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『史上最高の弁護士は誰か!」★『司法の正義と人権擁護、冤罪と誤判事件の弁護に 生涯をかけた正木ひろし弁護士をしのんで』

   

2019/09/22  『リーダーシップの日本近現代史』(54)記事再録

正木弁護士は「日本は昭和戦前も、戦後もー貫して暗黒なんだね。国民は一度もルネッサンス(人間解放)を経験していない。僕はこの暗黒の社会を照らす〝残置灯″を自負しているのだ。将来の日本人の一つのモデルになればと思っている。いわば僕自身の人生が実験だね」と語った。

  前坂 俊之(ジャーナリスト) 

正木弁護士といっても、今の若い人々には誰のことか全く知らないでしょう。ちなみに手元のスマホ、パソコンで「ウイキペディア」で調べていただく、正木ひろしの経歴が簡略に紹介されています。

正木ひろし(1896-1975)は弁護士兼ジャーナリストであり、1937年(昭和12)に個人ミニコミ雑誌『近きより』を創刊し、日中戦争、アジア太平洋戦争、敗戦というファシズムの時代に、多くの知識人、言論人が戦争に協力したり、沈黙していった中で、ただ一人で良心のペンをふるい戦時体制批判、軍部批判を書き続けた抵抗のジャーナリストです。

アジア太平洋戦争で全面敗北した1945(昭和20)年8月以降は国家悪・権力悪との戦いを独力で続けて「天皇プラカード事件」「首なし事件」「三鷹事件」、「チャタレイ裁判」「菅生事件」、「八海事件」、「丸正事件」などの数多くの冤罪事件を手がけ、正義の追及と人権救済に後半生を賭けました。明治中期に足尾銅山の鉱毒問題で戦った田中正造が公害反対運動の先駆者とすれば、正木は冤罪や誤判、裁判悪と戦った人権運動の先駆者といっても過言ではありません。

明治以来、現在まで日本の知識人で、組織ではなく単独で国家権力と真正面から戦って勝利した人物は数少ないが、正木はその稀有の実例であり、まさに「日本の良心」と呼ぶのにふさわしい人物です。
正木は弁護士に1975年に78歳で亡くなりましたが、私は生前にあって取材し、裁判記録や個人資料も一部拝借して、彼の伝記を書くとの約束を交わしました。この約束は未だに一部しか果たしてないので、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、今回のこの文章がその一端になればと思い書いています。

●私が正木弁護士に会うきっかけとなったのは、
 
彼が告発した「誤った死刑」の八海事件(山口県下で1951年に起きた老夫婦殺害事件で、5人共謀の多数犯か、単独犯かで裁判が計7回繰り返された事件)の真犯人に出会ったからです。新聞記者となって1972(昭和47)年に広島県呉支局に転勤となりましたが、ここで正木弁護士が『裁判官-人の命は権力で奪えるものか』(1955年3月刊、光文社カッパブックス)で告発した八海事件の真犯人Yにあったのです。

 

当時のベストセラーの代名詞となった光文社カッパブックスの『裁判官』は日本で初めての裁判批判本といえるもので、裁判中の死刑事件を担当弁護士が冤罪だとして告発した前代未聞の内容で一躍ベストセラーとなり、これを、山田典吾製作、今井正監督が『真昼の暗黒』(1956年)で映画化しこれまた大ヒット。大きな社会問題となりました。同映画は社会批判の問題作として「キネマ旬報」ベストテン第一位など56年の映画賞を総なめにし、最後の場面で無実の死刑囚の主人公が「まだ最高裁があるんだ!」と金網越しに絶叫するシーンは大反響を呼びその年の流行語にもなりました。

〇八海事件で「司法殺人」は許されるかと追及した正木弁護士

「神の名によって司法殺人は許されるか」という激烈な言葉で、正木弁護士は最高裁に挑戦状をつきつけたのです。これに対して、当時の田中耕太郎最高裁長官は55(昭和30)年5月の全国高等裁判所長官、地家裁所長会合で、「裁判官は世間の雑音に耳を傾けるな」、「流行の風潮におもねるな」と異例の反論を行い、マスコミでも裁判論争は過熱して、正木弁護士の勇気ある行動はますます注目を浴びていきます。

結局、最高裁は事件を高裁に差し戻し、広島高裁では無罪,さらに第2回最高裁では逆転し再び広島高裁に差し戻しとなり、今度は有罪となり、結局、17年余の長期裁判で7回の裁判を延々繰り返し、1975年3度目の最高裁で破棄無罪が確定するという異例の展開となりました。それこそ名前の通り「やっかいな事件」で、松川事件と並んで昭和戦後を代表する冤罪事件です。

