前坂俊之オフィシャルウェブサイト

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日露300年戦争(4)『露寇(ろこう)事件とは何か』★『ロシア皇帝・アレクサンドル一世の国書を持って、通商を求めてきた第2次遣日使節・ラスクマンに対しての幕府の冷淡な拒絶が報復攻撃に発展した』

   

 

 1783年(天明3)、日本の船頭・大黒屋光太夫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%B1%8B%E5%85%89%E5%A4%AA%E5%A4%AB

は伊勢から江戸へ向かう航海の途中に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護され、ロシアの首都ぺテルスブルグに移送された。

大黒屋光太夫は西欧文化・ロシア文化に親しんだ最初の日本人だった。1791年(寛政3)に大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96

と謁見した。帰国の願いがかなった光太夫は、翌年、陸軍中尉で北部沿海州ギジカ守備隊長・アダム・ラスクマンhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3

に伴われて根室に帰りついた。

女帝エカチェリーナの勅許を得てラスクマンは日本に開国を求めてやってきたロシア最初の遣日使節だった。ラクスマンは漂着民を届けるのと引き換えに日本に通商交渉を要求した。

江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず長崎への回航を指示し、ラクスマンには長崎への入港許可証(信牌)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%89%8C

を交付した。ところが、ラクスマンは目的は一応達したとしてそのまま帰国した。

 

幕府は南下政策を強力に進めるロシアを警戒して、1793年(寛政5)に津軽、盛岡藩に合計700人の藩兵の蝦夷地(北海道)防衛を命じ、沿岸に台場(砲台)を設営させ、異国船からの防備体制をとった。


このため津軽藩では北海道の箱館・サワラ・アブタ・モロラン・シラオイ・択捉島に兵を一カ所に50人ほど配置した。http://siva.cc.hirosaki-u.ac.jp/usr/koyama/lecture/et/amanai/tanken/syari.html

 

1804年(文化元)、こんどはロシア皇帝・アレクサンドル一世(1777年 – 1825年)の勅許を得てロシア外交官・ニコライ・レザノフhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B6%E3%83%8E%E3%83%95

が第2次遣日使節としてラスクマンへの信牌を持って「軍艦ナデジグ号」で津太夫ら仙台藩の漂流民4人を乗せて、喜望峰を経由してカムチャッカを回り10月8日に「長崎」に来航した。レザノフは「米露会社」の重役で、極東、アフリカへの進出に関わり、その後、ロシアのアラスカ、カリフォルニアの植民地化を積極的に進めた植民地主義者で、好戦的な人物であった。

1804年にアラスカでは原住民トリンギット族https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%83%E3%83%88

と戦争したシトカの戦いhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%88%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

で、一万年もの間アラスカを支配していたトリンギット族を完全に駆逐した。

当時スペイン領であったカルフォルニアにもレザノフは足を伸ばし、カルフォルニアを併合し、大量の移民を送り込んだ上で、北米大陸を植民地化する壮大な野心を持っていた。

レザノフはシベリア、アラスカなどでの食糧確保が困難なために、日本との通商により食糧調達を求めてきたのであった。

レザノフは長崎に入港しアレクサンドル一世の国書を捧げてき修好及び通商を求めてきた。

その国書の内容は次の通りである。

『天佑を保有し、大日本帝国を独裁する皇帝テンジン・グポー陛下に一書を捧呈す。金口シャを統治する皇帝は、陛下の治漠長久にして且つ多祥ならんことを祈る。

朕は我が考パウル一世、祖母エカテリナ二世の赫々たる勝利に由て、拡張せられたる国土を治め、和蘭(オランダ)、仏蘭西(フランス)、伊太利(イタリア)、英吉利(イギリス)、西域牙(スペイン)、独逸(ドイツ)の国土の、普く戦乱の巷となれるを視、此等諸国をして相親和し、宇内(世界)の平和に浴せしむるを以て、朕が責任となす。

朕は朕の領国を平和安穏の慶に浴せしめ、更に全力を挙げて、世界上の諸国、殊に我と比隣する諸国の相親まんことを謀る。

前女帝エカテリナ大帝は、日本帝国の尊敬す可きを知り、親善の意を表わすために、1791年を以て、海上難破の災に遭ひ、我が国土に漂着せる貴国の人民を、貴地に送還したりしが、

此時、派遣せる我が使節は、日本政府の歓待を受け、且つロシャ船一艘は、妨害なくして長崎港に出入するの允許を、日本政府より受領した。(ラグスマン使節の事をさす)

(略)相互の交通開始せられんには、其の利益の莫大なるべきを察し、加之、陛下の国土及其他の諸国の状態を詳かにせんことを希ひ、頃日、自己の企図にあらず、

全く天災に遭遇し、難船の為めに生命を失ほんとするを免れ、我が領土の一隅に於て、共生を全くするを得たる二三の貴国臣民を送還するを機として、使節を日本帝国に派遣せんとし、

