前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

福沢諭吉の「韓国独立支援」はなぜ逆恨みされたのかー<井上角五郎は韓国王から信頼され外衛門 (外務省)顧問に任命された>④

      2015/01/01

  


「日本開国の父」『アジア開国の父』の福沢諭吉

の義侠心からの「韓国独立支援」はなぜ

誤解、逆恨みされたのかー

福沢の一番弟子「井上角五郎伝」から読み解く④ 

<井上は韓国王の信頼を獲得、ついに国王から外衛門

(外務省)顧問に任命された>

 

 

 

<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和1812月刊 、570非売品)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8E

の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)から、転載する>」

 

 

  こうして先生(井上)は既に国王に拝謁したけれども、日本人は容易に政府に対して勢力を得るわけに行かない。誰か一人協力者を得たいものと物色しているときに丁度、金允植という人物があった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%81%E6%A4%8D

 

 

  金允植氏は当時時外街門の協弁(次官)に過ぎなかったけれども、学識・才徳共に当代一流と称せられ、大院君もこれを畏れ、国家の人々もこれを敬い、支邦人側にもまた信用を得ていた。大院君の乱前にかって福沢翁を訪問した人々の多くは氏の仲間であって、政治上では中立派と呼ばれていた。つとに日本へ来た謝罪副使・金晩植は氏の従兄弟であって、金玉均や朴泳孝とは行動を共にしなかったけれども、先生とは交際を重ねていたので、井上はこの人の紹介に依って金允植氏を訪問する事にした。

 

  金氏は喜んで先生(井上)を迎えた。先生はまだ朝鮮語が自由でなかったから筆談であったが、金氏は先づ福沢翁の安否を問い、色々筆談をかわした後、「福沢先生が近東の大勢から推して朝鮮の現状に及び、何とかして日本と同じくこの朝鮮を開化に導こうとされるのを伝え聞いて夙に感謝して惜かない所であった。いま君に会って先生の謦咳に接する思い無きを得ない。願わくばよく教えて貰ひたい。実に一見旧知の感がある。」

と言い、その後は殆ど毎日のように互に往来した。

 

 交際して見るとその人物がますますよく判る。氏は朱子学を主としているけれども、併せて陽明学をも修め、しかもその師は劉大致といって金玉均や朴泳孝の師と同じ人であるので、その思想の傾向も大概、察することができた。井上がある時の筆談に支那の将来を論じて、「果して如何に成り行くであろうか。欧米がこれを分割領有することにもならうか。さなくとも国内は群雄が割拠して四分五裂するに至るであろう。」と書いて示したのに、金氏は驚きもせず、却って「我が意を得たり。」という態度であったので、先生は物色の当を得たことに独り満足したのであった。

 

その後、井上が度々国王に謁見した序でに、「金允植は中々見上げた人物である。」と言上したので、国王の金氏信任もいよいよ加はって、いつしか国王と金允植と先生との三角同盟が出来上ったのである。

 

 この時丁度都合のよいことには、外衛門顧問の馬建常が急に故あって支那へ帰った。その後任として内衛門顧問のモルレンドルフを外衛門へ連れてきたけれども、この男がまた非常に人気が悪く、本人も一寸ドイツへ帰りたいと言って去ったので、外衛門には外国から手紙が来ても読む者も居ないことになった。

 

すると金允植氏が国王に言上して、井上を用いようという事になり、外衛門督弁(大臣)もまたこれに賛成して、ついに先生は国王から任命せられて外衛門顧問となったのは明治十六年六月であった。

 

牛場・松尾氏等に別れてわずか三ヵ月目に先生はこの地位をかち得たのである。

 故に金氏との交際が始まってからは、その友人や近親の人力が先生を訪ね、氏とも往来し、殊に宮中から内宮もしばしば来る事になって、先生の住居も次第に賑はってきた。

 氏は一日先生に向かって、「君に号がないので友人が君を呼ぶに迷惑している。」といった。朝鮮では対談でも書簡でも人の本名を呼んだり書いたりするのを礼儀でないとする習はしがあった。そこで先生は「何か相当の号があらば付けて貰いたい。」と云うと、数日を経て金允植氏から「琢園序」という一第の文を大書して、それを掛軸に表装して贈って来た。

