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日本リーダーパワー史(46)水野広徳による『秋山真之』への追悼文(下)

   

噫(ああ)、秋山海軍中将(下)
   水野広徳著『中公公論』大正7年3月号掲載
 
この水野の文章は秋山真之が大正7年2月に51歳で亡くなった時に、水野が書いた追悼文である。水野広徳は幼時、秋山の家に奇食したいたことがあり、縁戚に当たる。
水野は秋山にあこがれ海軍軍人となり、日本海海戦で『此の一戦』を書いた大正、昭和戦前期の軍事評論の第一人者である。「秋山真之伝」(昭和18年)も監修している。本文は粟屋憲太郎、前坂俊之、南海放送が監修した「水野広徳全集第7巻」に掲載した1文を「坂の上の雲」の視聴者のための参考にここに転載しました。(文責 前坂俊之)
 
左れど中将の兵学に於ける大なるうんちくと、深き造詣とは、其の計を立つるに精に、事を行ふに断に、機を見るに敏に、勢を察するに明なる資質と、尚は之に加ふるに不撓不屈の勇猛心と、不休不倦の精進力と相待って、計画実施、常に宜しきを制し、優勢なる敵艦隊を旅順及日本海に全滅することが出来た。
 
かくて中将は最優等の成績を以て此の真剣勝負に合格し、其の英名は海外までも轟き渡ったのである。此の戦争に於ける中将の偉勲大功は、世上既に周知のことにして、今更クダクダくしく繰り返へすの必要を認めない。
皇国の興廃を決したる日露戦争に於ける帝国海軍の功績の少なからぬ何分の一かは、実に中将の力に侯つものと云ふべである。世人或は中将の筆に成れる、彼の豪宕にして而かも艶麗なる戦報文に魅せられて、中将の名文家たるを知るも、其の卓絶せる軍略家たると共に傑出せる実戦家たるを知らぬものがある。
 
惟ふに文章の如きは、中将に取りて僅に其の半面の片影に過ぎずして、何等中将の為めに重きを為すに足らないものである。
 雲雨を得たる蚊龍は最早や地中の物にあらず。嚢中の錐見事穎脱して、海軍の秋山は今や日本の秋山否な世界の秋山となり、名声隆々実に帝国海軍を庄するの概があった。日露戦争後中将は再び海軍大学校に入って教官と為り、更に実戦に依って得たる智識を以て専ら育英の任にあたられた。
 
今日我が海軍の中堅人物として要路に在る俊才の大多数は、中将の薫陶指導を受けた人である。唯孔子に十哲あり、基督に十二使徒あるも、何れも先師の一面を承伝するに過ぎず、中将の門下英才多々、或は戦略に、或は戦術に、或は戦務に、各々其の長ずる処あらんも、中将の如く一身にして総てを兼ね有するの人、果たして有りや無しやを知らない。
聞くが如くんば中将戦術の講義を終了したるの日、学生に対し、「戦術は唯戦に於てのみ用ゆべきもの、決して之を人事に応用すべからず」 と訓戒せられたと云ふことである。権詐陥穿足れ事とする今の世に於て、独り軍人のみならず一般人士の深く味ふべき言であると思ふ。
 
 其後毎に抜擢、僚債に先んじて、大佐に進み、少将に進み、艦長となり、連合艦隊参謀長となり軍務局長となり、到る処快腕を振ひて勢望益高く、秋山の言説と云へば各方面
に重きを為し、殊に青年将校間には殆んど盲目的に信仰する程であった。一昨年春欧州戦争視察の命を受け、約半年間親しく露英仏伊等の戦場を視察し、帰朝後水雷戦隊司令官に転じ、将に新方面に腕を拝はんとする際、不幸にして昨年五月盲腸炎に犯かされて将官会議々員の閑職に移り専ら静養に力められた。昨年十二月中将に進むと同時に待命仰せ付けられ、近時病気漸快の報を聞き、心私かに復職の遠からざるべきを歓びし甲斐なく、過ぐる一月下旬に至り突然前病再発、臥床僅に数日にして逝かれたのである。

