「日本風狂人伝集⑥歌人・若山牧水「生来、旅と酒と寂を愛し、自ら三癖と称せしが命迫るや、静かに酒を呑み・」★『「酒のめば心なごみて涙のみ 悲しく頬を流るるはなそ」』★『幾山河越えざりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく』
日本風狂人伝⑥
前坂 俊之(静岡県立大学国際関学部名誉教授)
歌人の若山牧水は、「生来、旅と酒と寂を愛し、自ら三癖と称せしが命迫るや、静かに酒を呑みつつ四十四歳の生涯を閉じたり」(牧水生家記念文碑)という人生を送った。
家は玄関から縁の下まで、空になった徳利が砲弾のようにところ狭しと並んで、まるで酒蔵同然だった。一日一升、一ヵ月に四斗タルを軽くあけた、という。
牧水は日向(宮崎県)東臼杵郡の出身。父立蔵は郡内で有名な酒仙として名が知られていた。往診に行くと患者の家でも酒でもてなした。二合半入りの徳利一本をさもうまそうに飲みほすと、病人を安心させるために、世間話などをする風流な田舎医者として聞こえていた。牧水は医者をきらって文学を志した。
牧水の酒豪ぶりはこの父親ゆずりであった。母親も〝一升洒″の異名があり、父立蔵も祖父から「お前のノドは大きくて家も蔵も飲み込んでしまう」と言われたほどの両親そろって大酒飲みであった。ある日、牧水が母親に恐る恐る「もう酒をやめたいと思いますが、どうでしょうか」と相談した。
母親は賛成するどころか、逆にピシャリと言った。
「お前の体は酒で焼き固めてあるから、やめてはいかんゾ」。
牧水はこの母の一言で、ますます飲むのがやめられなくなった。
この母を詠んだ歌に「飲むなと叱り叱りながら母がつぐ うす暗き部屋の夜の酒のいろ」というのがある。
酒の体表的な歌に「 白玉の歯にしみとはる秋の夜の 酒はしづかに飲むべかりけり」があるが、牧水の二十代半ば頃の作。牧水の酒は朝から昼、夜はもちろん四六時中飲み明かすタイプで一日の定量は約一升、しかしこれはあくまで定量で一升でおさまるはずがなく、一か月に四斗樽一本で足りないことがしばしばであった。
「創作」創刊の頃、徳利を下げた牧水が窪田空穂をぶらりと訪ねた。
空穂が「私は酒がだめだ」と言うと、牧水は呆れたような顔をした。また、空穂が「君はなぜそう酒を飲むんだ」と聞くと、牧水はまじめな顔で「そんなことを言ってくれるな、朝、目が覚めると、どうにも寂しくてたまらない。少し飲むと、ようよう普通の心持ちになれるのだから」と言った。空穂は嘆息して、まだ二十代の若い牧水の顔を今更のように見た。
大正時代になると、牧水も歌人として有名になってくるが、奇行も目立ちはじめる。
ある時、酔いつぶれた牧水が都内の電車の線路に、大の字になって寝ころんだ。
電車の車掌や運転手、通行人らが、起こそうとしてもテコでも動かない、とガンバった。ヤジウマが集まり、大騒ぎとなり、十数台の電車がジュズつなぎとなって立往生。
牧水は両手足をかつがれて、やっと排除されたが、この珍事件以来、〃電留朝臣″のニックネームがつけられた。この時も北原白秋も一緒だったという説がある。
また、神楽坂で大トラになった牧水が牛込見附のお堀端までくると、着物のままでザンブと飛び込んだ。ヤジ馬が集まって大騒ぎ。別の酔っ払い男が 「おい、死ぬバカがあるか」と飛び込んだ。二人は水中で組んずほぐれつの取っ組み合いをしていたが、そのうち仲よく水中から上がってきて、男が牧水に 「のみ直しだ」といって二人でどこかへ消え去った。
夜半、 牧水はどこかの家で濡れた着物のままで寒さにふるえて目がさめた。こっそり逃げ出したという失敗談がある。
