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『インターネット江戸学講義③』★『歌人・西行を心から慕い、50年にわたる漂白の生涯を送った俳人・松尾芭蕉』

   

江戸時代の代表的な俳諧師・松尾芭蕉(1644~1694年)の人生は、俳諧師として全国を歩き続けた50年の、漂白の旅の生涯であった。生涯にわたり地球一周を歩き続けた伊能忠敬ほどではないにせよ、芭蕉もまた全国を遍歴し、“生涯の大仕事”を成し遂げた江戸時代の代表的な「歩くノマド」である。

芭蕉は、若くして武士の身分を捨て出家し、漂白の旅の生涯を送った歌人・西行(平安末期・鎌倉初期、1118~1190年)が殊の外好きであった。西行は、元は平将門を討った藤原秀郷の子孫で裕福な名門武家の出身であった。しかし、彼は人生に無常を感じ23歳の若さで出家し、その後は歌人として全国を歩き続け、漂白の旅の生涯を送った。芭蕉は、自分の一生は西行の生き方を倣い、西行のあとを追いかけていくことだとさえ公言し、またその通りに実行した。

芭蕉は、自分を俳諧に導いてくれた四人の先達を上げ、その筆頭に西行をあげている。他の3人は、室町時代の連歌師・宗祇(1421~1502年)、同じく水墨画の雪舟(1420~1506年)、安土桃山時代の茶道の千利休(1522~1591年)でる。四人の中でも、彼が漂白の旅人としてその生き方で最も大きな影響を受けたのは西行であった。芭蕉の旅の哲学が最も明確に表現されているのは、彼が元禄15年(1702年)に著した紀行本「奥の細道」(原題は“おくのほそ道”)に書かれた有名な冒頭の一節である。

「月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂白の思ひやまず」。ここには、その生涯を漂白の旅に求めた芭蕉の、孤独で厳しい過客の魂がみごとに表現されている。その生き方は、同じく旅を栖とした西行の人生にまったく重なるものであった」(松尾芭蕉「おくのほそ道」)

 

芭蕉は生涯にわたって何でも旅に出ており、それらを「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」など数多くの紀行文に残しているが、なかでも有名なのはみちのくを旅した俳諧紀行文「奥の細道」である。

芭蕉は、元禄2年(1689年)3月27日弟子の河合曾良(かわいそら)を伴って江戸深川の採茶庵を出発し、東北・北陸を巡り岐阜の大垣まで旅し、元禄4年(1691年)に江戸に帰っている。その全工程約600里(2400キロメ-トル)を約150日間かけて歩き続けた。芭蕉45歳、曾良41歳であった。芭蕉が奥の細道への旅を思い立ったのは、尊敬する歌人西行が辿ったみちのくの歌枕を訪ね、それを後から追体験することにあったといわれる。西行が歩いたところはすべて調べ上げて、同じように歩いた。それほど、芭蕉は漂白の歌人西行に心酔していた。

「たび人と我名よばれむ初しぐれ」(松尾芭蕉 「笈の小文」)

芭蕉といえば、すぐに“行脚の旅”を連想する。時雨空のもとを旅笠を傾けて歩き続ける姿は、“歩くノマド”芭蕉のイメ-ジに相応しい。芭蕉が西行と共に心酔した室町の乱世を生きた飯尾宗祇(1421~1502年)は時雨の定めなきに人生の悲哀や嘆きを託して、次のような歌を詠んだ。

「世にふるもさらに時雨のやどりかな」(飯尾宗祇)

それに対して、芭蕉も次のような句を読んでいる。

「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」(松尾芭蕉)

 

歩くノマドである芭蕉にとって、旅人とは現実の日常性の世界を離れて、時雨に象徴される風狂の世界の住人として生きることを意味する。しかし、それは孤独と悲哀に堪えて生きる厳しい世界でもある。西行や宗祇らはそうした漂白の世界に生き抜いた詩人ノマドであるが、芭蕉も西行、宗祇ら漂白の詩人ノマドの系譜に連なる一人であることに厳しい覚悟と大きな喜びを抱いていた。

江戸時代の旅は徒歩(歩くこと)が基本である。当時は、女性でも1日30kmぐらい歩いたといわれる。「奥の細道」の旅では、芭蕉は1日十数里(約50km)も歩いたときがあった。それは、奥の細道でももっとも長い距離である、一関から岩出山にいたる「上街道」(かみかいどう)の道程であった。

芭蕉らは、約50kmの道のりをたった1日で歩いた。当時の道路事情の悪さや、46歳という彼の年齢を考えると、芭蕉は日頃からかなりのトレ-ニングを積んだ健脚であったに違いない。旅を栖にし、旅に生きた漂白の俳諧師にとって、健脚であることは生きるための絶対条件でもあった。芭蕉は西行の歌の根本にあるのは、「歩き続けるための足の筋肉だ」といっている。全国を歩き続け、鍛えぬいた足の筋肉があるからこそ、漂白の歌人であり続けられた。芭蕉はこうした西行の生き方や生き様を高く評価して、若い頃から足腰を鍛え、彼の後を一生追い続けたのである。

彼のあまりの健脚ぶりに、実は芭蕉は幕府の隠密ではなかったかという隠密説を唱える人もいる。確かに芭蕉は忍者の里である伊賀上野の出身であり、母方の実家・桃地家は、伊賀忍者の“百地三太夫”で有名な忍者の名家・百地家とも関係があったといわれる。

