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片野勧の衝撃レポート⑰『太平洋戦争<戦災>と<3・11>ー震災特別攻撃隊(特攻)とフクシマ(下)』

   

 片野勧の衝撃レポート

 

太平洋戦争<戦災>と<311>震災⑰

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』


特別攻撃隊(特攻)とフクシマ(下)


片野勧(ジャーナリスト)

俳誌「はららご」を主宰

 

現代の「ノアの方舟」

 

ふるさと。原発で故郷を奪われた南相馬市の人たち。市民にとって、その故郷はいつもより深い意味を持つのかもしれない。しかし、そもそも「故郷」とは何なのか。馬鹿な質問に聞こえるかもしれないが、福島の事情を把握するには重要である。

演歌や詩歌には、ある特定の山、川、谷、あるいは森を歌う場合が多い。しかし、3・11以後、田舎の集落から、それらの自然が失われた。美しい自然と離れ離れになってしまった。故郷を愛すると言うのは簡単である。しかし、放射能汚染はどこまで我慢できるか。

3・11以前、子供たちは爺ちゃん婆ちゃんと一緒に暮らすのが当たり前だった。しかし、今はバラバラになっている家族が多い。私は八牧さんに福島第1原発が爆発した時のことを聞いた。

「水素爆発が福島第1原発の3号機建屋で起こった数時間後、南相馬市の住民は皆、避難しました。しかし、私は足が悪く、歩けないし、主人も同じように不自由でしたので、家から外へは出られませんでした」

震災から1週間後の3月17日の夜、市役所から「明朝に最後の避難バスを運行するから、自己避難のできない者は準備をして8時まで集合せよ」という指示があった。しかし、八牧さんは拒否した。

「南相馬市の避難民を乗せた何十台ものバスは町を去っていきました。その姿は、現代の『ノアの方舟』のように見えました」

 

怖い真っ暗闇の世界

 

当時、八牧さんの住んでいる南相馬市原町区は警戒区域に指定され、住民のほとんどは自宅から逃げ、残されたのはペットや家畜だけ。どの家にも灯りはない。街灯もない。何から何まで真っ暗闇。

「光の全くない夜、主人と妹と私の3人が家の中にいましたが、とても怖かったです。しかし、神様は私たちに試練を与えました」

それは放射能という名の試練。その時、詠んだ句。

 

避難せる隣家眞暗いなびかり

 

避難を余儀なくされた隣家が何カ月も経っているのに、明かりのない真っ暗な家が稲光に映し出されるたびに寂しさと不安を感じたのだろう。原発被曝によって今までの平和な生活がすべて失われ、被曝を避けて故郷を離れなければならない思いが痛いほど伝わってくる。その試練をどう乗り越えるか。

「私は美しい自然や事象を詠むのが俳句文学と思ってきましたが、災害も自然現象。同じく詠み残すべきかもしれません。そう考えると、この災難に作句で立ち向かう勇気が生まれます」

窓を閉ざして外出もほとんどすることなく、半年が過ぎた頃、八牧さんの目に映じたのは、避難しているどの家の庭も、木々は茂り草は伸び、いつもの年と違っていた。八牧さん自身も、今住む家に越してきて20年近くなるが、なぜか蝶が多く飛んできた。夏には郭公(かっこう)も初めて訪ねてきた。その時の句。

 

放射線害知らぬ小鳥の木の実食ふ

 

俳句には日本人の美意識があるといわれている。この句の季語は「木の実」。放射能汚染を知らずに木の実をほおばる小鳥たちの自然な動きを、俳人は素晴らしい感受性で詠んだ。放射線害知らぬ小鳥たち――。可哀想にと言って、八牧さんは言葉を継いだ。

「私たちは何もかも失った戦後から、ひたすら這い上がろうとしてきました。高度成長期に物が出回り始めると、がむしゃらに手に入れました。テレビ、洗濯物、冷蔵庫、炊飯器……。一時は満たされても、私たちは便利さを選んでしまったのです」

肥大した物欲。それは八牧さんのみならず、この国の戦後の姿ではなかったか。さらに俳人は言葉を継いだ。

「その欲を際限なくふくらませたのが、原発だったんじゃないですか。その結果、小鳥たちの命をも脅かしてしまったのです」

 

原発事故は自然からの警告

 

福島第1原発から30キロ圏内に住む八牧さんの次の句は重い。

 

火を創るは神の領域萬愚節

 

スイッチを押せば、いつでも電気が通じ、灯がともる。それを当たり前のこととして私たちは生活している。いつの間にか便利な生活に慣れ、際限なく欲求を伸ばしてきた。その結果として、原発事故が起こった。

「今回の原発事故は自然からの警告ではないでしょうか」

火の神として崇めた時代は長い。しかし、第2の火ともいわれる原子力は人間がつくったものだ。しかし、文明という美名に隠れて、とんでもない間違いを犯した。しかも、制御できる保証が何もないままに。

「萬愚節」とはエープリルフール、4月1日は嘘をついても咎められない軽いいたずら程度のことで、自戒の念がこもっている句である。原発推進派の人たちは経済成長のために原発は必要だという。しかし、成長のあとに残ったのは格差と失業、年間3万人以上の自殺者。

