片野勧の衝撃レポート(62) 戦後70年-原発と国家<1954~55> 封印された核の真実ービキニの「死の灰」と マグロ漁船「第五福竜丸」(上)
2015/09/19
片野勧の衝撃レポート(62)
戦後70年-原発と国家<1954~55>
封印された核の真実ービキニの「死の灰」と
マグロ漁船「第五福竜丸」(上)
片野勧(ジャーナリスト)
アイゼンハワー米大統領の「アトムズ・フォー・ピース」(平和のための原子力)演説から3カ月ほどたった昭和29年(1954)3月1日。まだ夜明け前の午前4時ごろだった。夕焼けが空を真っ赤に染めたような色。甲板の上は白い粉で、はっきりと靴の跡がつくほどだった。
この日、アメリカは北太平洋の赤道に近いマーシャル諸島のビキニ・エニウェトク環礁で水爆実験を行ったのだ。その水爆はブラボー爆弾と名づけられた。爆発力はTNT火薬に換算して1500万トン(15メガトン)とも、2300万トン(23メガトン)ともいわれた。
広島、長崎に落とされた原爆は0・02メガトン相当のものであったから、ブラボー爆弾がどんなに大きい爆発力をもつものであったかが、よく分かろう。
米ソの核開発競争
ビキニ事件について書く前に、米ソの核兵器開発競争の経緯について書いておかねばならない。でないと、なぜビキニ事件なのかが分からなくなってしまうからだ。(以下、三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書を参照)
史上初めての原子爆弾3個が1945年7月にニュー・メキシコ州ロス・アラモスで完成し、そのなかの2つが広島と長崎に落とされたことはご存じのとおりである。
アメリカは当初、原子兵器の独占を考えていた。しかし、それからわずか4年後の昭和24年(1949)、ソ連が原爆を完成し、その実験に成功した。驚いたアメリカは原子爆弾から一歩進んで、水素爆弾の製造に拍車をかけた。
その第1回の実験が昭和27年(1952)11月1日、エニウェトク環礁で行われた。この実験はアイビー・テストと呼ばれた。
同じ年の10月3日にはオーストラリア西部沿岸のモンテ・ベロ島でイギリスが初めて原爆実験に成功した。そしてソ連は昭和28年(1953)8月8日、ソ連最高会議でマレンコフ首相が水爆の保有を発表し、同年8月12日に実験に成功した。
核兵器競争で立ち遅れたアメリカは昭和29年(1954)3月1日から5月13日にかけて北太平洋の赤道に近いマーシャル諸島のビキニ・エニウェトク環礁で一連の水爆実験を行った。この実験はキャッスル・テストと呼ばれた。
このビキニ・エニウェトク環礁でアメリカは6回の核実験を繰り返した。その時の中心者はオッペンハイマー博士に代わって、アメリカ原子力委員会の実権を握っていたエドワード・テラー博士。彼の指導の下で行われ、“水爆の父”と言われた。
キャッスル・テストが行われていた間、周辺海域には約100隻もの船が操業していた。しかし、日本ではマグロ漁船「第五福竜丸」だけが注目されたが、その他の漁船は問題視されなかった。それはなぜなのか。その理由は、あとで触れるが、こうして米ソ両国が水爆の核開発にしのぎを削っている最中に、第五福竜丸事件が起きたのである。
白い雨が降ってきた
1954年3月1日。第五福竜丸はビキニ環礁からほぼ160キロ東方で漁をしていた。第五福竜丸は静岡県焼津の漁船で、99トンの小さい木造船だった。乗組員の数は、船長・筒井久吉以下23人。10代~30代の若い男たちばかり。
午前4時ごろ、西方に異常な光があらわれた。それから7、8分のちに、鈍い爆音が海上に轟いた。
生存者の一人で、現在82歳の大石又七さんは当時20歳。彼は講演会で語った。2012年2月25日午後2時――。第五福竜丸展示館のある江東区・夢の島マリーナの会議室。450人はいただろうか。会議室は立ち見するほど超満員だった。
「午前4時ごろから2時間か2時間半くらいたったころ、白い雨が降ってきました。雪か、と思いましたが、南洋に雪が降るわけがない。においもないし、なめても味がない。ただジャリジャリするだけでした」
白い雨は、まさに水爆実験で白いサンゴ礁が吹き飛ばされた「死の灰」だった。被ばくした大石さんは、その日の夕方から、めまい、吐き気、下痢、目の痛みなどの異常があらわれた。「しかし……」。こう言って、言葉を継いだ、
「漁師というのは弱音を吐くことは絶対にしませんから、そんなことは隠していました」
船員は、ビキニ環礁での米国の核実験だと気づき、彼らは早々に漁を打ち切り、帰途につくことになった。2週間後の3月14日、第五福竜丸は母港の焼津に帰ってきた。船員の顔は健康な日焼けでなく、異様に黒ずんでいた。
世界に衝撃が走った読売のスクープ記事
船での出来事は秘密にしていたので、誰も知らないと思っていた。ところが、読売新聞のスクープ記事に仰天する。「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇―23名が原子病―1名は東大で重傷と診断」(1954年3月16日付朝刊)――。