我が信任する文事秘書官ニコライ・レザノフを簡みて全権使節となし、以て朕が素志を遂げしめんとす。

希くは予々に相当の礼儀を以てして、陛下の御前に近づくを許容せられ、朕が陛下に対する善隣の誼を継続し、之を永久ならしむる為め、幾許の熱心と方法とを喝せるかを諒とせられんことを願う。

陛下が朕の切情を認諾せらるゝ信契として、貴国より請わんとするは、朕の商人が貴国に出入するを許容せらるるのみならず、貴国の隣邦たるクリル諸島(千島列島)、アレウト諸島(アリューシャン列島)、カヂアグ諸島の住民にも、長崎一港に止まらず、数多の船舶をして、他の諸港にも出入することができるようにしていただきたい。

朕は朕の辺境の諸地方に命じて、忠良なる陛下の臣民歓迎せしむべし。如何なる条件により、将来我が商民との間に貿易をなす可きか、我が商船は貴国の何れの港湾に碇泊せしむべきか、朕は全権使節、文書秘書官レザノフに商議をなすように命じた・・・」(以下省略」(日本外交史⑴幕末外交128-130P)

   ペテルプルグに於て

   一八〇三年六月三十日

   朕が即位の三年 アレクサンドル一世

このレザノフの来航に対して、幕府の対応はどうだったのか。

幕府の態度は非常に冷たく、そ軍艦ナデジグ号の長崎入港を拒絶して港外に留めること76日間に及んだ。その後もレザノフ以外の長崎上陸を禁止し、レザノフが幕府側代表と会見し、実際に折衝するまでには、それから約六カ月の月日を要した。

この折衝には幕府からは目付・遠山景晋

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1%E6%99%AF%E6%99%8B

、長崎奉行・肥田頼常https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E7%94%B0%E9%A0%BC%E5%B8%B8

 

成瀬正定があたり、1805年(文化2)三月六、七、九日の三回にわたり会見したが、第二回会見のときの模様は次のごとくで、幕府はレザノフの要求を全然受けつけようとしなかった。

 しかしレザノフが幕府側代表と会見し、実際に折衝するまでには、それから約六カ月の月日を要した。この折衝には幕府からは日付遠山景晋、長崎奉行肥田頼常及び成瀬正定があたり、文化二年(一八〇五年)三月六、七、九日の三回にわたり会見したが、第二回会見のときの模様は次のごとくで、幕府はレザノフの要求を全然受けつけようとしなかった。

『我国、昔より海外に通間(国交)する諸国が多くはないが便宜がないために厳禁をしている。我国の商戸外国に仕事をとどめ、外国の売船もまたやすく我国に来ることを許さず。強て来る船舶ありといヘども、固く退けていれず。

 

唯唐山(中国)、朝鮮、琉球、紅毛(欧米人)の往来することは、互市の利を必とするにあらず。来ることの久しき、素り其謂れあるを以てなり。其国の如きは、昔より未だ信を通ぜし事なし。

 

計らざるに、前年我国漂流の人を誘て、松前に来りて通商を乞ふ。今又長崎に至り、好みを通じ交易を開かん由を計る。既に其事再におよんで、深く我国に望む所あるも、又切なるをしれり。

 

然りと雖も、望み乞所の通信、通商の事は、重ねてここに議す可らざる者也。我国海外の諸国と通間せざること既に久し。隣誼を外国に修むる事を知らざるにあらず。

 

 其風土、異にして、事情におけるも、又憶心を結ぶにたらす。徒に行李を煩らはしむ故を以て絶て通ぜず。是、我国歴世封彊を守るの常法なり。いかでか其国一介の故をもって、朝廷歴世の法を変すべけんや。

 礼は往来を尚ぶ。今其国之礼物を請て答へずんば、礼を知らざるの国ならん。答へんとすれば、海外万里何れの国かしからざらむ。容ざるの勝れるにしかず。互市の如きは、某国の有所を以て、我無所に更へ、各其埋あるに似たりといヘビも、通じて是を論ずれば、海外無価の物を得て、我国有用の貨を失はん。

要するに国計の善なるものにあらず。況やまた軽剽の民、奸猾の商物を競ひ、価を争ひ、唯利是を謀て、やゝもすれば風を壊り俗を乱る。我民を養ふに害ありて、深くとらざる所なり。

互市交易の事なくして、唯信を通じ、新に好を結ぶ。素よりまた我国の禁、ゆるがせになしがたし。ここを以て通ずる事をせず、朝廷の意、此のごとし。再来る事を費すことなかれ。速に帰帆す可し。」 

と拒絶し、レザノフ一行は翌年3月19日に長崎を去った。これにはレザノフはカンカンに怒り「日本は武力をもっての開国する以外に手段はない」と皇帝に上奏した。

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