日本リーダーパワー史(166)『山岡鉄舟の国難突破力⑤『金も名誉も命もいらぬ人でなければ天下の偉業は達成できぬ』
日本リーダーパワー史(166)
『江戸を戦火から守った山岡鉄舟の国難突破力⑤
『金も名誉も命もいらぬ人でなければ天下の偉業は達成できぬ』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
山岡鉄舟―西郷隆盛との対決
幕末に江戸城の無血開場を実現し、江戸の町を戦乱から救った恩人であり、勝海舟、高橋泥舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれている。15の歳、北辰一刀流の千葉周作に剣、槍などを学んでその後、無刀流を開創した剣の達人。
188センチ、体重105キロをこすという西郷以上の堂々たる偉丈夫。幕府の剣術師範や浪士組(新撰組の前身)取締役をつとめて、このあとに精鋭隊を率いて最後の将軍・徳川慶喜の身辺警護にあたっていた。
攻めのぼってくる官軍にたいして、幕府側は恭順の意向を示し、静岡まできた官軍の総大将・西郷隆盛に和戦の条件を話し合う使者を立てることになった。幕府全権陸軍総裁・勝海舟は一番「肚のすわった」鉄舟を派遣した。
鉄舟は1868年(慶応4年)三月九日、駿府(静岡)伝馬町で西郷隆盛に会い海舟の手紙をわたして、両雄相まみえた。
降伏条件として西郷が「江戸城の明渡し」、「城中の人数を向島に移すこと」、「軍艦、兵器を渡すこと」とともに、「徳川慶喜を備前藩(岡山)へあずける」との条件を示したが、鉄舟は慶喜の備前藩預かり一件だけは強行に反対、その眼力の殺気と気魄におされて、大西郷も山岡に一歩譲った。江戸城の無血開場の基本合意はここになったのである。
西郷は山岡を評して「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛した。このあと、正式の勝と西郷の江戸城開城の会談が同月13日、14日に行われ、15日に予定されていた総攻撃は回避され、江戸住民150万人は戦火から免れたのである。日本の近代歴史上に残る英雄たちの腹芸であり、『名場面』であり、このとき、歴史が転換したのである。
山岡は剣と同時に禅の達人であった
ある時、鉄舟は当代きっての落語家・三遊亭円朝に「桃太郎の昔話を一席聴かしてくれ」といった。円朝は得意の1席をぶったところ鉄舟は「お前は舌で語るから肝心の桃太郎が死んでいる」と酷評された。
その後、円朝は鉄舟を訪ね、教えを請うと、「今ごろの芸人はすぐ名人気取りになる。昔はそうではない。始終自分の芸を問うて修行した。しかし、どんなに修行しても、落語家ならばその舌をなくさん限り本心は満足せん。俳優ならその体をなくさなければダメだ。」という。円朝が直ちに修禅を希望し、鉄舟は「趙州無字」の公案を授けた。
それから二年間、円朝はさんざん苦心研鑽し、悟るところがあって鉄舟に参見、桃太郎を演じた。鉄舟は、「今日の桃太郎は生きている」とうなずきのちに鉄舟は、円朝に「無舌の居士号」を与えた。
鉄舟はすべての生命を大切にした。虫やガにいたるまでも殺生を嫌い追いはらっていた。
明治初年ころ、東京市内で野良犬を捕獲してことごとく撲殺したことがあった。これを聞いた鉄舟は野良犬を見つけさせ、自分の名札をつけて飼犬とした。鉄舟の家は野良犬だらけとなり、この犬のたちのえさ代だけでも、実に一日三斗以上にもなった。
鉄舟は訪ねてくるものには、実に懇切に対応した。玄関番が面会を謝絶したりした場合は叱って客を呼び戻させた。会見する時は、誰が相手でも額を畳につけてていねいにあいさつした。
たくさんの訪問者があり、昼間から夜中まで、場合には深夜の二時三時までいた。なぜなら、鉄舟と対面すると、うちとけて自然と長居になるのだった。
鉄舟は客人と話していて、「ちょっとごめんこうむります」といって奥の間に行き、横になると、すぐに、客室まで響いてくる大いびきで熟睡。三十分ほどで目を覚まして、「失礼しました」と再び談話を続けた。
禅家の遷化(死に方)には3つ。座脱(坐禅を組んだまま死ぬ)、
立亡(杖をついたまま死ぬ)、
火定(かじょう、火中に死ぬ)である。
立亡(杖をついたまま死ぬ)、
火定(かじょう、火中に死ぬ)である。
鉄舟は晩年は胃ガンを病んでいた。明治21年七月十七日夕、風呂から上がると夫人に、「白い衣を持ってこい」と命じ、白衣を着て、皇居に向かって一礼して、蒲団に入った。その夜,ガンが破裂して危篤状態に陥った。