以上は僕の知れる中将経歴の概略に過ぎぬが、以下少しく中将の為人に就いて話さう。元来狛介にして無性なる僕は、従来殆んど先輩の門に伺候せず、同郷人たる中将の邸にすら、前後僅に数回に過ぎない。併しながら中将に対する僕の尊敬の念は、敢て人後に落ちない積りである。職務上に於ても亦、僕が中尉時代に数ヶ月間、中将と同艦したるのみである。当時中将は常備艦隊の小参謀として大尉であった。

元来此の小参謀なるものは職務柄小言が多いので、兎角旗艦の若い士官達には小姑の如く嫌はれ勝ちのものであるが、天性無頓着なる上、自由国なる亜米利加帰りの中将は、比較的放任主義自治主義で、あまり口やかましく小言を言はれなかった為めか、若い士官仲間には非常に評判が宜かつた様に記憶して居る。中将否な大尉が転職退艦せられる際に、僕を自室に呼び、「御前達若い士官が唯ぼんやりと其日暮らしでは駄目ぞい、是からの海軍将校は何でも宜いから或る科に就いて専門的に研究しなけりや、いかんぞい」と
訓戒せられた。

之が僕が中将から受けた、後とも前とも唯一つの訓戒である。其後も逢ふことは屡々逢ったが竪子教ゆべからずと思はれたものか、遂に再び其の教訓に接しなかった。此の如く中将と僕との交際は手紙の往復以外、公私共に淡薄であった為め、中将の性行に関しても、あまり深くは知らない。従って此に述ぶる処も、他人より又聞きしたる事柄が砂くないことを重ねて陳謝して置く。

 中将は元来非常なる精力家で所謂「ぢつとして居れぬ人」であった。背はあまり高くはなかつたが、矩眼隆鼻、全身精力の結晶とも云ふべき風貌であった。中将の成功は半ば此の絶倫の精力に依るもので、日露戦争中の如きは全艦隊の作戦計画を一手に引き受け、櫛の菌の如く集来する各方面の情報を総合判定し、蛛の如く幅漬せる諸戦務を処理裁断する傍ら、大小の命令訓令を立案し、尚は余暇を以て雄輝の筆に戦報の名文を綴る。縦ひ頭脳の明徹と処務の敏腕ありと錐ども、此の絶倫の精力あるにあらずんば、安んぞ能くする処ならんやである。中将は又非常に勉強家であった。

僕が中将と同艦したる頃、中将は多忙なる隊務の余暇を以て、毎夜一時頃までも仏蘭西(フランス)語の稽古をして居られた。又米国留学中の如きも、暇あれば必ず書店に行き、一時間も二時間も、店頭に於て諸種の書物をひもとき、必要の個所はノートに書き取り、而かも未だ曾て一冊の書物も買ったことがない。流石自由主義なる米国書店の番頭もその図うくしさに呆きれ、横着なる日本人として頗る鼻摘者とり、小僧の如きも殆んど相手にしなくなった。併し中将はそんな事には少しも頓着せず、不格好なる洋服姿を相変らず其の書店に曝らし、手当り次第に書物を引き出し店頭のロハ読を続行せられた。

斯して三月経ち四月経つ中、××書店の日本人と云へば付近の一評判となった程である。此に至って書店の主人も遂に中将の根気と熱心とに降参し、後には店の書物を全部開放し尚は新刊書物の如きは態々取り寄せて見せて呉れたと云ふことである。中将は又我慢の強きことに於て殆んど比類なく、今回の病気に際しても腸管閉塞の為め瓦斯充満して、腹は太鼓の如く膨らみ、今にも張り裂けさうなのにも拘はらず終に一度として苦痛の言を吐かれなかった。

