日中北朝鮮150年戦争史(26)『日清戦争を起こしたのは川上操六陸軍参謀次長、陸奥宗光外相のコンビだが、日清戦争勝利の立役者は川上と山本権兵衛海軍大佐であった』
2016/09/04
日中北朝鮮150年戦争史(26)
『日清戦争を起こしたのは川上操六陸軍参謀次長、
陸奥宗光外相のコンビだが、日清戦争勝利の立役者は
川上と山本権兵衛海軍大佐であった
朝鮮の独立を守ろうという日本と、朝鮮をあくまで自国の勢力圏下におこうとする清国との、国策上の久しい対立は、1894年(明治27)夏、朝鮮東学・党の乱を機として、爆発点に達した。
清国は大いに恐るべしといえども、対岸を他の強大国に占められては、帝国の国防は第一城を失うものである。断じて争うほかに活路はないという結論になった。
が、政府はわが海軍の力に疑念を抱いていた。陸軍では、川上操六(参謀次長)や児玉源太郎(陸軍次官)の名がひろく国民に信望を植え、世論もまた、陸軍のたのもしさを謳っていたが、海軍にあっては、西郷海相はもと陸軍中将、中牟田軍令部長は無口で有名だったから、いかにも心細く思われていた。
そこで伊藤内閣は、和戦の大方針を決める前提として、陸海軍の対清作戦と自信の程度とを聴取する最高会議を開くことになった。あたかも、太平洋戦争中の最高連絡会議を、政府が主催したようなものだ。
日清戦争が勃発する1ヵ月前の7月2日のことである。その最重大な閣議の席上に、山本権兵衛が一大佐の身をもって現われた。
和戦の大方針を決定する特別閣議には、全閣僚のほかに、山県有朋枢密院議長と川上操六参謀次長と山本権兵衛大佐の三人が列席した。
山本は川上より四歳年下だが、少年時代、薩摩の藩校造士館でいっしょに学んだ旧知の間柄である。
まず伊藤首相から、政府は戦争に訴える覚悟であるが、戦備ととのわずして敗戦があまりにも明瞭ならば、再考を要する旨の説明があった後、まず陸軍の所信をただした。
これに対して川上操六中将は、とうとうと所信を披渡し、一年以内に直隷の野に決戦を指向し、北京に進軍して城下の盟いをさせることは可能であり、陸軍はすでに敵前上陸の準備と計画をも有しており、ご心配はまったく無用なりと弁じ去った。ただし、海軍の役割にはあまり触れなかった。川上は智将であるとともに弁論の雄でもあり、満座は傾聴して大いに安心した。
そこで首相は、つぎに海軍代表の所信をただすことになった。おどろくべき山本の言論がそこで燥発した。
山本の第一声は、「川上中将におたずねするが、日本の陸軍は進歩した工兵隊をお持ちかどうか」という突飛なる質問であった。川上は倣然として、もとより立沢な工兵隊をもっているが、山本大佐の問いは何の意味かと、反問した。そこで、山本の一流の闘論はつぎの通りであった。
「しからば陸軍は、その工兵隊をもって九州から対馬に架橋し、ついで対馬から朝鮮の釜山に架橋し、それを渡って大陸に進軍すれば、すなわち危険はなかろう。陸軍が勝手に海を渡ることは、はなはだ危険だからだ」
この1言に満座は冷水をあび、さすがの川上も沈黙してしまった。
これは、陸軍が単独でも戦争に勝てるような威風を示し、閣僚たちも兵備を陸軍に偏重しているのに対し、冒頭に爆弾を一下する山本の勇気と戦法とを語るものであった。山本は語をついで、
「海国が兵を海外に動かす場合には、まずもって海上権を制するのを第一義とする。かりに、艦隊をもって陸軍の輸送船を護送する場合においても、途中で敵の艦隊に出会えば、軍艦は輸送船を放衡して敵艦と決戦せねばならない。しかも日本には、護送専門に使うほど軍艦がない。反対に、清国はわれの二倍の軍艦を持っている。その敵が健在する海上で敵前上陸を云々するがごときは、一場の戯れと評されても致し方があるまい」
と論難した後、戦時海軍の任務を大略五ヵ条に分けて順々に解説し、さらに進んで、
「戦争となれば、わが艦隊は、まず前進根拠地を朝鮮の西方海岸の一点に占有し、さらに適切なる地点に前進し、その防御をかためて活動海面を拡大し、その拡大された比較的安全なる海面に、陸軍の輸送を導くほかはない。その前に主力艦隊の決戦をもって、海上全域を制しうれば最善であるが、それは、敵の出方次第で不明である。ゆえに差し当たり、艦隊の前進と、包擁海域の拡大を期し、その後に陸軍の出兵となる順序である。
