日本リーダーパワー史(117)辛亥革命100年ー孫文を助けた犬養木堂と頭山満のその後の信頼は・・
2018/01/22
日本リーダーパワー史(117)孫文を助けた犬養木堂と頭山満の信頼関係
辛亥革命百年(19)最後まで続いた犬養木堂、頭山満の孫文支援
升味準之輔『日本政党史第3巻』(1967年、東大出版会)によると、辛亥革命を機会に一攫千金を夢みる「支那浪人といふ利権屋」がたくさんいたという。
この山師達について、当時南京の陸軍学堂の教師をしていた守田藤之助の話に、つきのようにいっている。
「犬養毅さんなどが上海に乗り込んで来たんで、上海の孫文は日本人がかつぎあげたような気がします。つまり、孫文は金も武力も持っていないわけで、これでは革命の首領として弱いですよ。
それで上海で銀行からでも金を集めようとしたのでしょぅが、ろくに集まらずに南京へ来たんでしょう。ああいう時にはね、まず革命軍の方で銀行をこしらえるか、革命軍の軍票を出して、一時まかなうのですが、それもしていなかったようです。ですから私などは、こんなことではお祭りさわぎでダメだという気がしたんです。それに私の悲観論が加わって、一緒になってさわぐ気になれず、上海に行ったのです。
革命が成功すると、さっそく上海あたりの飲み屋が南京にきましたよ。毎晩三味線です。そういう時には金もうけができると思うのでしょうか、日本人のいろんな人間がそこに集まってくるんですよ。支那浪人だとか、商人だとかが。そういった連中が夜になると三味線ひいてドンチャンさわざでしょう。いやになりましたよ。こんなことで革命ができるかと思って……。
南京へ孫文を送り込んだところまでは犬養毅や頭山満のサジェスションがあったんでしょけれど、南京に行ってからはね。元旦からもう共和国でしょう。日本人には共和国というのはどういうものだか、おそらく犬養さんでも大して研究していなかったのではないでしょうか。だから顧問だなんていったって、ろくなことができない。そのうちアメリカ帰りの留学生の方がハバをきかすようになっちゃったんです」。
また、革命当時のことではないが、1913年から上海を中心に大学眼薬を販売していた内山完造はいわく、
「当時〔1917年〕の在留日本人がまた大体二種に分けられる。1つは月給をたんまり頂いていわゆる文化生活を満喫しながら立身出世しようとする人々で、これは官吏でも銀行員でも会社員でもその他にもざらにある人々であるが、もう1種の人と云うのは、大体個人営業者に多いのだが、腕の二本や脚の7本位折られてもよい。ウン賠償金をとって貰うて、成金になって故郷へ錦が飾り度い人々。
実を云うと、こうしたことを人前で平気で話して居ったものである。だから領事館あたりがああした言葉〔そう何処も彼処も行かれては困る。問題が起こった時に困るから最少限度にすること〕を出されるのも必ずしも無理はないのである。
つまり、こうした人々と、いわゆる支那浪人と云われた人々とは思想的流れは本流と支流であったのである。総じてこれを批評すれば人間として出来て居らなかったのである」。
革命派は日本の旧友の手から離れていく。彼らが革命浪人の真意を疑ったのは当然である。当時宋の親友として革命に馳せつけた北輝次郎(一輝)は『支那革命外史』こういっている。
「独り支那革命党の多くが日本留学生たり日本思想系の者なるを以て直ちに指して親日主義者となすは殆ど何の謂ぞ。日本が十年前の始めに於て隣国青年の教導を引受けしは固より、革命の意味ならざりしにせよ、支那自らが自立独行すべき一国家としての存立が日本の利益の為にも希望せられたるに基く。然らば、彼等青年が国家の栄辱に敏感となり、国権の得失に活眼を開き得たるは日本の希望の満たされたるものにして、亦実に亜細亜の盟主たらんとする教導者の誇に非ずや。同文同種といい唇歯輔車と言ふが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼等ははるかに覚醒したり」。
