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日本リーダーパワー史 (25) 中国建国60周年のルーツ・中国革命の生みの親・宮崎滔天に学べ②

      2017/12/04

日本リーダーパワー史 (25)
 
中国建国60年・中国革命の生みの親・宮崎滔天に学べ②
 

                         前坂 俊之

                                  

・孫文に会う

 同年九月、滔天は横浜で初めて孫文に会った。大陸風の豪傑を想像していた大男の滔天は自分とまるで反対の身長わずか百五十六㌢のきゃしゃで紳士的な孫文に失望した。対座した孫文は寝起きのままの姿で口も聞かず、挙動に重みがないので滔天はがっかりした。
豪傑を期待していた滔天には物足りなかったが、問いに応じて中国革命の方法や目的を語り出すと、初めは処女のようだった孫文はいつしか脱兎のような勢いついには猛虎が深山で吼えているように見えてきた。
孫文の答えは簡潔だが要点を押さえ、道理にかなっていた。滔天は孫文の革命家としての見識とその人物に一度に敬服した。
「私は恥ずかしく思った。孫文のような人は天真の境地に達しており、その思想の高尚さ、識見の卓抜さ、どれをとって日本人にはいない。実に東亜の珍宝であり、私は彼に傾倒するようになった」と『三十三年の夢』で書いている。
・2人の会話筆談で
この時の二人の会談は筆談で行われた。孫文は英語は堪能だが、日本語はダメ。滔天は英語はダメだが、漢文なら書ける。二人の意思の疎通ができる漢文を使っての筆談で、半紙に主に毛筆で書き続けられた。
その漢文も中国語の文語体での筆談だった。この時以来の孫文と滔天の会談は漢文による筆談で行なわれ、この記録の一部は今も宮崎家に残されている。外務省には「報告書の代わりに見本を一匹連れてきた」と孫文を紹介した。
以後、約十年におよぶ孫文の日本亡命中、滔天はつねに身元引受人的な役割を果たして、武器の調達からほう起の活動など革命実現のためのあらゆる援助、行動を惜しまなかった。辛亥革命の前後の困難な時期を通じても二人の信頼関係は揺るがなかった。
 
孫文は号を「中山」と称して、宿帳には日本名で「中山樵」と書いたり、自ら「孫中山」と名乗った。このいわれは孫文と滔天ら三人が宿泊先の旅館に向かっていた際、清朝政府から指名手配されており、本名を書くわけにはいかない。ちょうど中山公爵邸宅の前を過ぎた所で孫文が「これがいい、中山だ」とこれを拝借して宿帳には「中山樵」と記した。
この名を孫文は気に入り、自ら「孫中山」を名乗るようになった。「中山先生」は孫文へ敬称となり、いまも中国各地に「中山路」「中山公園」などの名が数多く残っている。
 孫文の三民主義、共和主義、アジアを侵略する列強への憤り、人類同胞主義などは滔天の思想とピタリと一致した。兄・民蔵の土地復権の、嘉と孫文の民生主義の「平均地権」はうり二つのものであった。
 以後、滔天は孫文の革命運動の絶対的な支持者として、犬養にも紹介し、二千円をカンパするなど、すべてをなげうって献身的に応援したのである。
・風貌魁偉の180センチの大男
ところで、滔天は当時としては百八十㌢近い身長のとびっきりの大男で、風貌魁偉で、顔は髭だらけで、いつも背をかがめて鴨居をくぐるのが癖で、しかも髪を腰まで伸ばしていたため、その少しはにかんだ表情と相まって、日本人離れした顔立ち、風体の際立って目立つ男であった。
アジアを股にかけていた滔天は、外国人から聞かれると「父は中国人、母は日本人、祖父はインド人なり」と自らを説明していた。
 その上、「ボロ滔天」とのニックネームで 呼ばれたほど、全く身なりにかまわなかった。それというのも金がなかったせいだが、何年も洗っていない和服を着て、その袖はいつも鼻をかんで拭くためテカテカに光っていた、といわれる。
 旅館や待合を定宿にし、革命談義で飲み明かし、飲み代や宿泊代の借金を踏み倒したりすることもしばしばだったが、人気があり、芸者や女将には大変もてて愛人が多かった。革命支援の滔天の志に打たれて、カンパする芸者も少なくなかった。
 滔天は、生涯、酒を愛し、浴びるほど洒を飲んだが、それとは反対に金には恬淡としていた。それ以上に、金銭を全く汚らわしいものとして、財布を一切持ったことはなかった。
・男子は金などに心を奪われてはならぬ
 