親族門人知人が二百人ばかり馳せ参じて、鉄舟の病床をとり囲んだ。勝海舟が駆けつけ、「オレを残して先に逝くのか。ひとり味をやるではないか」「もはや用事がすんだから、お先にゴメンこうむる」といった。
同夜、鉄舟は、「みんなさぞ退屈であろう。俺も退屈だから」といって三遊亭円朝に命じて落語をやらせた。円朝も満座の雰囲気に打たれ、涙声で落語をやると、鉄舟はフトンにもたれ微笑ながら聞いていた。
十九日午前九時、弟子に向かって「しばらく人払いをしてくれんか。昼寝の邪魔になるから」といって、一同を別室に退席させると、鉄舟はおもむろに身を起こして蒲団を離れると、皇居に向かって「結跏趺坐」=(けっかふざ)は、仏教の瞑想する際の座法)した。しばらくすると右手を差し出したので,側にいたものがウチワを渡した。鉄舟は目をつむって、そのウチワの柄で字を書いていて果てた。
関連記事
-
-
日中北朝鮮150年戦争史(8)『陸奥外交について『強引、恫喝』『帝国主義的外交、植民地外交』として一部の歴史家からの批判があるが、現在の一国平和主義、『話し合い・仲よし外交』中心から判断すると歴史を誤る。
日中北朝鮮150年戦争史(8) 日清戦争の発端ー陸奥宗光の『蹇々録』で読む。 …
-
-
『Z世代のための日本スリランカ友好史』★『 日本独立のサンフランシスコ講和条約(1951年)で日本を支持したジャヤワルデネ・スリランカ大統領』★『同大統領ー感謝の記念碑は鎌倉大仏の境内にある(動画)』
2014/11/30 記事再編集 瀬島龍三が語る『日本の功績を主張したセイロンの …
-
-
知的巨人の百歳学(119)-『元祖スローライフの達人・超俗の画家/熊谷守一(97歳)』★『文化勲章もきらいだが、ハカマも大きらい。正月もきらいだという。かしこまること、あらたまること、晴れがましいことは一切きらい』
知的巨人の百歳学(119)- 『元祖スローライフの達人・超俗の画家/熊谷守一(9 …
-
-
正木ひろしの戦時下の言論抵抗(正木ひろし伝Ⅱ)(上)
1 <静岡県立大学国際関係学部紀要『国際関係・比較文化研究』第3巻第1号(200 …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ ウオッチ(233)』-『Shohei Ohtani fever is really heating up in Angel Stadium』★『大谷が自己の可能性を信じて、高卒 即メジャーへの大望を表明し、今それを結果で即、示したことは日本の青年の活躍の舞台は日本の外、世界にこそあることを示唆した歴史的な事件である』
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ ウオッチ(233)』 Shohei …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(104)/★『記事再録/<まとめ>日本最強の外交官・金子堅太郎ーハーバード大同窓生ルーズベルト米大統領を説得して、 いかに日露戦争を有利に進めたか、その驚異のディベート・テクニック』★『『ルーズベルト大統領は「旅順陥落」に大喜びー黙っていると”Silence is Consent”。 どしどし反論せよ』⑤』
2015/01/22の連載記事 …
-
-
『倉敷美観地区動画3本付ー21世紀型の米国・利益至上資本主義が地球環境をつぶす!」★『100年以上前に公益資本主義を実践した経営者は倉敷紡績(現クラレ)を創業して社会貢献に尽くした大原孫三郎を学ぶ①』★『江戸時代、明治の街並み蔵が残る』岡山県倉敷市の「美観地区」の『大原美術館」』
2022/06/01 『単に金もうけだけしか考 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(336)-「日本の深刻化する高齢者問題―大阪を中心にその貧困率、年金破綻と生活保護、介護殺人、日本の格差/高齢者/若者/総貧困列島化を考える」★『一人暮らしの高齢者の全国平均は26,8%、大阪は41%、東京23区は36%』(中)
2016年(平成28)3月24日 講演会全記録 「大阪の高齢者問題―貧困率 …
-
-
『日中歴史張本人の 「目からウロコの<日中歴史認識><中国戦狼外交>の研究⑦』★『ロシア(旧ソ連)は簡単に『北蒙古(モンゴル)』を手に入れ中国へも手を伸ばした」』
2015/01/01/記事再編集 以下は坂西利八郎が1927年(昭和二)二月十八 …