其の忍耐力の強烈なるには、並み居る医師も驚嘆したと云ふことである。
 中将は多芸多能にして、趣味の広汎なりしこと誠に驚くべく、殊に事物に対する研究心の強きは、所謂孔子の博打といえども亦益する処あり主義で、スリ泥棒といえども研究の価値ありとせられたのである。左れは巧拙は知らねど、碁も打てば将棋も差す。謡曲もド鳴れば浄瑠璃もウ鳴る。詩も作れば発句もやる。興到れば画も書けば書も書く、殊に其の書画は既に素人離れのしたる自家独得の流を成して居た。
若し夫れ将軍の文に至っては、世既に定評がある。日露戦争に於ける豪宕にして簡潔、雄健にして流麗なる幾多の戦報は、全国民の血を沸かし、心を躍らしめたものである。而かも中将の文を作るや、推敲せず、思索せず、煙草片手に談話しながら、筆下自ら章を為すもので、其の速かなること殆んど他の模倣を許さない。
殊に彼の複雑錯綜せる各隊の報告をば、自家脳中に統合し、排列し、之を一条
の文脈として筆端に繰り出す様、恰かも蘭より糸を繰るが如きに至っては、独り文辞の豊富なるのみならず、其の脳力の如何に組織的にして、総合力と分析力とに富めるかを思はしむるものがある。
而かも其の文を見れば理路整然として、贅旬なく、欠辞なく、堂々たる大文章となって居る。中将の如きは実に天成の文章家にして、文を作ると云はんより、寧ろ文を書くと云ふ方或は適切かも知れぬ。中将は又運動に趣味を有し、海軍兵学校に初めてベースボールを輸入せしは中将なりと聞きては、今昔の感あると共に、多少の滑稽味を覚へざるを得ない。此の如く中将の趣味広くして研究心の強き、頭脳の透徹明敏にして手腕の快捷果決なる、加ふるに胆略と、機才と、押しと、我慢を兼ね備へたる資質は、行く処として殆んど可ならざるなく、学者としても、実業家としても、又政治家としても、必ずや一流の人物と成られたであらうと思ふ。
中将が其の放胆なる性格を以て比較的窮屈な軍隊に身を投じ、自由手腕を振ふ能はざりきは、中将個人としては或は損なりしゃも知れぬが、海軍としては誠に幸福であったと謂はねばならぬと信ずる。
 中将は趣味の多方面なりし丈け、其の交友の範囲も余程広かった様である。支那人中にすら中将の知己は少なくなかつた。就中孫逸仙の如きは中将に対して多大の信頼を抱いて居たと云ふことである。殊に実業家方面に多数の知己
ありしことは、中将逝去の際各方面の有力なる実業家より、続々弔問弔慰のあるを見て、流石物に動ぜぬ好古将軍も柳か驚かれたるものゝ如く「あいつ色んな人間を知って居る、不思議な男じゃ」と言はれたに徴しても判かる。
由来中将は海軍の充実には国富の増殖と工業の発達とを必要とし、力めて実業家と意志の疎通を図られた様である。彼の山下氏との厚き交際の如き、世上兎角の評ありしも、一は竹馬の友たりし関係もあるが、一は亦右の理由に基づくものであらう。中将今回の発病以来、山下氏が中将の為めに尽したる友情は、縦令金の力に依るとは云へ誠に至れり尽せりで、療養上に何等遺憾の無かりしは、僕等の深く山下氏に感謝する処である。開放的な中将は殆んど総ての客に対して来者不拒主義を取られたる為め、中には往々孟昔君の客然たる鶏鳴狗盗的の徒もあったが、此等に対しても中将は能く面倒を見てやられた様である。
 