金銭という文字を書くことまでも嫌い、「新郎」(後から付いてくるもの)と書いたほどだった。
父・長蔵は子供たちに幼い時から「金は阿堵物。男子は金などに心を奪われてはならぬ」と固く教えていた。滔天にはそれが染みついていた。革命に没頭した滔天は、家庭のことはまるで眼中になかった。定職がないので収入はない。財産を叩き売り、売り食いでつなぎ、知人、同志、縁者、芸者、愛人からのカンパ、支援でしのいだ。
 フィリピン独立蓮動へ武器供給のために船をだして沈没したり、孫文が中国で革命をおこすための軍資金、武器の調達に走り回り、同志を募った。
 もちろん、家計は火の車だった。妻の槌子が思い余って相談すると、「革命のための金はできるけれども、妻子を養う金はない。お前で何とかしろ」と一向に顧みなかった。
 槌子は前田案山子の三女で、前田家は「他人の土地を踏まずに熊本までいける」と言われたほどの熊本で有数の資産家であった。その前田家や宮崎家は先祖伝来の土地、田畑、屋敷、骨董類も次々に売り払い、そのすべてを滔天の活動費につぎ込んだ。
 苦労知らずのご令嬢から、革命家の妻となった槌子はいきなり貧乏のどん底にたたき込まれた。生活のために必死に働き、三人の乳飲み子を養育しながら、滔天の革命資金作りに奔走して、夫を支えた。
・令嬢から、革命家の妻へ、り貧乏のどん底に
 熊本で初め、慣れぬ下宿屋をしていたがうまくいかず、次は石炭の小売り店、石灰屋、牛乳屋と転々と商売替えしながら 身を粉にして働き、がんばったが、病苦で倒れることが何度かあった。
 しかし、どの商売もうまくいかず、結局、子供を連れて夜逃げ同然で上京した。滔天一家は生涯、貧乏から離れられなかった。滔天がタイに行っている時、生活に困った槌子が手紙で窮状を訴えると、滔天は「貧乏はわれわれの身についた病気でなかなか治らない。貧乏はわれらに当然とあきらめ下され」と慰めともつかぬ返事を出している。
 