真犯人Yは1953年に無期懲役が確定し、1971年に広島刑務所を23年ぶりに仮出所して 呉市内の更生施設に入り、造船所に就職、名前を隠して第二の人生にスタートしていました。新米記者だった私は、裁判でもめにもめた天下の大事件の主人公だったYだけに、どんなに怖いとらえようのない難しい人物かおっかなびっくりで取材に出かけたのです。一九七二(昭和四十七)年十二月のことでした。

あった瞬間から驚きの連続でした。私が質問する前から、一方的に事件について、裁判についてべらべらしゃべり続けて『警察はワシの指の間に鉛筆を入れてわしずかみにしてぎゅーと握り、あの手この手で拷問をくわえて、本当のことをいっても聞いてくれない。警察の筋書き通りに認めると可愛がってくれる。ウソの供実をしたのは死刑を逃れたいための一心から』という。

真実を見抜きたいと全神経を注いで凝視していた私の顔を正視せず、目をキョロキョロさせる落ち着きのない態度で、その話しぶりはつじつまのあわない、すぐウソと分かる、軽薄な話しぶりでした。どう見ても、思慮分別のある、信用できる態度ではなく、新聞、週刊誌などの記事、裁判書類を通してつかんできたYのイメージと本物とのあまりの落差に私は脳天をバットで殴られたようなショックを受けて、1時間も話をしないうちに、本性を見た思いでした。

 

Yは裁判中はその証言をめぐって弁護側から「虚言癖がある」として、何度か精神鑑定の要請がありましたが、裁判所はこれを拒否して、精神鑑定は行われていませんでした。出所後に入院中の病院で行われた精神鑑定が行われた結果では「知能指数は七〇点台(普通の場合は一〇〇点以上。八〇点から一〇〇点までが大体、ボーダーライン、症状の順位からいうと、正常、ボーダーライン、軽愚、呂鈍、痴愚白痴となる)で、軽愚」との鑑定が出され「虚言癖」は認認められたのです。

つまり、私の直観の方が、膨大な誤判の裁判書類よりも正しかったといえます。

Yの第一印象に衝撃を受けた私はYから徹底して取材し、関係者に総当たりして「なぜ、一目でこんな信用できないとわかる人間によって、日本の最高の知性の集団といってよい裁判所はふりまわされたのか」、「警察、検察はなぜ不正をおこなうのか」、「また「正木弁護士のヒューマニズム、思想と方法論を明らかにする」ことによって「日本の裁判の病理」を明らかにしたいと決意したのです。

呉で八海事件を最初から最後で献身的支援したのは原田香留夫弁護士ですが、その応援によって山口県、広島県内などの関係者を、休みを利用して片っ端から取材をはじめました。

 

○私が正木弁護士にはじめてお会いしたのは


ある程度、事件の輪郭が頭に入った一九七四(昭和四十九)年夏。私は夏休みを利用して、呉から上京して3日間、八海事件について話を聞きたいと正木弁護士に初めて手紙を出しました。すぐハガキで返事がきた。御宅の一階右側の八畳間に宿泊してもよいこと、正木弁護士自身のその時のスケジュールとともに、宿泊の条件、心得として次のように記してあった。

『ミヤゲもの搬入禁止、小生の在不在に無関係に滞在のこと、当方の提供するもの、座布団、コタツ、ヤカン、ドビン、茶碗など、風呂自由、小生は二階で仕事、天井で音がするのはあらかじめ承知されたし等々』
明快に述べ、心あふれる文面でした。
昭和四十九年八月三十一日。正木弁護士のは東京のJR(国電)中央線市ヶ谷駅に近くにある事務所兼自宅を訪れました。回りには近代的なビルや建物が立ち並んでおり、その谷間にポッンと取り残されたように、壁一面にツタがおおい、戦後間もなく建てられたままの古ぼけた安普請の木造二階建てのお宅であった。

見ると聞くとは大違い。当時のマスコミで「もっとも有名で、最も尊敬されていた刑事弁護士だけに」、こんな慎ましやかな生活以上の貧乏生活をしていたのかと、マスコミ報道と現実の落差に驚きました。3畳ほどの玄関には破れた粗末なソファが一つ置かれただけ、その横に頑丈な鉄製の大きな金庫があった。焼けてはいけない貴重な資料をここに保存していた。来客用の応接間といったものはなく清貧という以上のその暮らしぶりに胸が熱くなった。