その後、先生は「琢園」の号を用い、友人たちからは井琢園とか、井上琢園とか、琢園先生とか呼ばれることになった。

 その頃、清国から来ていた将校の袁世凱は李鴻章の信任も最も厚く威望、隆々たるものであったが、これが先生と同年齢であった。また閔台鎬

http://www.geocities.co.jp/nkks437758/yhm_mthh.html

 

の一子で王妃氏の生家を嗣いだもので清廷を圧する勢力があったが、これも先生と同年であったので3人の交際は次第に親密を加へ、たとえ政治上では氷炭相容れない意見を抱いていても、なお時々往来して時務を論じたり、詩文を闘わしたりしていた。先生が朝鮮政府に立って仕事をすることができたのには、この一事も与ってカがあった事と思はれる。

 

                                 つづく

 

 

 - 人物研究 , , , , , , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
<2018年は明治維新から150年 >「目からウロコの明治裏面史(1)」日本の運命を決めたドイツ鉄相・ビスマルクの1言『大久保利通の「富国強兵政策」はこれで決まった』

2018年は明治維新から150年 目からウロコの明治裏面史(1) 日本の運命を決 …

no image
日本リーダーパワー史(414)『魔王と呼ばれた明治維新の革命家・高杉晋作』<歴史読本(2013年1月号)に掲載>

 日本リーダーパワー史(414) 『魔王と呼ばれた明治維新の革命家・高 …

『オンライン講座/日本興亡史の研究 ㉒』『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス④』★『日露戦争勝利の秘密、★『『武士道とは何かール大統領が知りたいー金子のハーバード大での名スピーチ④』★『マカロフ大将の死を悼み、新聞に賞賛される』★『日露戦争は正義のための戦いで日本は滅びても構わぬ』★『ル大統領は「日本が勝つが、黄禍論を警戒せよ」と忠告』

    2017/06/23  日本リー …

『鎌倉釣りバカ人生30年/回想動画録』⑯『2011/03/30/From Kamakura with love and Fighting Split』と『老人と海』ー東日本大震災の皆さんに愛とエール、オールドパワーを込めて

2011/03/30  記事再録  前坂 俊之(ジャーナリス …

no image
日本リーダーパワー史(158)『江戸を戦火から守った”三舟”の高橋泥舟の国難突破力②-泥舟の槍・淋瑞の禅』

日本リーダーパワー史(158)   『江戸を戦火から守った&rdquo …

★『Z世代のための日本政治史講座㉒』★『歴代”宰相の器”とな何か!』★『日本の近代化の基礎は誰が作ったのか』★『わしは総理の器ではないとナンバー2に徹した西郷従道』★『なんでもござれと歴代内閣に重宝されて内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼務)一回、農商務大臣などを歴任、縁の下の力持ちに徹し、有能人材を抜擢した』

     2012/09/09 &nbs …

『鎌倉カヤック釣りバカ日記』回想録『人生とは重荷を負うて、遠き道を行くが如し』=「半筆半漁」「晴釣雨読」の「鉄オモリ」のカヌーフィッシング暮らし』★『15年後の今、海水温の1,5度上昇で、磯焼けし藻場も海藻もほぼ全滅、魚は移住してしまったよ!』

2011/07/07記事再編集 前坂俊之(ジャーナリスト) 「半筆半漁」「晴釣雨 …

『Z世代のための明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力講座⑩』『杉山という男は人跡絶えた谷間の一本杉の男だ』(桂太郎評)―「玄洋社の資金源を作るため、その雄弁を発揮して炭坑を獲得した」

2014/02/21 日本リーダーパワー史(478)記事再録編集 <日本最強の参 …

no image
日本リーダーパワー史(725)-『迷ったときに1粒飲めば、たちまち元気回復、 ヒットが打てる『イチロ―人生名言クスリ』 をどうぞ!

 日本リーダーパワー史(725) 迷ったときに1粒飲めば、たちまち元気回復、 ヒ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(182)記事再録/★『高橋是清の国難突破力(インテリジェンス)②』★『「明治のリーダー・高橋是清(蔵相5回、首相)は「小さな 政治の知恵はないが、国家の大局を考え、絶対にものを恐れない人」 ★『政治家はすべて私心を捨てよ』(賀屋興宣の評)

    2019/09/25 &nbsp …