革命派の疑惑は、たとえば、章柄麟の文章につきのようにいっている。
「日本は浪人の巨頭た来たことになっている頭山満・犬養毅等をして革命党を援助せしめるため上海に来らせているが、これは表に義侠の為めにれども、内実は日本政府が暗に旨をためて来らせているものである。
日本は予て満蒙に野心を有し、を占領すべき機会を窺へること既に久しく、この目的を達する為めし支那の内工を続けさせて混乱の機に乗ぜんと企てているのである。今回南北妥協をなせるは、支部の大局より考へて両者が速に支那の国家を堅実なる基礎の上に置き、国家国民の幸福を計らんとする必要より出でたものである。
然るに妥協が完全に行はるゝ場合は日本が予て窺へる満蒙を占有する機会を失ふことになるから、頭山・犬養の二人は之を阻止するため『妥協は革命党の為めに不利なり』と称して孫・黄に妥協の不可なることを説いたが、賢明なる孫・黄は元より両者の心事を知って居るから、言葉を静にして忠告を謝し、之を拒絶して去らしめた。この両者の行動に徴するも、如何に日本が支那に対して企図する所の深きかを知るに足らう」。
さて、一九一三年(大正2)八月、第二革命に敗れた孫文は福州等駐在武官の配慮で台湾に逃れ、東京に来た。
しかし、財界および政府(山本権兵衛内閣)はすでに彼に関心を失っていた。そのときのことを頭山はつきのようにいっている。孫と大陸浪人のふるいきずなはなおたしかに存在した。
しかし、財界および政府(山本権兵衛内閣)はすでに彼に関心を失っていた。そのときのことを頭山はつきのようにいっている。孫と大陸浪人のふるいきずなはなおたしかに存在した。
「孫文が神戸につくと、そこから電報をよこして、東京へ来たいといふことだったので、わしは政府に孫の世話をさせようと思って、寺尾亨(福岡、七博士の一人〕を山本〔権兵衛、当時首相〕のところへ話しにやった。
ところが、寺尾は非常に怒って帰ってきた。『山本は実にけしからんことをいふ奴ぢゃ。孫のやうなものを世話はできん。あんな者は日本におかずに、アメリカへでも追っばらったらいいではないかといった』。
当時の支那公使は伊集院で、袁世凱と仲よくやっとったので、その袁世凱と孫文が戦って日本に来たのだから、山本も伊集院の意見を用いて、孫の世話をすることを迷惑に思ったのじゃらう。
そこで、わしは、犬養が山本と親しくしとったから、犬養に山本の本心を突きとめさせることにした。犬養はそのころ鎌倉へ静養に行っとった。わしがヨウジアルスグコイと電報を打ったら、すぐ帰って来たので、『孫のことで、寺尾を三度も山本のところへやって話をさせたが、山本は実にけしからんことをいうた奴ぢゃ。あれが本当にそんなことをいうたなら、わたしに考へがある。一あて山本にあててやらうと思うから、孫の世話をするのかどうか、君が行って山本の本心を突きとめて来てくれ』と話した。
犬養は『早速突きとめてみよう』と引受けて、山本のところへ行った。あくる日、犬養の帰って来ての話にし『山本に会ってよく話した。ところが、山本は、俺はそういうことはいはん。寺尾のいひかたがそう聞えたかも知れぬか、自分は孫の世話をするつもでいる。……寺尾があたまから世話を吹っかけるので、こちらも相手になったのだ』と報告した。
ところが、犬養の帰りがけに、山本は、『しかし、迷惑は迷惑じゃね……』というたそうじゃ。それで、犬養は『ああいふことをいふところを見ると、寺尾のいったこと事実にちがひないかも知れぬ』というとった。