唯何故か両三年以来、新聞記者に対しては一切門戸を閉鎖せられたと云ふことである。
中将は職務上の事を処理する上に於ては、頗る細心緻密であったが、身を持することは極めて豪放酒森で言はゝ無頓着であった。礼儀作法などの末節に至っては殆んど眼中に無く、服装の如きもカラが曲がろとネクタイが横向うと、そんなことは平気の平左であった。
殊に其の無作法たるや、何人の前であらうと一切御構ひなく、其の状時に天真爛漫たるが如く、時に故意の面当なるが如く、往々傍観者をしてバラくせしむる事があった。
中将は由来出物腫物処嫌はずの自然主義であった。中将がまだ十二三歳の少年時代に於て路傍に放尿中巡査の発見する所となりて、叱責せられしも、中将少しも驚かず、騎虎の勢中道に降るべからずと云ふ態度で、悠々用を果したる後、始めて巡査の説諭を受たるなどの奇談もある。
中将の露天用便主義は既に少年時代に於て育成されたものと兄へる。水交社前庭の松樹、中将の肥料に依って幾年の寿を延ぶるであらうか。中将の放発亦極めて開放的にして、或は後甲板に時ならぬ祝砲の響を聞き、或は談話中晴天の霹靂に驚かさるゝ事がある。而かも御当人ビクともせず、顔の筋一つ緩めず泰然として平気なり。暫らくして自ら「少し臭い」。
中将又夏期に至れば足指の間に水虫を病む癖がある。場所を択ばず靴を脱いで輝きを掻く、真に傍若無人に近い。先般の洋行中、在欧邦人の崇洋熱高きを快しとせざる中将は、列車内にて又此の奥の手を出し、同乗の洋婦人をして辟易せしめて、随行の士官をして赤面せしめたと云ふことである。
中将時に此の種の皮肉を演ずることがある。其他談話しながら鼻毛を抜き、鼻糞を丸める如きは、免状付にして人見て最早や怪しまなかった。斯くの如きは形式的道徳上より論ずれば、或は是非の評あるも、胆力の有る人にあらざれば容易に為し能はざる処である。

 中将は独り他人に対してのみ無遠慮なるにあらず、己れ自身に対しても亦極めて無頓着の構はず屋であった。中将時に水交社にて入浴する事がある。多数士官の洗ひ落したる垢沢山の湯槽の中にて、顔を洗ひ、頭を洗ひ、決して上がり湯なるものを使はれなかった。
中将は酒は相当に飲まれた様であるが、其の酔態なるものは曾て一度も見た事がない。飯の食ひ方は随分乱暴な方で、手攫みで魚の頭をシャブるなどは平気であった。

海軍省あたりで中将と食卓を共にしたる人は、秋山式食ひ方に大分当てられたものもあると云ふ事である。而かも之が後輩や同僚ばかりの前でなく、先輩の前でも御構なしと来ては、凡人には一寸真似の出来ぬ芸当である。

此の無頓着と構はず主義の点に於ては、兄好古将軍も亦相当に猛威を発揮されるので、兄弟能く相似て居るとの評判であった。
 中将は金銭に対しては極めて淡白であった。其の代はり屡々金がないくと言はれて居た。交友が広かった丈け其れ丈け交際の費用も嵩むので、軍人の俸給位では到底一円の余裕は無かつたであらう。

中将程の身分となれば、普通は子供に学校服位は造ってやるのであるが、中将は其さへしなかった。西郷南洲は子孫の為めに美田を買はずと言ったが、中将は妻子の為めに美服を冥はずであった。況して家おやで、中将は兄好古将軍と等しく今尚は借家棲居である。此の豪放なる中将を輔佐しっゝ、多くの子女を養育せられたる中将夫人も亦賢婦人であると思ふ。

 
中将の性行並に逸話に関しては尚は書くべきことが砂くない。併しあまり長くなるので茄に筆を止め、中将臨終の模様に就きて二言しょうと思ふ。中将の思想は頗る進歩自由主義で、世に謂ふ軍人的なる狭き型に拘はれて居なかった。大隈伯は中将を評して型に恢まらざる軍人と云はれたさうである。併しながら中将は決して現今流行の皮想なる民主主義者でなく、常に心を皇室と国家に傾け、誠心誠意、皇室の安泰と国家の隆昌とを祈られたので、其の忠愛の念は終始一貫して漁はる処がなかった。