この戦略順序をわきまえずに陸軍の出兵を急ぐごときは、陸軍の溺死を憂えるのみである-」
と論破した。ここにいたって、閣僚はもちろん、川上次長も、海国の大陸出兵に先駆する海軍の重大性を認識せざるを得なかった。
満座はなお沈黙のままである。そのとき大将山県有朋はロをひらき、「しからば海軍においては、現実にいかなる作戦計画を至当と考えているかを聞かせてほしい」と申し出た。
山県は、二年前に山本と二人で有名な「九時間会談」を行ない、その人物を熟知していたので、ひそかに期するところがあったものと推察される。そこで山本は、しからば、とばかり、かねて研究をつんだ作戦方針を詳細に説明すること一時間におよんだ。
伊藤総理大臣以下全閣僚、陸軍の大御所山県有朋、総帥大山巌、東洋のモルトケといわれて飛ぶ鳥をおとす勢いの川上操六。それを向こうにまわして、一介の大佐が、かくも無遠慮に、闘争的に、しかも理路整然と戦略論を独演するというのは、「非凡」という程度の言葉では、とうてい説明のできない胆ッ玉と智略とであった。
しかも、国運を賭した建国最初の大戦略が、この一両日における山本の活動によって定まったというにいたっては、ただ驚くのほかはない。
開き終わるや陸相大山大将はおもむろに口をひらき、「山本大佐の説は、大いに傾聴すべきものと思う。ついては、明日にでも、参謀本部へ来てもらって、総長以下幹部にくわしく説明され、同時に両軍協同の作戦を協議しては如何」と提議した。
川上参謀次長もすぐに賛成して、協同作戦の議が一決した。よって山本は、角田秀松大佐を帯同して参謀本部におもむいた。その席には、有栖川宮総長、大山陸相、児玉陸軍次官、川上次長および作戦部長のほかに、山県大将も釆会
した。
山本は、前日よりもさらに具体的に、計画内容を説明し、陸軍支隊の釜山、元山への牽制上陸から、陸軍主力の第一次、第二次上陸地点の想定までも参考として述べたので、陸軍は胸を展いて山本の計画を取り入れ、出師の大綱を決定
することになった。一大佐の力としては、あまりにも大きいのに驚かざるを得ない。
しかも一大佐は、太平洋戦争前に量産した大佐とは物が違い、勇断以外に思慮と計画とが綿密合理的であった。しかも好んで対外折衝をやったのではなく、前述の閣議でも、参謀本部打ち合わせでも、海相と軍令部長から、「君行ってやってくれ」と、うながされて出かけたものである。いずれにせよ、彼が海軍を一人で背負って歩いていたことは、ハッキリとした事実であった。
山本権兵衛は大佐時代から海軍を仕切り、大海軍を建設した『海軍の父』である。
伊藤は明治23年の朝鮮の撤桟事件(注、撤最事件は、当時、朝鮮における一大国際問題であった。すなわち、重税に悩む朝鮮の商人が、京城にある外国商館にも患税を課すべしと主張し、しからずんば外人の店を撤去せしめよ、と起ち上がった一大民衆運動であった)の当時、「高雄」艦長であった山本を調査全権に任命し、その完備した報告書を読んだときから深く記憶していた。本来ならば在京城の近藤公使の仕事であるのに、とくに海軍大佐を派遣したのは、山本が四年前、「赤城」艦長として仁川に寄港したとき、わざわざ京城に支那(清国)の探題袁世凱(後に支那の大総統)を訪い、たちまち親交を深めた履歴により、閣議において山本派遣を決定したものである。衰世凱を通して、清国の本当の牡を知ろうとしたのであろう。
果たせるかな、他国の使臣とは病と称して会っていなかった袁世凱は、山本を迎えて、長時間国策を論じ合っている。山本は、その会見用談の後に、私見として日清同盟を論じ、「ウラジオからシンガポールまでの海上は、貴国と日本の海軍が同盟して守り、外敵をして東洋の海上権を侵させない用意が肝要である。願わくは、ちかく日清両艦隊の合同観艦式を上海あたりで挙行したいものである。貴兄如何」とばかり、袁大人を煙に巻いているりっぱな報告書が、内閣の古い書庫にのこっているほどで、山本のリーダーシップは政界にも鳴り響いていたのである。
<以上は伊藤正徳『大海軍を想う』文芸春秋社 1956年より>
日中北朝鮮150年戦争史(25)『南シナ海、尖閣諸島での紛争は戦争に発展するのか』★『中国は壊滅的打撃受け、今までの発展が水の泡に 米中開戦のシミュレーション、ランド研究所が公表
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