それから、古島一雄と美和作次郎が神戸へ行って孫をつれて来て、わしのとなりの家を借り、わしの家とのあひだの壁を切抜いて出入りのできるやうにして、毎月の費用は500円づつ安川敬一郎に出させて、久しく住わせた。……そのころのわしの住ひは、赤坂霊南坂じゃった」(田中稔『頭山満翁語録』1943年)
古島一雄の談話に、
「官憲は彼等の上陸を拒んだ。『亡命して来た人間を上陸させぬ』なんて、ソンな馬鹿な話はない、是非とも上陸させなければならぬと、犬養と頭山が相談の末、私が迎へは行くことになった。『命がけでやれ。後は俺が引受ける』と頭山が言ったことを覚えている。
『まかり違ったら、孫と一緒に海の中にでも入れ』といふ意味だったらうと思う。すると、犬養が、『俺はこれから山本(首相)のところへ行って談判するから、あまり乱暴なことはするな。山本を説きつける自信がある』と言って別れた。
神戸の諏訪山に『一力』といふ吾々の有志の旅館がある。其処へ行っていよいよ船に乗らうとすると、後から追ひかけて来た者がある。『電報が来ました』といふ。見ると、『ヤマモトショウチシタ、ソンニツタエヨ』とある。犬養が打電したのだ。
ソコで私は知事-服部と言ったかナに交渉すると、表立って上陸させることは困るが、内緒ならいゝと言ふ。で、その上げ方だが、多数つめかけている新聞記者などをまかないと、後をつけて困るから、私は記者連中を引受けて置いて、その間に菅野長知に仕事をして貰ふことにした。
当時、松方幸次郎が川崎造船所の社長だったから、それと連絡して、信濃丸からそッと孫文を連れて上陸させた。鳥居素川等を初め、多勢の新聞記者連は、私のとこへ詰めかけて『いつ上げるか』と責めるんだが、『俺は知らん』で通してしまった。孫は、それから暫く頭山のとこへ匿まった。その事は世間の人が知らなかった丈で、政府ではちゃんと知っていたんだよ」(鷲尾義直『古島一雄』1950年)
ところで、日本に亡命したのは孫だけではない。第二革命が日本に逆流する。その逆流の尖端は、外務省政務局長阿部守太郎に突きささる。九月五日の夕刻、阿部局長は、北京から帰任した伊集院公使を新橋駅頭に出迎え、帰宅したところを、その門前で二人の暴漢に襲われて死亡した。犯人のうち一人(18歳)は四日後中国地図上に端座して切腹し、他の一人(21歳)は満州に高飛びする途中捕えられた。
彼らをあやつっていた岩田愛之助(24歳)は、第一革命のとき漢陽で負傷し、翌月天津の鎮台爆破事件で捕えられ退去処分を受けていた。
暗殺の理由は、「斬奸状」によると、政府の満蒙問題についての消極的態度、および袁世凱援助政策である
。阿部は第二次西園寺内閣以来政務局長の地位にあり、この年二月山本内閣が成立して間もなく、満蒙政策についての意見書を作成したが、それには、「対外関係二於テハ、専ラ平和的ノ方法二依リ通商ノ拡張其他経済的利権ノ伸張ヲ眼目トシ、以テ国富民力ノ旺盛ヲ期セザルべカラズ。徒ラニ領土獲得ノ名義ニ眩惑シテ軽々之強行セントスルガ如キハ此際最モ避ケザルべカラザル所ナリト認ム…・・」等々とのべており、これが大陸浪人を刺激したらしい。
。阿部は第二次西園寺内閣以来政務局長の地位にあり、この年二月山本内閣が成立して間もなく、満蒙政策についての意見書を作成したが、それには、「対外関係二於テハ、専ラ平和的ノ方法二依リ通商ノ拡張其他経済的利権ノ伸張ヲ眼目トシ、以テ国富民力ノ旺盛ヲ期セザルべカラズ。徒ラニ領土獲得ノ名義ニ眩惑シテ軽々之強行セントスルガ如キハ此際最モ避ケザルべカラザル所ナリト認ム…・・」等々とのべており、これが大陸浪人を刺激したらしい。
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