海岸などの曲がり角には梵天と呼ばれる竹竿を立て、前の地点から目標地点への角度を小方位盤という器械を使って測った。
 
そして、誤差が大きくならないように時々遠くの目標となる山を「象限儀」(しょうげんぎ、北極星や恒星など天体の高さを測って緯度を求める器械)を使って修正しながら精度の確保に努めたのである。旅行中ずっと、昼は測量に専心し、夜は毎夜宿舎の近くで、象限儀を使って緯度を計測し、両方のデ-タを突き合せ比較しながら、誤差があれば修正した。こうして得た膨大な測量デ-タを整理して、彼はノ-トに細かく書き込んでいったのである。
忠敬は、蝦夷地・東日本の測量を終えてから当初の目的であった地球外周の大きさの計算に取り掛かった。彼が測量で得た数値から地球の外周を約4万キロメ-トルと推測した。彼の推測値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかないきわめて正確なものであった。
彼は東日本沿岸の測量を終えてから、測量結果を基に作成した地図を11代将軍徳川家斉や幕府の役人たちに披露した。その精密な地図を見て、幕府の役人たちはあまりの正確さに驚いた。彼らは、忠敬の測量結果や作成した地図がきわめて正確で高度なものであることを認め、その測量事業を支援することを決めた。
 
そして、九州、四国を含めた西日本沿岸の測量を行い、地図を作成せよ」と命じたのである。彼が私財を投じて個人的に行ってきた測量事業が、これ以降は幕府直轄事業に格上げされた。幕府の後援を得て、船や人馬を無賃で使用することが許可されるようになった。文化元年(1804年)には、御家人に取り立てられ、忠敬の測量と地図作成は幕府の事業として正式に認められたのである。
 
文化2年(1805年)61歳のとき、忠敬は江戸を出発して西日本沿岸の測量の旅(第5次測量)を開始した。幕府直轄事業に格上げされ、幕府の経済支援もあったことにより、測量隊は100名を超える大規模となった。忠敬にとって、日本測量の大事業はもはや途中で止める事のできない、まさに人の為、天下の為に命懸けで成し遂げる覚悟であった。しかし、60歳を越えた忠敬にとって心配された体力の衰えはどうしようもなく、それに中国・四国・九州の測量の旅は東日本の時に比べてはるかに過酷で困難が伴った。そのため、彼の身体はぼろぼろとなり、足腰は弱り、歯はほとんど抜け落ち、食事も満足に食べられないほどであった。
 
文化2~3年(1805~1806年)にかけて、紀伊半島・畿内・中国地方一帯を測量した第5次測量において、伊能測量隊は安芸・広島藩の支援を受けて瀬戸内海を測量した。広島藩は大規模な船団を用意し、「関船」(せきせん)と呼ばれる大型の軍船まで使って測量が行われた。「浦島測量之図」にはこの時の様子が描かれているが、幕府の直轄事業だったので、広島藩も丁重な態度で臨み、村落では測量用の小船や漕ぎ手など人足だけでなく、事前に村の地図も差し出したといわれる。
 

忠敬は、寛政12年(1800年)の第1次測量から文化13年(1816年)の第10次測量まで、17年間にわたって自分の足で北は蝦夷地から南は九州鹿児島まで、合計9回の測量の旅に出て日本中を歩き続け、日本全国を測量する大事業を成した(高齢や体調を考えて、第9次測量の旅には参加しなかった)。測量の旅は短くて約100日、長いものでは900日を越えていた。彼が17年間で日本全国歩き続けた距離は地球の外周と同じ約4万キロメ-トル、それに要した日数は3753日であった。当時の平均寿命が50歳位、それに200年前の江戸時代の危険な海岸線や道路事情の悪さなどを考えると、平均寿命をはるかに超えた老人がこれだれの超長距離を自らの足で歩き続けたことは驚異的なことである。まさに「日本中を歩き続けた命懸けの大仕事」であった。

 
忠敬はすべての測量事業を終えてから、それらの測量結果を元に日本地図の作成に取り掛かった。しかし、既に70歳を越える高齢であり、休みなく続けた過酷な測量事業の無理が重なって、体力も弱り果て肺を患って病床に伏した。そして、彼はそのまま回復することなく、文化15年(1818年)4月13日に亡くなった。享年、73歳であった。彼は生前、病床で「私が日本測量の大事業を成し得たのは高橋先生の賜である。先生の墓の傍に私を葬ってほしい」と師への感謝の言葉を残している。言葉通り、忠敬は高橋至時が眠る江戸・浅草の源空寺に葬られた。(彼の故郷・千葉県佐原市の観福寺にも墓がある)
 
忠敬の死後、その喪は伏せられた。その間に高橋至時の長男景保の指揮により忠敬の意志を受け継いだ人たちによって、測量結果を基に日本地図の製作事業が続けられ、文政4年(1821年)に「大日本沿海輿地全図」(伊能図)が完成した。出来上がった大日本全図は早速江戸城の大広間で披露され、立ち会った幕府の役人たちはその地図の正確さや見事さに驚愕したという。
 

 

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