浪曲師になる
一九〇〇年(明治三十三)六月、滔天は孫文の第二回目の挙兵の準備のためにシンガポール に渡るが、ここで投獄され五年間の追放処分をうけ、帰途に立ち寄った香港でも同様の処分をうけた。
十月に孫文は中国・恵州で挙兵したが、再び失敗する。
革命蜂起にことごとく失敗し、滔天は失意の底に落ちた。一九〇一年(明治三十四)これに輪をかけた貧苦が重なり、どうしようもなくなった時、突然、滔天は浪曲師になると宣言した。浪人界からの脱落宣言であった。
滔天は犬養毅のところへ相談に行くと、「考えて置く」といって、後で長い手紙で、「止めよ」という。その後、頭山満のところへ行くと、「よい思いつきじゃ。貴様なら出来るだろう。やるがよろしい。賤業でも何でも、自分で働いて生きて行くのは、何よりよいことだ」と賛成する。そこで滔天は腹を決めて、雲右衛門のところへ行った。
・軍費を調達のため浪曲師となる
 兄・民蔵、槌子には「浪人の身で、他人の世話にならずに家族を養っていくのは難中の難事だ。食っていけないといっても商売もやれず、商売をやっても士族の商法で金にならず。歌って客の喜捨をうけることは、卑しいことではあるまい。歌をうたえば憂さばらしにもなる。しばらく坊主になった気で、浪花節の弟子入りをしようと思う」
と打ち明けたが、二人とも仰天し、必死になって、思い止まるように説得したが決意は固かった。
 滔天は浪人はやめると言っても、志を変えたのではなかった。軍費を調達し、同志を集めるには浪曲師となり、全国を回り、金をつくり、それを木の葉のようにまき散らして、「天下をとってみせてやる」と意気軒昂であった。
 桃中軒雲右衛門の門に入って、桃中軒牛右衛門を名乗り、自らの体験や政治についての自作浪曲「落花の歌」を語って、大正初年ごろまで高座に立った。当時、人気随一の桃中軒一座は全国を巡業して回っていたが、大変な人気であった。
・「落花の歌」はー。
「一将功成りて万骨枯る、国は富強に誇れども、下万民は膏の汗に血の涙、
飽くに飽かれぬ餓飢道を、辿りくて地獄坂、
世は文明じや開花じやと、汽車や汽船や電車馬車、
回はる轍に上下はないが、乗るに乗られぬ因縁の、からみくて火の車、
推して弱肉強食の、剣の山の修羅場裡、
血汐を浴びて戦うは、文明開化の恩沢に、漏れし浮世の迷ひ児の、
死して徐栄もあらばこそ、下士卒以下と一と束、
生きて帰れば飢に泣く、妻子や地頭に責め立てられて、
浮む瀬も無き窮境を・・・・・・」
 滔天は「新浪花節」として、自らが経験した政治講談を、名調子とはいかないが唸っていた。しかし、熊本なまりの強い滔天には、東京弁のタンカは切れない。武士や子供の声色も使い分けねばならず、うまくいかなかった。しかも、口下手で小心な滔天は出演の前には食事もノドを通らず、口演時間が近づくと緊張で心臓がバクバク破裂しそうになり、酒をあおって出ることが多かった。
・客席は閑古鳥
客席はいっぱいというわけではなかった。
客足も滔天の下手な口演で、ガラガラの日が多く、収入は一日わずか四十銭ほどのことも。名の通った福岡や九州ではいざ知らず、関西では滔天の知名度は今ひとつ。
大阪では閑古鳥が鳴いて、着て出る衣裳もない。知り合いの政治家に無理やり頼んで羽織紋付、下着、ジバン、オビ、袴まで新たらしいのを貸りてやっと講演に出たかと思うと、神戸では全然受けず、滔天一座は、コソコソ岡山へ夜逃げ同然に消えていったことも。三度の食事を一回で済ませたことも度度あった。貧苦よりの脱出は容易ではなかった。
・中国革命の夢、成就する
 家族は明治三十八年(一九〇五)二月に上京し、東京新宿・番衆町に滔天と一緒に暮らしていたが、この頃から中国人の留学生が土曜日、日曜日などひっきりなしに滔天を訪ねてくるようになる。
 ちょうど、二年前に三十三歳の滔天は半生を振り返って中国革命の自伝『三十三年の夢』を書き、出版され、翌年、この中の孫文の部分が中国語訳「孫逸仙」として、また、全訳「三十三年落華夢」が本国で相次いで翻訳出版された。
 この結果、中国の知識人、留学生の間で初めて孫文の存在が知られてきたのであった。中国国内では、それまで孫文について書かれたものはなく、「広州湾の一海賊」といったぐらいの認識しかなかった。滔天の書によって初めて革命家・孫文の実像が、広く中国で知られるようになったのであった。
 日清戦争で敗れた清国は明治二十九年に官費留学生十三人を初めて日本に送りこんで以来、その数は毎年急増して、明治三十七年には官費、私費留学生合わせて二千四百人、翌年は八千人、そして最高の一万二千人と急増した。
こうした留学生の中で、革命に関心を持った学生や亡命してきた革命家が次々に滔天を訪れ、滔天はその留学生たちに革命への熱い情熱を吹き込んだ。
・ボロ借家に華族5人、食客、革命家がゴロゴロ
 わずか四畳半、六畳の二部屋しかないような狭い滔天のボロ借家に家族五人のほか居候、食客、留学生、亡命革命家ら次々に転がり込んできた。
 家はいつも人でいっぱいだったが、風呂を沸かす燃料を買う金もないため、長男龍介(後の東大新人会リーダー)ら子供が近所にたきぎを拾いに行ったり、お客に出すお茶にもこと欠くありさま。息子・龍介が証言する。
「父はすこぶる酒を嗜んだ。時には日本側の同志ばかりで飲み、時には支那の同志もうち混って、朝から痛飲することもあった。月末には米屋に支払う金が無くても、無理算段をして、なにがしかの金を酒屋には入れた。たまたま支那から老酒の土産を貰うと『これで天下が取れる』と云って、大笑した。
壁のはがれた借家の床の間に老酒のかめを置いて、時時そのかめの横腹を拳で叩いては『まだある、まだある』と云って楽しんでいた。しかし酒とは反対に金銭はひどく卑んだ。金銭を懐に残すことは『町人の仕事』だと云って軽蔑した。
父は外出するにもおそらく、一円以上の金は持っていなかったであろう。父が生涯赤貧をもって終ったのも、極端に金銭を卑んだがためである」(「文芸春秋」一九三八年六月号)と述べている。
・授業料は滞納
 こうした滔天の潔癖のゆえに、龍介は中学から高校時代まで、いく度となく、月謝未納の掲示を出された。こんな時、母は、自分の衣物を質屋に運んで月謝に変えた。
「第六天町での父の生活は、やはり陰謀と貧困の連続だった。一年足らずのうちに、米屋や酒屋の支払いはだんだんと苦しくなった。もちろん家賃をやである。しかしこの第六天町の生活で、最も感謝すべきことは米屋は別として、洒、味噌、醤油、薪炭などを運んでくれていた三伊の主人である。彼は義侠的な変り者で、支払いが数百円に嵩んでも少しも催促しない。それに小僧の政君、小僧と云っても十八九の若者だったが、毎日酒徳利を入れる小桶を地り出しては、僕らと一緒に撃剣をやる。そして時間を忘れ日暮れてから帰って行く」
                                         (つづく)

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