前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『Z世代のための日韓国交正常化60年(2025)前史の研究講座④」★『井上が書いた「華兵凶暴」の記事に支那側(李鴻章)か猛反発、井上の暗殺指令を出し、『漢城旬報』の販売差し止めを命じたので井上は辞任1884年(明治17)5月に帰国した』

   

 

「華兵凶暴」の記事が支那側から激しい抗議があり、辞職、帰国のやむなきに至る。

 

1884年(明治十七)2月、25歳の時、「漢城旬報」第10号に井上執筆の「華兵凶暴」と題する記事が掲載されて支那側から激しい抗議が起こった。

当時清国が朝鮮の内治・外交に対して干渉することがますますh激しく、支那兵の横暴は言語道断で、掠奪したり凌辱したり傍若無人の振舞は見るに堪えなかったこの年二月、即ち朝鮮の正月二日の夜に、城内貞洞のある薬局へ支那兵がきて人参を買い、代金を払わないで立ち去ろうとするので、主人が出てそれをとがめたところが、支那兵はいきなりピストルで主人を射殺した。

その子がこれを支那兵営に訴へたけれども、支那兵衛では少しも犯人を捜査する事なく、かえって袁世凱は「わが清国の兵は紀律厳正である。この犯行は思うに他国人が仮に支那兵を装ってしたものであろう」と声明したので、朝鮮人も多く憤慨したが、井上もまた人道上、捨て置き難く、右の事実を記して、その末尾に「支那兵の中には無頼の徒が少くない。その挙動が往々にして殺伐粗暴を免れない。今回の事、支那兵がこれをなしたというも誰も怪むものはあるまい。」と付記したのであった。

「そんな事をすると危険だから」と忠告する人もあったが、井上は「何の、支那が如何に力んだところでこの俺を殺すより以上の事はできまい。」と平気で実行した。

果して第10号が発行されると支那兵営は非常に怒って、直ちに朝鮮政府に迫ってその配布を禁ずる事を要求し、一方、直接に博文局に詰問してきたが、井上は兵営からの詰問は相手にせず打ち捨ておいた。朝鮮政府に対しては、「この責任は井上角五郎の一身にあるから心配せず一任せよ。」といい、委細構わず発送を了へて、次々と発行を続けていた。

するとそれから二ヵ月ばかりを経て、同年四月、北洋大臣李鴻章は書を朝鮮政府に送って「『漢城旬報』は官報である。民間で随聞、随録するものと同様に認める事はできない。しかるに今回の事は明らかに礼を中国に欠くものである」と公然と譴責してきた。

朝鮮政府は狼狽してなすべき所を知らない。そこで先生は初めに言明した通り、その責任を引き受け、「旬報」第16号を発行すると共に、外衛門顧問も博文局主宰も併せて辞職して帰国する事とした。

井上をして帰国の決心をさせた事情はそれだけではなかった。

その頃、日本政府の朝鮮経営に対する態度が急にかわってきたのである。

先生が朝鮮政府の顧問となった当初などに、井上馨外務卿が自ら書を寄せて激励する有様で、日本公使館も先生に好意を示して応接もいとまなかったが、この年に入ってからは、井上外務卿は先生から手紙を出しても返事もせず、公使館もよそくしくなって、今回の事件が起っても少しも援助しないばかりか、却って井上が非難を受けて帰り去るのを喜ぶような態度に変化した。

この頃日本政府は内外多事で、まことに藩閥の間に勢力の争いが激しく、井上外務卿はその方に汲々としていたためであったとも言うけれども、単にそれだけの理由ではなく、当時、日本に来ていた金玉均に対しても政府の態度はこれまでと打ってかわり、井上外務姉は面会もせず、金がしきりに資金の借入れに奔走しているのに、それを阻止した位であったから、政府の方針として、朝鮮に対しては手を収めて顧みない事に一時なったものと見る外はない。

とに角、日本政府の対朝鮮熱が非常に冷却したのを感じた井上は、一旦、帰国して朝野を覚醒させる必要をも感じたものであらう。

博文局の編集印刷の事務は既に手順がついているから、井上なくとも継続発行するように局員たちに申し渡して置いて、井上は国王殿下に拝謁を乞うて、一編の手紙を奉った。その大要は「教育の背及と産業開発の必要をのべ、なかんずく灌漑水利の事業を企て海陸運輸の便利を図るべく、これらのためには国家が負債を海外に超す事も宜しい。」というので、国王は受けてこれを一読し、その詳細にわたって一々下問せられた後、「機を見て成るべく早く再びきてもらいたい。」と仰せられた。