それに、いかに旅慣れているとはいえ、1日50kmも歩くには日頃からかなりハ-ドなトレ-ニングをしていないと不可能である。

ただし、厳しい訓練を行い鍛え抜かれた忍者なら可能である。それに、芭蕉が弟子の曾良を伴い約150日間も旅行するには相当の旅費が必要になる。しかし、芭蕉は、伊能忠敬のように家業で蓄えた私財があるわけでない。

一体旅費をどう捻出したのかという数々の疑問を指摘する。しかし、これらの疑問は基本的にこじつけのように感じられる。

芭蕉は、西行に倣って漂白の旅人、漂白の人生を若い頃から志し、そのため足の筋肉を鍛える厳しい訓練を怠らなかったことは十分想像できるのである。また旅費の捻出は弟子たちや支援者たちから貰った餞別に加えて、行く先々にいる多くの俳句仲間や友人たちのネットワ-クに支えられて食べ物や宿泊を乞うたり、句会を催して指導料のような収入を得たりして、なんとか旅費の工面できたのではないかと思われる。

驚くべきは、芭蕉らの奥州旅行・おくのほそ道を縁の下の力持ちとなって道中の案内をしたり宿泊の世話をしたりして、支え続けた全国に散らばる俳諧仲間の「連衆(れんじゅ)のネットワ-ク」である。

たとえば、芭蕉らは元禄2年(1689年)3月27日に江戸・千住で杉風(さんぷう)ら見送りの連衆らと別れて日光街道を北上して東照宮を参詣した後、4月3日~15日までは那須黒羽2万石の領主大関氏の陣代家老・浄法寺図書・岡善太夫兄弟のもとに滞在、16~17日は高久の庄屋角左衛門方に宿泊、22~28日までは須賀川の駅長相楽伊左衛門方に宿泊している。

また、奥州に入ってからは5月17日に尾去沢に到着、早速旧知の紅屋問屋島田屋八右衛門を頼って10日間滞在、その後彼の紹介で最上川舟運の基点大石田の川役・高野平右衛門方に止宿、新庄では豪商・渋谷甚兵衛方に宿泊している。本合海(もとあいかい)から最上川を舟で下り、6月3日に芭蕉らは出羽に到着、門前町手向(とうげ)村の染物商・近藤佐吉らの世話で高野平右衛門の紹介で別当代会覚(えがく)の厚遇を受け、1週間ほど当地に滞在する。

さらに、6月10日に出羽を後にして鶴岡に赴き、庄内藩百石取りの長山五郎右衛門方に滞在して酒田に向かう。酒田では、藩医・伊藤淵庵、豪商・近江屋三郎兵衛、寺島彦助らの歓待を受けて25日まで当地に滞在した。その後象潟(さきかた)を訪れ、西行の思い出を止める土地の美景を楽しんだ。

「荒海や佐渡によこたふ天の川」と読んだ越後路の旅は雨にたたられて厳しい旅であったが、7月15日には北陸金沢に着き、当地の連衆仲間である前田家御用の研ぎ師・立花彦三郎・源四郎兄弟、薬種商・宮竹屋伊右衛門らの歓待を受けて22日まで滞在した。立花源四郎の案内で近くの山中温泉にまで足を伸ばし楽しんだ。8月5日、病気のため伊勢長島に直行する曾良と別れ、福井に向かった。

福井では旧知の神戸洞哉の案内で敦賀を訪ねた。8月16日には北前船の廻船問屋・天屋五郎右衛門の案内で舟遊びを楽しんだ。北陸の旅を経て、芭蕉が大垣に着いたのは8月21日であった。

奥州・北陸路の旅程六百里(約2400キロ)の長旅であったが、道中それぞれの土地の上級武士・豪商・素封家といった社会階層の高い連衆仲間のネットワ-クに支えられており、芭蕉の旅は決して乞食旅行ではなかった。芭蕉の旅の足跡を辿ってみると、全国にいる俳諧仲間(蕉門)のネットワ-クがいかに堅い絆で結ばれているかを非常に明確に示している。

芭蕉は元禄4年(1691年)「奥の細道」の旅から江戸に帰ったあと、俳諧紀行文「おくのほそ道」の執筆に取り掛かった。この紀行文は短い小品であるが、彼は練りに練って3年がかりで原稿をまとめた。元禄7年(1694年)に芭蕉が亡くなってからは歌人・俳人の柏木素竜が2年かけて清書し、元禄15年(1702年)に完成した。「奥の細道」は芭蕉の多くの紀行文の中でも最高の傑作である。

芭蕉は元禄7年5月に西国の弟子や支援者たちに、彼が唱えた俳諧論「かるみ(軽み)」の指導を行うため旅に出たが、途中大坂の旅籠・花屋仁左衛門方で体調を崩して病に臥し、「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」の句(辞世の句ともいわれる)を残して、10月12日に客死した。享年51歳であった。彼は病が治ったら、さらに九州を旅する予定だった。最後まで旅に生き、旅に死した“漂白のノマド”の生涯であった。

ところで、芭蕉は意外にも彗星の如く歴史に登場して消え去った木曾義仲の壮絶な生き方や京の都に決して染まらなかった短い生涯に深く共感していた。そのため生前から、「私を木曾殿の隣に葬って欲しい」と弟子たちに言っていた。その遺言通り、彼の亡骸は弟子たちの手によって木曾義仲の眠る義仲寺(大津膳所)に運ばれ、義仲の墓の隣に埋葬された。芭蕉は、歩きながら漂白の旅50年の生涯を通して、世に「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。そして、その生き様は伊能忠敬と同様に、「歩くノマド」としてこれまで誰もが成し得なかった偉大な仕事を成し遂げたのである。

 

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