御宅は交通の便のよい一等地だけに、相当な金額で土地を買いたいという話が持ち込まれたといいます。家を改築する話しもしばしば出た。しかし、正木弁護士は頑として受け付けなかった。引越しや、改築によって、仕事が一時的でも中断されるのがイヤだったのです。
「今一番ほしいのは時間なんだね。(当時、正木氏は77歳)、もう十年間ほしい。そうすれば丸正事件も何とかできるし、私の仕事も完成できるしね」と話された。

昭和戦後もすでに三十年。日本が敗戦のどん底から復興して高度経済成長で裕福になっていったのとは逆に、貧苦の中で正木弁護士は棄民として抹殺されていく冤罪者を救援するため、国家権力の最深部まで下降していったのです。両者のコントラストがその家並に象徴されていました。

その夜、風呂をすすめられました。風呂は玄関左側にあり、三畳間ほどの広さで木製の小さな湯舟があった。両側のカベは湿気で腐り、アチコチ破れがひどい。天井のベニヤは今にもくずれそうで、ビニールでおおっていました。
外はちょうど台風の接近で猛烈な雨がトタン屋根を大きな音でたたいていた。そのうち、二、三カ所から雨もりが始まり、天井といわず、カベといわずしずくが一斉に糸を引いて流れ落ちてきたのです。約十分ほどして雨が小降りになると、雨もりも断続的になりましたが、私は二階の書斎で仕事に没頭されている先生のことを思うと思わず涙が流れてきました。
「無実で獄に苦吟している人たちのことを思うと、ぜい沢などできないよ」と話されましたが、きびしく己れを律しておられたのです。

○ 日中戦争、太平洋戦争下の戦いー「近きより」と「首なし事件」

 

 正木弁護士の昭和戦前期の「近きより」によるペンによる戦時下の戦いと「首なし事件」は知れば知るほど驚くべき正義感と勇気とその「推理小説以上」の超人的な記録です。

一九三七(昭和12)年4月、個人雑誌『近きより』を創刊して、時局批判を行うスタートを切っています。この時、正木は41歳。

弁護士業務を始めてからすでに約12年、民事を中心とした中堅の弁護士として活躍し、約3千人の交友者があり、裁判官からの信任も篤く、法曹界でも成功を収めていました。社会正義のためにそれを投げうったのです。

正木は創刊の辞で 「私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてた。公共の利益が私欲や無神経のために踏み踊られているのを見ると、堪え難い憤りを感じ、心臓の血圧が倍加して来る。私の信念に従って行動することが、私に許された生命実現の有力なる道であると確信する」

「近きより」の命名はカーライルの言葉の「汝に最も近い義務を果たせ、汝が義務と思う所を果たせ」「道は近きにあり」から取った。「私はあらゆる意味に於て『近きより』始めようと思う」とあり、正木の知行一致の精神が現れている。それまでの売れっ子弁護士の道を捨て、陸軍クーデターによる首相、重臣らを暗殺した二・二六事件から約一年余で、日中戦争勃発前夜の軍靴とファシズムがうねりとなって高まる時代に軍国主義とファシズム批判に敢然と立ちあがったのです。「近きより」は空襲で自宅が焼けた20年五月以降も、ガリ版で毎月休むことなく、最も困難な時代に10年間以上も続けたのです。

『亡国後、数年または十数年の後に生き残った子孫によって、昭和の暗黒時代にもこういう言論があったのか。われわれの父兄たちはこういう悪魔の支配によって、家畜のように殺されたのかという事実を知ってもらいたい』との日本への遺書的な痛切な思いから続行したもので、東条英機首相を真正面から批判する文章も連載しているほどです。

当時、すべての知識人が沈黙して、物言わず、ましてや反対行動に立ち上がった知識人、政治家、エリート、市民が皆無だった中で、正木弁護士の「近きより」の言論抵抗は「日本人の勇気とレジスタンスの記録」として後世に長く伝えるべき記念碑と思います。

1941年12月以降、日本はついに無謀なアジア太平洋戦争に突入します。出征兵士としてかつての教え子たちが大義名分のないこの戦争で、次々に犠牲になっていく姿を座視できなくなる。「自分は正義のために死ぬのはいいけれども日本のことを考えるとおかしい。先生なんとか正義の社会にしてください」と教え子たちからの年賀状や手紙が舞い込む。正木弁護士は言論活動から、行動の世界に一歩踏み出し,命がけの闘争を開始します。

 