牧水の余りの貧乏を見兼ねて、友人たちが世話をし、牧水は「中央新報」記者になったことがあった。社会部記者として、春の日、横須賀の駆逐艦の進水式を取材した。新橋駅から汽車に乗り、横須賀へ向かったが、逗子までくると沿線に菜の花が咲きほこり、青い海がキラキラ輝いている。
牧水は逗子駅で下り、浜辺で寝ころんで、歌を作り遊んだ。「どうせ進水式の記事など、鎮守府長官がオノで綱を切ると、軍艦が船台をスベリ落ちて型通りに進水する。見る必要もない」と。
記事は頭の中で書いて「軍艦は艦首を春風にひらめかして堂々進水……」と送った。進水は艦尾からすることを知らなかったため、デタラメの記事がバレて、すぐ首になってしまった。
牧水は北原白秋と早稲田大(高等予科一年)で同級で友人であった。 明治三十七年夏から、東京・牛込穴八幡下の下宿屋に、二人は同宿していた。同じ二十歳で、牧水は日向(宮崎県)東臼杵郡東郷村で、白秋は筑後柳河という九州同士で意気投合して、一緒に下宿した。
二人とも酒が大好きで、一緒に飲んでは語り合い、学校をさぼっては武蔵野の林を散歩した。二人とも学校は中退し、白秋が水郷柳河の思い出を詩として、牧水は山間や渓谷を放浪して、感傷的な歌と紀行文はでそれぞれ有名になった。
牧水は白秋と友人だった萩原朔太郎ともで知り合い、たびたび会っていた。
大正のある日、群馬県前橋市内にある萩原の実家に、きたないかっこうのコジキ坊主が訪ねてきて「朔太郎君はいますか」と、ぶっきらぼうにたずねた。
朔太郎は不在で、応対に出た父親はワラジに巻キヤハン、着物姿の尻をはしょり、鳥打喝腰には雑用入れの皮袋という異様なスタイルを見て、てっきり「不良記者のゆすりけ‥」と思い、追い返してしまった。
帰宅した朔太郎は「若山と名乗らなかったか‥…・」と父親に聞き「そういわれれば…」と答えると、「あれが有名な若山牧水ですよ。なぜ、止めなかったの」と残念そうに言った。
晩年の牧水は揮毫行脚で全国を旅することが多く、北海道や朝鮮各地にまで足を運んでいる。揮毫のおりには、傍にコップか大きめの湯呑みに酒を入れて置き、まずそれを少しずつ味わうように飲んだ。やがてそぞろに立ち上がり、着物の尻を端折ってズボン下姿になって半折をまたぎ、心持ち両膝を曲げて前かがみになって筆を下した。その姿は軽快で、いかにも飾りけのない柔かさがあった。(大橋松平『若山牧水』)
酒を心から愛し、わらじばきときゃはんの旅を好んで放浪し、田舎の居酒屋へとびこんで地酒を飲み、陶然と酔えば樹下だろうと道端だろうと寝転んでは、空を眺めた牧水は吟遊詩人そのものだった。牧水はよく通るテノールで、酒に酔い陶然としてくると、「小諸なる古城のほとり」や自詩を朗々と歌い、回りの者を聞きほれさせた。
旅に出ると山深い馬小屋などで、馬子とともに、にごり酒をくみかわし、イワナ釣のおじいさんを相手に酒を飲んだ。酒が入らないと歌も揮毫もできなかった。
昭和三年に四十四歳で亡くなるまで七千首を詠んでいるが、酒と旅に関しては特に秀歌が多い。
「人の世に楽しみ多し然れ共 酒なしにして何の楽しみ」
「それ程にうまきかと人の問たらば 何と答へむこの酒の味」
「酒のめば心なごみて涙のみ 悲しく頬を流るるはなそ」
「酒のめば涙流るるならはしの それも独りのときに限れり」
「幾山河越えざりゆかば寂しさの はてなむ国ぞけふも旅ゆく」
晩年の牧水は歌壇随一の選者となった。一家の生計はこの選科によって支えられていた。しかし、投書の大部分は随分難儀なものばかりで、時間もかかるし、結果的に、選者の創作慾を鈍め、創作力を減ずる。生活のために、これを選んだが、その全国への歌会への旅が酒会ともなり、体を蝕んでいった。