このニュースによって、国内だけでなく、世界に衝撃が走った。
母港に帰ってきた3月14日は日曜日だったが、船員たちは全員、焼津協立病院で診断を受けた。船員を診た当直の大井俊(とし)亮(すけ)医師は、とくに症状の重い2人の船員を東京大学医学部付属病院に紹介して入院させた。身体も毛髪も放射性物質で汚染されていた。
第五福竜丸の船員を治療し救済するために医師団が結成された。中心者は都築正男博士。彼は広島、長崎の原爆症患者の治療を指導した人で、放射線医学の第一人者だった。
焼津にいた残りの21人の船員は協立病院と付属の北病院で2週間、過ごした。しかし、彼らも3月28日、アメリカ空軍の飛行機2機で東京に運ばれた。そのうち5人が東京大学付属病院に、残りの16人は国立東京第一病院に収容された。
久保山愛吉さんが死んだ
主治医は東京大学附属病院が三好和夫博士、国立東京第一病院が熊取敏之博士がそれぞれ選ばれた。船員のリーダー役は無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)だった。
しかし、ビキニ事件から約半年後の9月23日。久保山さんは母親と妻、3人の子どもたちを残して亡くなった。死因は「急性放射能症」。解剖の結果、放射能に冒されて肝臓は普通の人の3分の1に縮んでいた。久保山さんが妻・すずさんに残した最期の言葉。
「被害者は俺たちだけでたくさんだ。俺たちで終わりにしてもらいたい」(飯塚利弘『死の灰を越えて』かもがわ出版)
医師団は第五福竜丸の船員の病気は放射性物質によって引き起こされることから、広島、長崎の「原爆症」と区別して「急性放射能症」と呼んだ。
「死ぬのは、次は俺の番かも……」
操舵手で、現在88歳の見崎進さんは久保山さんと同じ部屋で、ベッドが隣だった。久保山さんが暴れるのを何度も見ていた。その姿を見て、「次は俺の番かも……」。こんなことばかり考えていた、と見崎さんは振り返る。
2014年3月1日。焼津市で行われた「被災60年 3・1ビキニデー集会」で見崎さんはビデオメッセージを寄せた。「放射能は怖い。悪いことをしていない人が被害に遭う」――と切実な思いを語った。
そして、今、原発事故でふるさとを追われ、風評被害に遭っている福島の人々に思いを寄せる。「福島の野菜も魚もおいしいのに、なんで悪いの? 福島は悪くない!」―
差別と偏見にさらされて
私は江東区・夢の島マリーナでの講演会が終わった後、大石さんと名刺交換した。名刺をよく見たら、大石さんの住所は焼津でなく、東京だった。「なぜ、東京に?」と問いかけると、大石さんはこう答えた。
「あのころ、見舞金のことでさまざまな憶測があって、故郷にいるのがとても辛かったんです。それ以上に、被爆の後遺症がいつどんなふうに出るのかと、自分の身体が不安でならなかったから、専門病院のある東京に出てきたのです」
被爆した当時、まだ20歳。第五福竜丸の乗組員だということを誰も知らない東京へ。しかし、それまで育ててくれた故郷、家族も先祖もいる故郷を離れることは、どんなに辛かったことか。
やがて、大石さんは結婚し、最初の子が生まれた。しかし、死産だった。やはり、被爆の影響かと思い、そのことをずっと長い間、隠してきた。しかし、本当は奇形児だった。なぜ、隠してきたのか。大石さんは言う。
「それは、私たち家族の問題であり、一緒に被爆したほかの乗組員や、その家族の問題でもあったからです。それは、みんなに知れたら、大騒ぎになるのではないかということ。そしてこのことで、就職や結婚、暮らしの中での差別が生まれるかもしれないということがあったからです」
言いたいことがあっても言えない。しかし、それを言うと家族に及んでいく。だから、今まで隠してきた。しかし、誰かが言わなければ、また同じことが繰り返されることを長い年月の間に知ったという大石さん。
「私は今、元気そうに見えても、被爆者特有の症状があります。肝臓がんの宣告も受けました。被爆者であることを認められないで、今日まで来てしまいました」
ビキニ事件は広島、長崎の原爆と違って、内部被ばく。「海→魚介類→人体」という植物連鎖を通じて放射性物質が口の中へ入っていく点では、福島原発とまったく同じ。大石さんは言う。
「福島原発からはたくさんの放射能が海に放出されました。チェルノブイリ以上の放射能が放出されていると言われています。これからいろんな形で問題が出てくるはずです」
ビキニ環礁での水爆実験から60年目の2014年3月1日。マーシャル諸島の首都マジュロで開かれたビキニ被災60年集会で大石さんは杖をついて登壇し、こう言った。
「東京電力福島第1原発事故による汚染はビキニ事件と同じです。核は人類と共存できません。私は核兵器にも原発にも断固、反対します」
つづく
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