戦争の敗戦が色濃くなってきた1944年(昭和十九)、茨城県那珂郡の炭鉱で現場主任が警察官に殴り殺されたいわゆる〝首なし事件〟が発生し、その弁護を依頼されます。一銭の金にもならないこの事件で、現場に乗り込み、拷問の証拠をつかみ、警察が病死として埋葬されていた被害者の遺体を墓場から掘り出して拷問による出血跡の残る頭部を切断、東大法医学教室に持ち込み古畑種基数授に鑑定を依頼したのです。

正木弁護士は東京から汽車にのって墓堀人と一緒に警察に乗り込み、そのスキをついて夜間に墓場で首を切断し、バケツに入れて、警察に見つからないように東京まで汽車で戻り、鑑定で拷問暴行死の証拠をとり、警察官を告発するまでのスリルに満ちた実話はすごい迫力です。

◎「日本人の正義と勇気とレジスタンスの記録」

特高警察が猛威をふるい、国民のすみずみまで監視の目を光らせていた時代。警察に見つかれば死体損壊罪で抹殺、殴り殺しにされかねません。この間の正木弁護士の命がけの勇気は英雄的なものさえあります。
事件の発生当時、正木弁護士の身を心配した岩波茂雄(岩波書店社長)が貴族院議員・伊沢多喜雄に引き合わせて保護を頼んでいます。伊沢議員はその純粋な行動に胸打たれながらも、ダメ押しのように質問しました。
『君がそれだけ警察側の非をあばこうとするならば、地下三千丈の足もとを掘り返されても何も出てこないという信念がいるけれど、その点は大丈夫かね』
正木弁護士は瞬時に答えました。

『地下三千丈を掘り返されても、私にはやましいところは一つもありません』

その時、伊沢議員は涙さえ浮かべていたという。正木弁護士はこの事件で神の摂理を感じて、神の存在を確したのです。

戦時下の正木の行動については外交評論家・清沢洌は自らの「暗黒日記」の中で「驚くべき勇気と正義の持ち主」の稀有の日本人だと絶賛し、戦時下の日本人の特性について「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナ精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性など日本人の劣性は戦後何十年かたって果たして克服されるのだろうか」と指摘しています。

この「近きより」の現物は昭和四十九年八月にはじめ正木邸に取材にいき、八海事件の取材が一段落して、奥に引っこんだ正木先生は「これを記念にあげるよ」と茶色っぽく変色したガリ版ずり冊子をくれた。それが「近きより」であった。そんな貴重なものが残っているとは思ってもみなかっただけに驚きました。
よくみると、敗戦の日、昭和二十年八月十五日の手書きのガリ版ずりであった。これを読んだ時の感動は今も忘れられない。

『敗戦日本』

日本は降伏した、神の審判は厳に下ったのである
敗北して尚お生存を続けているのは、宏大無辺なる神の恩寵である
神が日本民族絶滅一歩手前に、一度反省の機会を与えたのである
もしこの恩寵を理解し得なかったならば、直ちに 恐るべき最終の審判!
民族絶滅へと移行するであろう、
罪悪の国 日本! 遠き野蛮未開の時代は知らず
中世以後において日本ほど、愚昧にしてかつ悪徳の国があったろうか

(「近きより」昭和二十年九月号)

新聞記者となって以来、常に私の心にあった問題は「ヨーロッパでは第2次世界大戦でファシズムと戦った知識人や国民のレジスタンス運動があったのに、日本ではなぜ知識人、国民に反戦、平和運動は起きなかったのか」という疑問です。正木弁護士に会い、「近きより」を直接、手にした瞬間に、八海事件の解明と同時にこれが一挙に具体的なテーマとなったのです。

○戦後は数々の冤罪事件で超人的な活躍をした正木弁護士。

 さて、話を正木弁護士のその後の軌跡に戻すが、戦後、プラカード事件、三鷹事件、チャタレイ事件、菅生事件、白鳥事件などで権力悪との戦いを続けて、無実に苦しむ名もなき人のために驚くべき持続力で戦い、日本の司法制度を改革することを念願しました。

約十八年後にやっと無罪を獲得した八海事件。無実で二度も死刑判決を受けたAの救援を依頼する手紙に対して正木弁護士は次のような返事を出しています。

『私はキリスト教の教理の真正なることを確信し、十字架を尊敬するために自らが貴君の身代りになるつもりでこの事件と取組んでいることを記憶していて下さい。私自身がキリスト教の真正なることをアカシしようとしているわけです』 (昭和二十九年六月十九日付)

