前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

「明治維新史を見に行くー革命家・吉田松陰と1番弟子・久坂玄瑞の生誕地「萩」を訪れた」

   

「明治維新史を見に行くー革命家・吉田松陰と1番弟子・久坂玄瑞の生誕地「萩」を訪れた」

久坂玄瑞は

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E

幕末の長州(萩)藩の尊攘派の志士。天保11年(1840)、萩藩医・久坂良迪(りょうてき)の二男に生まれた、藩校明倫館に入り、のち蘭学を修めた。兄は玄機,父の死に伴い,安政1年(1854)年家督を相続同3年、九州を遊学,月性,宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰の門下に入る。

「久坂玄瑞,防長(長州藩)少年第一流人物」とは松陰の評。翌年松陰の妹文子と結婚した。

松陰から最も信頼された玄瑞は、眉目秀麗な青年でもあったが、先輩の中谷正亮から松陰の妹の文を妻にしないかと薦められたとき、即座に嫌だと断った。理由は器量がよくないというものであった。しかし、中谷から妻を娶るのに色香で判断するとは何事かと非難されると、日頃、正論派で通っていた玄瑞はぐっと言葉につまり、承諾してしまった。この結婚を誰よりも喜んだのは松陰だった。

久坂と高杉晋作とならび松下村塾の双璧だあった。翌5年、学業修業のため江戸に出て村田蔵六(大村益次郎)に蘭学を学び、翌年2月帰藩した。

5月江戸へ護送される松陰を送る。10月、松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。翌万延1(1860)年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。薩摩,水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗,命ぜられて文久1(1861)年10月帰藩した。この時、「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽・志士・糾合・義挙の外にはとても策これ無し」との決意を固める。

翌2年3月兵庫警衛の諸兵に加わり上京、攘夷の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され(寺田屋事件)て中止。以来周布政之助,前田孫右南門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王壌夷に転換させることに成功する。このときに提出した「画瀾条義」「解碗痴雪」は長州藩尊王嬢夷連動の方針を定めた。

次いで江戸へ、12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英国公使館を焼打ちにする。翌3年上洛,尊攘運動を指導、士格を上げられて大組となる。次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。

文久三年(1863)八月十八日、薩摩・会津のクデターによって、それまで朝廷を支配していた玄瑞ら長州系の尊皇撰夷派は御所警護の任を解かれ、三条実美ら七卿を擁して都を去らねばならなかった。都落ちの日は夜半から雨で、人も馬もずぶ滴れになった。このとき玄瑞が、即興で次の長い詩を口ずさんだという。玄瑞は詩人でもあった。その詩の一節―ー

降りしく雨の絶え間なく

涙に袖の濡れ果てて

これより海山、浅茅ケ原

震霜わきてあしが散る

難波の浦にたく塩の

辛き浮世はものかはと……

9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1(1864)年6月出勤の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛,真木保臣(和泉)らの強硬論に屈し出撃,禁門の変に放れ鷹司邸に自刃した。享年25歳。

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

百歳学入門(215)-「ジャパンサッカー『新旧交代の大変身』★『パスは未来(前)へ出せ、過去(後)でも、現在(横)でもなく・』(ベンゲル監督)★『老兵死なず、ただ消え去るのみ、未来のために』(マッカーサー元帥)

2018/10/31 日本リーダーパワー史(951)再録、改変 老生はもうとっく …

「75年たっても自衛権憲法を全く変えられない<極東のウクライナ日本>」★「ウクライナ戦争勃発3日後に<敗戦国ドイツ連邦議会>は防衛費を1,5%から2%に増額した」★『よくわかる/日本国憲法制定真相史③』★『わずか1週間でGHQが作った憲法草案 』★『30時間の憲法草案の日米翻訳戦争』★『米英ソの対立が決定的となり、2月4日にはチャーチル英首相が「鉄のカーテン」演説を初めておこなった』★『冷戦勃発で、日本の憲法改正問題はこの代理戦争の色彩を帯びた」

日本リーダーパワー史(357)●『東西冷戦の産物の現行憲法』『わずか1週間でGH …

no image
『オンライン/百歳学入門講座』★『日本超高齢社会の過去と現在ー(1)<70年前の昭和20年代【1945-55年)までは人生わずか50年だった日本(1)』

   『日本超高齢社会の過去と現在ー(1)      前坂俊之(ジャーナリスト) …

『オンライン講座/ウクライナ戦争と日露戦争の共通性の研究 ⑨』★『日露戦争勝利と「ポーツマス講和会議」の外交決戦②』★『その国の外交インテリジェンスが試される講和談判』★『ロシア側の外交分裂ー講和全権という仕事、ウイッテが引き受けた』

  以下は、 前坂俊之著「明治37年のインテジェンス外交」(祥伝社 2 …

鎌倉カヤック釣りバカ日記(2022年5月24日)忍者・カワハギ君と久さしぶり決闘、逗子マリーナ沖の魚クンにもご挨拶しましたよ.

24日午前5時半、川越名人とスタート。快晴、無風、ブルースカーイ、富士山がかすん …

百歳学入門(170)長崎でシーボルトに学び、西洋の植物分類学をわが国に紹介した伊藤圭介(98歳)ー「老いて学べば死しても朽ちず」●『植物学の方法論ー①忍耐を要す ②精密を要す ③草木の博覧を要す ④書籍の博覧を要す ⑤植学に関係する学科はみな学ぶを要す ⑥洋書を講ずる要す ⑦画図を引くを要す ⑧よろしく師を要すべし』

 百歳学入門(170) 長崎でシーボルトに学び、西洋の植物分類学を わが国に紹介 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(307)★『国難リテラシーの養い方③/ 辛亥革命百年⑬/『インド独立運動革命家の中村屋・ボースをわしが牢獄に入っても匿うといった頭山満』★『ラス・ビバリ・ポースの頭山満論』

      2010/07/16&nbs …

no image
日本リーダーパワー史(202)「第3の敗戦、この国難を突破できるリーダーは革命政治家・橋下徹以外にはいない』

日本リーダーパワー史(202) 「第3の敗戦、この国難を突破できるリーダーは革命 …

no image
村田久芳の文芸評論『安岡章太郎論」②「海辺の光景へ、海辺の光景から』

  2009,10,10      文芸評論  『安岡章太郎論』 村田 …

『Z世代のための日本戦争史講座』★『「ハーグ、ジュネーブ条約」を無視して捕虜を虐待、 死刑を指示した東条首相の『武士道は地に墜たりー目には目、歯には歯を』★『陸軍反逆児・田中隆吉の証言』①

  2015/05/27    …