知的巨人たちの百歳学(182)/記事再録/作家・野上弥生子(99)-『今日は昨日、明日は今日よりより善く生き、最後の瞬間まで努力する』★『『いっぺん満足のゆくものを書いて威張ってみたいのよ』』
2015/09/25/百歳学入門(22)
作家・野上弥生子(99歳)の最期まで書き続ける努力
前坂 俊之(ジャーナリスト)
野上弥生子(のがみ・やえこ)1885・明治18年5月6日~1985・昭和60年3月30日没、享年99歳、小説家。大分県の酒造業者の家に生まれる。結婚後、漱石の推薦で文壇に登場。「迷路」「秀吉と利休」-など本格的長編多数。『海神丸』で文壇の注目を集める。『迷路』で読売文学賞を、『秀吉と利休』で女流文学賞を受賞。一九七一年に文化勲章を受章。神奈川県・東慶寺に墓がある。
弥生子は英文学者で能の研究者であった夫・野上豊一郎は夏目漱石の門下生で、その影響で小説を書き始めたのは明治40年。夫を通じて漱石に私淑、その文才を認められて作家として世に出た。以来、天寿を全うするまでのおよそ80年間、生涯現役で作家活動を続けたことは驚異に値する。彼女の並々ならぬ努力と強い意志があったからで、それがまた、長寿につながったのであろう。
弥生子は三十代から亡くなる十七日前まで日記を付けており、漱石の門下生の集まりである「木曜会」などの様子も初期の日記に書かれている。
この毎日毎日、1日も欠かさず日記を書くという規則的なカタツムリの歩みが百寿と膨大な創作につながったのである。
『平和な仲の良い夫婦ほどお互いに難しい努力をしあっている』
その日記は関東大震災で焼失し、残っているのは一九二〇(大正九)年から一九二三年までのメモと日記が混ざった手帳と、同年七月から本格的に始まった日記帳に書いたものや、その後は大学ノートに書かれたものなど、一九八四(昭和五十九)年七月から八五年3月13日付の最後の日まで合計119冊にのぼる。近代文学者の日記では最も資料価値が高いとされる。
ほとんど毎日書いているが「日記5日怠る。執筆のため」など多忙なときは書いていない日もある。最後となった三月十三日の日記は、雪が残る庭の様子のあと「ソヴェート・ロシア。ゴルバチョフの出現で別な世界をつくりあげることが果たして可能であらうか」と書いている。
世間では夫婦仲がよいと見られていたが、日記に時々夫婦げんかのことが出てくる。「こんな事が起る度に夫婦生活といふものの一面の暗黒性が私をおびやかす。私たちのように比較的調子よく行っていると信ぜられている人間のあいだでもこれである」(大正十四年七、月三十日)。夫婦関係の機微がにじみ出ている。最晩年、これらの日記が公開されることに関して、「私個人のこともいろいろはっきりするでしょうけれども、それよりも社会的な出来事がみんな書いてあって、新聞の切り抜きも入れてあるわけ。……私の日記だけを研究する意味もあるでしょうね」と語っている(『図書』「山荘閑談」一九八五年六月号)。
『今日は昨日、明日は今日よりより善く生き、最後の瞬間まで努力する』
代表作の『迷路』は戦前からの構想を一九四八(昭和二十三)年、六十三歳のとき第一部を出版、七十歳で六部作を完成した。最後の作品となった『森』は、八十二歳のときから書き始め、亡くなる直前まで、十八年にわたって書き継がれた。ゆっくり時間をかけて息の長い巨編を紡ぎだしていくタイプであった。『野上弥生子全集』(全23巻)がある。六十五蔵のときの随筆「私の信条」では、「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで努めよう」と書いている。あくなき執筆意欲はこの信条の実践だった。
晩年の彼女は、87歳のときから書き続けてきた自伝的長編「森」の完成に向けて、1日に原稿用紙2枚というノルマを自身に課していた。息子の野上素一さんの記録によれば、執筆は昼前に済ませ、2時間ほどの昼寝をとる、朝食は菓子と抹茶、昼食はトーストとミルク、夕食は自分で作る、という極めて規則正しい生活ぶりであった。
『いっぺん満足のゆくものを書いて威張ってみたいのよ』
九十九歳まで、ほとんど病気らしい病気はしたことがなく長寿を保った。晩年は軽井沢の別荘でひとり暮らしの執筆生活を続けた。その生活は簡素で早寝早起きの規則正しいものであった。
毎朝七時ごろから二、三時間で、原稿用紙二、三枚書くのが日課。テレビで貴晩年にその姿を映していたが、倍くらいの原稿用紙に、天眼鏡を使いながら大きな字でマス目を埋めていく執筆ぶりが印象的だった。
毎朝七時ごろから二、三時間で、原稿用紙二、三枚書くのが日課。テレビで貴晩年にその姿を映していたが、倍くらいの原稿用紙に、天眼鏡を使いながら大きな字でマス目を埋めていく執筆ぶりが印象的だった。
一見単調に見える生活を送りながら、野上弥生子の作家としての好奇心と意欲は、最後まで衰えなかった。昭和59年に行われた白寿祝いの席上で「世の中を見る眼も時代とともに変わり、あれもこれも書きたいと頭に浮かんでくるものがあります」とあいさつした彼女だったが、その死後、大友宗麟を題材にした新作品の構想メモや資料が、実際に用意されていたことも分かった。
そして、周囲からは文壇最長老してほぼ頂点を極めたと思われた九十五歳のときのインタビューでは、
「あたくしほんとうに自信ないのよ。自分でどうやらものになっていると思うのは『秀吉と利休』ぁたりじゃないでしょうか」(「毎日新聞」一九八〇年七月十一日付)
「あたくしほんとうに自信ないのよ。自分でどうやらものになっていると思うのは『秀吉と利休』ぁたりじゃないでしょうか」(「毎日新聞」一九八〇年七月十一日付)
と本音を語っている。このいつまでも自分に満足しない気持ちが、作品のエネルギーとなった。
白寿を祝う会では「もう余裕はないと思っていましたが、こうしてお祝いを受けると、もう一度、何か書いておかないといけないなあ、と思います」とあいさつした。
白寿を祝う会では「もう余裕はないと思っていましたが、こうしてお祝いを受けると、もう一度、何か書いておかないといけないなあ、と思います」とあいさつした。
いよいよ『森」の最終回の構想を練る段階に至っていた昭和60年3月29日、午前9時ころにトイレに立って寝室に戻ったところで弥生子は倒れた。一時意識が混濁、午後には小康状態となったが、翌30日未明、再び意識を失い、血圧が50―60に低下。長男夫妻らに見守られて午前6時35分、静かに息を引き取った。 死因は急性心不全。満百歳の誕生日まで、後一月余りだった。
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