『どんなことがあっても君等を見殺しにするようなことは絶対にない。僕は君と生死を共にする。それがキリストの愛の教えである』(同年十月二十五日付)。
彼はこの言葉を寸分たがわず行動に移したのです。

正木弁護士はキリスト教を熱心に信仰されていた。訴訟の記録や書物がところ狭しと並んだ二階の書斎。そこに数冊の聖書があった。背綴がポロポロで、うっかり開くとページが落ちるほど熱心に読み返されていた。しかし、教会に行くとか、特定の宗派に属さず、あくまで、正木弁護士独自の信仰でした。

「人間一人一人がみんな神の子なんだね。権力が人間を踏みにじるのはもちろん我慢できないが、若い人が自殺したり、若死にすると裏切られたような腹立たしい気持になるんだね」

それだけに、冤罪にまき込まれた名もなき人の生命をいとおしんだのです。「いわば、次から次へと、僕の前を助けを求めて流されてくる。放っておくわけにはイカンだろう」とも話された。法の不正そのものである冤罪こそ、氏が最も憎むべきものとなるのは当然であった。

日本人には正義と公正という観念は希薄で、戦後でさえ、「正義」はいつも「自由」「権利」「生活」「経済」という言葉の陰に追いやられがちでしたが、封建的な社会の忠君・上下関係、人間関係が残っているためです。
テレビや映画ではいつも正義の士が躍っているというのに。現実の正義の士、正木弁護士は孤立無援の戦いを強いられてきました。冤罪に陥とし入れられた被告は一様に貧しい。弁護料などもちろん払えるはずがない。
正木弁護士の収入といえば、事件について著述した原稿料か印税しかなく、これとて貧しい被告にカンパすることが多く、生活を度外視した活動でした。

しかし、こんな正木弁護士の態度を〝売名の徒〝スタンドプレー〟と法曹界の中でも非難する人が多かったのです。
「日本は戦前も、戦後もー貫して暗黒なんだね。国民は一度もルネッサンス(人間解放)を経験していない。僕はこの暗黒の社会を照らす〝残置灯″を自負しているのだ。将来の日本人の一つのモデルになればと思っている。いわば僕自身の人生が実験だね」としみじみ話されたのが、強く印象に残っています。

正木弁護士は私のこのインタビューの1年後に亡くなられた。78歳、取材に行ったあとに「「半世紀も年の離れた若い新聞記者が冤罪の解明に立ちあがったことを偉とす。裁判の実態を世の中に広く知らせてくれることを願い、楽しみに待っている」との手紙が届きました。

○オリバー・ストーン監督の日本人批判

さてさて、すでに昭和敗戦から約70年、正木弁護士にあってから35余年が経過しました。

この70年は昭和の敗戦、焼け跡、廃墟のどん底から復興、東京オリンピック、高度経済成長の驀進、世界第2の経済大国のピークに達して、経済バブル化、平成とかわってそのバブルがはじけて、「失われ10年」へ。
平成となり、さらに「失われた20年」が続く興亡サイクルをたどり、2011年の、3・11の東日本大震災・福島原発事故に直撃され「第3の敗戦」を迎えようとしていますね。

 

清沢洌の指摘した日本人の精神構造における「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナリズム、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性」が原発事故対応についても鮮明な既視感(レジャビュ)をもってよみがえってきたこの頃です。

この8月、ベトナム戦争を題材にした映画「プラトーン」(1986年)などで2度のアカデミー監督賞を受賞したオリバー・ストーン監督が広島での原水禁大会などに出席しました。同監督は米トルーマン大統領の原爆投下の責任と戦後の米国のベトナム、イラク戦争などの戦争犯罪をきびしく追及、返す刀で日本の戦後政治と戦争責任問題も合わせて批判するスピーチを行っています。

第2次世界大戦の敗戦国のドイツと日本を比較し、戦争責任を自発的に問いアメリカの覇権政治から脱却し、EU統合のリーダーとして平和を目指すドイツに対し、日本は米国の属国に安住し、具体的な平和の行動をとってこなかったと批判。「戦後、日本は素晴らしい文化、素晴らしい映画が、素晴らしい食文化を作りました。けれどもただ一人の政治家も、ただ1人の総理大臣も、平和と道徳的な正しさを代表したことはありません。あなた方は何のためにも戦っていない」と弾劾しています。

日本人は「日本的な人間性」「ドメスティック(国内的)なヒューマニズム」の自己愛から、さらに一段上の「人類愛的なヒューマニズム」と具体的な行動を起こしていないという厳しい問いかけです。

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