殊に中将の尊皇心は極めて徹底的で所謂忠君屋なるものではなかった。中将唯一の著書とも云ふべき『軍談』中、独逸を論ずる点の如きは口を極めて独逸の悪増を責むるにも拘はらず、カイゼルに対する言葉は頗る丁重で、我が皇室に対すると殆ど同様の敬語を用ゐられて居る。
敵国と云へば皇帝も泥棒も同一扱ひにする世間の多くの人々とは、余程趣を異にして居る。又中将の病漸く重きに及んでや、腹部膨満して恰かも護謹球の如く、苦痛殆んど堪へ難きにも拘はらず、遂に唯一言の苦痛を訴へらるゝことなく、其の語る処は悉く国家並に海軍に関する問題ばかりであったと云ふ。以て中将が如何に国家を思ふの念が厚かつたかを窺はれる。

 大正七年二月三日の夜もいつしか更けて、早や十二時を過ぎた。秋山中将は小田原なる山下氏の別荘の一間に、其の重き病体を横へて居る。医師は今宵ぞ最も大切なる時であると診定した。中将の病床には連日の看護に面やつれしたる中将夫人が白衣の看護婦と共に静かに枕頭に侍し、苦悶を忍ぶ中将の青き面をば、眉毛の微動だも見逃がすまじと、深憂の眼を以て見詰めて居る。次の間には東京より招嘱したる名国手と親戚知己の誰れ被れが交はる子\当直をして居る。

中将重病の報を聞きて各方面より馳せ付けたる見舞の客も、今は或は散じ或は退き、広き別荘寂として声がない。唯岸打つ波の音と、松吹く風の声とが、撃々濠々として遠く聞ゆる中に、覚めたるか眠むれるか、中将の弱き息の音が微かに而かも断続的に聞ゆるばかりである。医者も家族も知人も、せめて夜の明くるまでと、時計の針の進みの遅きを恨んだ。併し中将の脈は次第に弱くなるばか

りである。

注射も既に若干回施されたが、既に運命の帰決を自覚せられたる中将は、此の上の注射を拒まれた。中将は某氏を枕頭に招き、余人を退けて、帝国海軍の将来に関する自己の意見を当局者に伝へるべく諸々と陳べられた。やがて暁の霜に凍ふる四時の鐘が鳴った。中将は明らかに之を聞かれた。意識は尚は明確であるが、脈樽は愈弱く、医者は終に絶望の匙を投げた。危篤の報は伝へられた。家族知人達は今生最後の暇を告ぐべく、せき来る涙を呑んで順次枕頭に進んだ。中将は夫人並に十四を頭に四人の児女を

一人々々招き寄せて最後の訓戒を遺し、親戚知人に対しても一々別れを告げられた。人誰か情なからん。

幼き多くの子を遺して逝く中将の心は、遺言を聞く子の心よりも更に一層つらかつたであらう。こゝ正に一喝の大悲劇である。

斯かる間に五時の鐘が鳴った。中将は之をも意識せられた。一同に最後の永別を告げたる後、中将は瞑目して徐かに死の使を待たれた。満座粛然、人は暗涙を呑んだ。やがて五時を過ぐる三十五分中将は「もうイカン」 との一声を漏らさるゝと同時に自ら脳間に合掌し、徐かなる大往生を遂げられた。斯して帝国海軍の英と匂ひし秋山真之中将は、胸中偉大の抱負を持しながら美果末だ熟さざる間に終焉として遠く逝かれたのである。葬儀の際、中将知人の詠みたる弔歌に、
 国の為め勲を樹てし君なれど、尚ほ国の為め惜しき君かな

 実に中将に対する総てを言ひ現はして居る。中将辞世の句に、
 不生不滅夜明け烏の三羽かな
 句の真意は知らねど、中将の勲功は真に不滅である。
 
(大正七年二月十八日)
 

 - 人物研究

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