「旅で飲む酒は全くうまい。しかし私などは、その旅先きで、ともすると大勢の人と会飲せねばならぬ場合が多い。各地で催される歌会の前後などがそれで、酒好きだということを知っている各地方の人達が、私の顔を見ると同時に、どうかして飲ましてやろう、酔わしてやろうと、手ぐすね引いて、私の一顰・一笑を見守っている。したがって私も、その人連の折角の好意や好奇心を無にしまいため、強いても旨い顔をしてむのであるが、事実はなかなかそうでない場合が多いのだ。これは底を割ると、両方とも極めて割の悪い話に当るのである。
どうか諸君、そうした場合に、私には自宅において飲むのと同量の三合の酒をまず勧めて下さい。それでもし私がまだ欲しそうな顔でもしていたら、もう一本添えて、それきりにして下さい。そうすれば私も安心して味い、安心して酔うという態度に出ます。そうでないと、今後私は、そうした席上から遠ざかって行かねばならぬかも知れない。これは何とも寂しいことだ。」と本人も書いている。
(同上)
一九二二年(昭和三)九月十七日、牧水は肥大性肝硬変で四十四歳の若さで亡くなった。牧水は亡くなる三週間ほど前から、四六時中酒気を帯びていないと、何ごとも手につかない状態になり、胃が重く、下痢、不喝食欲不振を訴えた。
医者の診断では完全なアル中による胃腸障害、肝臓肥大、神経衰弱であった。
四日前。三九度八分の高熱と全身に赤い湿疹が出たため、静岡県沼津市の有名な病院で診てもらった。
手がふるえ、全く元気がなかったが、強心剤の注射をする前に、常備薬(!)の日本酒をコップ一杯(一五〇∝)飲ませると、たちまち元気を回復した。
三日前。熱も下がり、気分も元気もよくなった牧水は「主治医から絶対ひかえるように言われている日本酒だが、飲まずにはいられない」と嘆息しながら、この日もー日中飲んだ。朝は一〇〇∝、昼も二〇〇∝、夕方も三〇〇∝、夜中は言○∝。
一日前、昏睡状態に入ったが、時々、洒を飲んでは元気をつける。しかし、昨日までは上半身起き上がって、「飲まないと酒の味がしない」と、制止を聞かずに起き上がったが.この日はそんな体力もなく、ふせたままだった。
亡くなった日。酸素吸入をしながらも、日本酒を催促するため、医者もしいて止めず、二口三口と吸い口で飲ませる。午前六時半、意識が明瞭になり、朝食として日本酒六〇∝を与える。ところが、高閣ほどして急に容態が悪化、昏睡状態に陥り、末期の水に代わって、日本酒でクチビルを湿して永眠した。
牧水は最後の最後まで飲み続けていたため、遺体も完全にアルコール漬けの状態になっていた。
「葬儀の日、近親の人たちは最後の告別に際して、柩の小窓を開けたが、亡後三日を経過し、しかも当日は、強烈なる残暑にもかかわらず、ほとんど屍臭なく、又、顔面のどこにも、死斑さへ出ておらず、内部より『アルコール』の浸潤によるものとしか考えられない」と主治医記している。
「牧水は酒に生命を奪われた、というのは間違っている。牧水は酒と融合・同化してしまったのだ。彼れの長からぬ生涯を通じて思えば、芭蕉や西行の感じた人生の「寂しさ」が、彼れには「酒」に象徴されていた。
『寂しさにおのおの耐へてあり経つつ いつか終りとならむとすらむ』一 こういう晩年の一首を読んでも、彼左れの寂しさは東洋的な、伝統的なものだった」 と土岐善麿は書いている。
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