 

また原発を止めれば、停電するという。しかし、いま、福島第1・第2原発は稼働していないのに、電気は足れているではないか。要するに、原発を止めて困るのは政官財の一部の人たちだけ。彼らの利害のために福島第1原発から撒き散らされた放射性物質によって、何十万人が生活の場を追われ、食の安全が脅かされているのだ。

「私たちは便利さの欲望を捨てて、元に戻す生活をしなければなりません。焼き魚は焼き、煮魚は煮るという生活に戻しても不便は感じませんから。食器も手で洗えばいいのです」

俳誌「はららご」会員は全員、無事だったという。しかし、会員の中にも大震災や原発事故で避難を余儀なくされた方々もいる。その方々の句に八牧さんは思いを寄せる。同人評「雑詠に学ぶ」。たとえば、紺野英子さんの次の1句に対して。

 

あの山の陰にふる里流れ星

 

紺野さんは福島市の娘さんの近くに避難された。福島市は南相馬市原町区から阿武隈山脈を越えたところに位置する。あるとき、南相馬市を恋しく思い、山を眺めることもあったのだろう。

また高野美子さんの次の句に対して。

東京の遠のきてゆく十三夜

 

旧暦の9月13日は、日本では古くから秋の名月を鑑賞する風習がある。南相馬市は福島第1原発から30キロ圏内。避難して若者のいない街となった。電車は南北ともに不通、いつ開通するか見通しも立っていない。何年後になるかも分からない。東京は遠い。しかし、文化や芸術の触れようと上京した日々、もう懐かしい句友とも会えなくなってしまった東京を思い、寒さが近づいてゆく十三夜の月を見て、さぞ心細さが募ってきたのだろう。

 

日本人の冷静さに世界は驚いた

 

津波に呑まれた南相馬市は戦争末期、破壊された我がふるさと・原町の光景と重なった。避難所で炊き出しの温かいおにぎりを食べる被災者の姿は、祖母の疎開先だった宮城県の山奥にたどり着き、涙を流しながらご馳走になった記憶が蘇った。

震災の爪痕も生々しい被災地で、日本人が冷静さを保っていた様子に世界は驚いた。略奪行為も見られない。支援物資に向かって殺到する群衆もいない。我慢強さを支える一番の要素――それは、「自分より、または、自分たちよりひどい目に遭ってる人がいる」という思いであったと、米国ミネソタ州出身の社会学者チャールズ・マクジルトン氏は書いている(『東日本大震災の人類学』人文書院)。彼は日本に長く滞在し、2002年、非営利団体「セカンドハーベスト・ジャパン」を設立。現在、理事長。

 

配給された物資を「もっと困っている人に回して」という被災者。ボランティアの手伝いをする子どもたち――。八牧さんはそうした姿を見て、「家を失っても船を失っても、懸命に立ち上がろうとする市民のたくましさを知りました」と言う。

 

兄が特攻隊で戦死

 

私は八牧さんの取材を終えて、地元のアマチュアカメラマン、大槻明生さん(79)に案内していただき、向かったのは南相馬市原町区馬場に住む志賀五三三(いさみ)さん(83)宅である。彼の兄の三男・敏美さんが昭和19年(1944)11月6日、フィリピンのルソン島沖でアメリカ軍艦に突撃して、戦死したという話を聞くためである。

南相馬市原町区の夜の森公園にある海軍少尉・志賀敏美之像の銘板の碑文には、こう書かれていた。

1、昭和18年3月26日海軍飛行予科練習生三重海軍航空隊15期修了

1、昭和19年1月27日徳島海軍航空隊第31期戦闘機操縦専修科卒業

1、昭和19年同月同日第1機動艦隊第3艦隊中部太平洋海域戦線進行

1、昭和19年11月6日特攻隊ノ直掩隊トシテ マバラカット東基地ヲ発進シ敵艦ニ突入 享年20歳

大東亜戦争の開戦から3年の昭和19年、日本軍は追い詰められ、太平洋の諸島では玉砕を強いられていた。志賀さんの家では長男の多男(かずお)さん、次男の(ひで)()さん、三男の敏美さんが召集され、家に残っているのは両親と四男の五三三さん、妹の4人だけ。

特攻――。海軍では「零戦」などで、250キロ爆弾を抱えて米軍艦隊に体当たりする方式。敏美さんの場合、この海軍「零戦」だった。陸軍では「隼」などの飛行機が250キロ、または300キロ爆弾を抱えて突入。そのほか、人間魚雷「回天」のように水中からの特攻もあった。

 

昭和19年(1944)10月10日、大分駅からマル秘の発信で「カエルマデマテ」の電報が届いた。敏美さんからだった。しかし、それが最後の音信になった。

家族は戦局を伝える新聞記事だけが頼りだった。父・(ひょう)(ぞう)さんは息子たちの安否を気遣って、毎日、ラジオや新聞に目をこらした。

昭和19年11月6日、第4神風特別攻撃隊零戦隊の敏美さんが戦死した――。しかし、その戦死を家族が知ったのは7カ月後の20年6月9日だった。その日の明け方早くから父と五三三さんは田んぼの代掻きをしていた。