先生はこの時の国王の言葉によって、国王が支那の横暴から脱したいとの意図のある事を明らかに察して朝鮮を去って帰朝したのが、1884年(明治十七)五月であった。

先生は帰国後も福沢邸に住んでいた。その頃は後藤伯も洋行から帰っていて、福沢翁と共に井上の労を慰め、「遠からず再び行ってもらう事になるだろうから、それまで十分に休息せよ。」といった。

しかし井上は帰来早々からしきりに朝野の間に奔走して、朝鮮を決して捨てて置いてはならぬ事を説いて、その意見を「時事新報」に発表したり、三田演説館その他で演説したり、金玉均とも合ったり、中々多忙であった。

その夏には福沢氏は箱根の福寿楼に、後藤伯は熱海の樋口屋に居たので、井上は金玉均と共にたびたび両地に往来した。後藤伯も先生の話によってますます深く朝鮮に関心を持ち、場合によっては自分も朝鮮に出かけて働いて見ようかとまでで言っていたのである。

 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
池田龍夫のマスコミ時評(87) 『いぜん打開策がない、日韓政府の反目(7/12)』 「廃炉回避」のため狂奔する日本原電(7/15)

  池田龍夫のマスコミ時評(87) ◎『いぜん打開策がない、 …

no image
★『オンライン/イスラエルの嘆きの壁レポート』★『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(151)』★『わがメモアールーイスラエルとの出会い、Wailing Wall , Western Wall 』(嘆きの壁)レポート(1)

   2016/02/16『F国際ビジネスマンのワールド・カ …

no image
速報(473)東京五輪決定は安倍首相のリーダ ーシップの勝利であり、デフレ脱却と日本再生の起爆剤にしなければならない

 速報(473)『日本のメルトダウン』   < 2 …

no image
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」-「日英同盟の影響」⑧ 1902(明治35)年2月20日『タイムズ』『ロシアが支配した満州』/『米国は満州の公平な門戸開放を要求』★2月25日『タイムズ』ー『三国干渉を『臥薪嘗胆』して、敵愾心を抑えたのは日本の政治家と国民の賢明な愛国心だった。』/『日本が侵略的だとか,そうなろうとしているとか想像する理由は少しもない』

 ★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日英同盟の影響は」⑧  1902( …

『Z世代への昭和国難突破力の研究』ー「最後の元老・西園寺公望(92)の臨終の言葉』★『アジア、太平洋戦争の敗北を予感、「いったいどこへこの国をもって行くのや、こちは(お前たちは)・・・』

2011/05/12 /日本リーダーパワー史(151)記事再録 ★『最後の元老・ …

世界/日本リーダーパワー史(908)-『メジャーリーグの星になれ!奇跡の大谷物語⑥」-『100年前にハリウッドを制した「セッシュウ・ハヤカワ(早川雪洲)」は大谷の先例!

 大谷は「ロスアンゼルスNO1のスターになってもおかしくない」 100年前にハリ …

「オンライン・日本史決定的瞬間講座②」★「日本史最大の国難をわずか4ヵ月で解決した救国のスーパートップリーダーは一体誰でしょうか?」★『何度も死からよみがえった不死身の大人物ですよ』

鈴木は「海戦の勇士」「不死身の貫太郎」 鈴木貫太郎(1868年(慶応3)1月―& …

no image
辛亥革命(1911年10月10日)百周年④ー★逆転日中史●『孫文革命を外国新聞はどう報道したか』④

辛亥革命(1911年10月10日)から百周年   ―逆転した …

no image
産業経理協会月例講演会>2018年「日本の死」を避ける道は あるのか-日本興亡150年史を振り返る⑤

 <産業経理協会月例講演会> 2013年6月12日  201 …

日本史1000年の歴史を変えた最初の女性総理大臣(尼将軍)・北条政子の改革実現力①『承久の乱―日本史上最大のピンチを救った「伝説の演説」★『危機管理能力に長けた「稀代の政治家」として再評価されている』(動画付き)

2026年は、北条政子が没した1225年から数えてちょうど800年の節目にあたる …