そこへ志賀さんの2軒隣の遠藤七兵衛さんが「豹象おじさん、新聞に敏美君の名前が出ている!特攻隊で戦死だって!」と新聞を抱えて跳んできた。その時、父は顔色ひとつ変えることなく、泰然と「そうか、やったか」とだけ言って、また仕事を続けた(会報誌「九条はらまち」No134。2010年5月8日発行)。

 

私は、その時のことを五三三さんに尋ねた。

「父は、私の子であってもお国のため。私の子ではないような気がしていました。でも、父は心中、悲しみでいっぱいだったのでしょうが……」

敏美さんは17歳で志願した(とはいえ、ほとんどが命令に近いものだった)。両親、故郷、日本を愛するもののために死ぬと宣言して、敵艦に向かって行ったのだろう。五三三さんは語る。

 

「『カエルマデマテ』と電報をくれたから、きっと家に帰りたかったのでしょう。両親にも会いたかったにちがいない。それが叶わずに、本当に切なかっただろうなあ」

こう言って、5歳違いの弟・五三三さんは目を潤ませた。しばらく、シーンと静まり返った。そしてまもなく、涙声で言葉を継いだ。

 

「家の周辺にはいつも軍人がいて、いつしか、私も彼らに憧れるようになりました。昭和20年、平市で行われた陸軍少年飛行兵採用試験を14歳で受けました。しかし、終戦となって入隊することはありませんでした」

志賀さんの家は原町飛行場の正門から500メートル。道路は整備され、沿道には柿や桑の木などの木立が並んでいた。江戸時代から肝いりをつとめた大きな農家だったので、飛行場警備隊の宿舎に割り当てられた。そのころの思い出は?

 

「十数名の兵士が4、5台のトラックに乗せられて、やってきましたよ。彼らは北海道から鹿児島まで広い範囲から召集されました。兵士たちは我が家の座敷の7つの部屋に寝泊りし、昼夜を分かたず頻繁に出入りしていました。夜になると、蚊帳の中で、郷里や家族のことを話し合って、すすり泣く様子も耳にしました」

 

部屋の奥の一室には、戦死した兄の「神風特別攻撃隊零戦隊海軍少尉 志賀敏美」と明記された祭壇と遺影が置かれ、戸締りされていた。

「お国のためとはいえ、まだ若すぎた死。何でこんな戦争をしなければ……」と胸がつぶれる思いがしたという。さらに五三三さんは語気を強めて言った。

「自分を捨てて人のために死ぬ青年が実在したことを若い人に知ってほしい。二度と特攻隊員をつくってはなりません」

案内してくれたカメラマンの大槻さんは隣に座っていて、大きくうなずいていた。

 

「国を守る特攻隊員の思いは、時代を超えて理解できます」

軍国主義の教えを背に、日本は6千人といわれる若い命を組織的な特攻で失った。原町飛行場で育った陸軍航空兵の多くも特攻隊員として命を落とした。

「命を落とす」。それは戦時だけでなく、福島第1原発事故にも当てはまる、と五三三さんは指摘する。

「原発は絶対安全だといわれてきました。しかし、命に関わる事故が起きました。取り返しのつかない大変な事故です」

 

私は志賀さん宅を辞して、大槻さんに案内されて原町飛行場跡を見て回った。グラマン機の銃弾跡が残る石柱、第3格納庫の基礎コンクリート……。戦争の傷跡を見て、私は思った。それは戦前も戦後も日本の構造的システムは何も変わっていないのではないか、と。

特攻と原子力発電の共通点――。その第1は双葉町と大熊町にまたがって存在していた特攻隊基地の磐城飛行場(長者ケ原)と福島第1原発の立地条件は人口密集地と大きく離れた過疎地にあること。「危険性を遠ざけたい」「知られては困る」……という軍部と東電の発想は極めてよく似ている。

 

第2は権力構造。権力を一手に握る少数の職業軍人集団と東電の非人間的体質――前者は特攻隊員を前線に送り出して、自分は安全な場所に居座る。後者の東電の場合、放射性被ばくの危険性が高い現場を下請け企業に丸投げている。その両者の構造はそっくり。偉い人の健康と命を守るために、特攻隊員や下請け作業員を使い捨てにしているのである。

旧日本軍の持っていた「人間の使い捨て」の思想と、システムとして原発が持っている病理は、まさに同根。ポツダム宣言受諾で解体されたはずの旧日本陸海軍は、それぞれ東電や保安院に名称を変えて、いまだに解体されていない。

 

第3は旧日本軍の腐敗した階級社会の非人道的縦割り構造と、東電の無自覚、無責任のエリート組織は一致している。原発事故という未曾有の国難を招いたA級戦犯の東電が、旧日本軍のように解体されず、依然として絶対的権力を握り続けていることは、驚くべき事実だ。

今からでも遅くはない。責任の所在と事実関係を明らかにすべきだろう。同じ悲劇を繰り返さないためにも。(かたの・すすむ)

 

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