知的巨人の百歳学(105)-「120歳は幻の、実際は105歳だった泉重千代さんの養生訓』★百歳10ヵ条『⓵万事、くよくよしないがいい。 ②腹八分めか、七分がいい。➂酒は適量、ゆっくりと。 ④目がさめたとき、深呼吸。⑤やること決めて、規則正しく。 ⑥自分の足で、散歩に出よう。 ⑦自然が一番、さからわない。 ⑧誰とでも話す、笑いあう。⑨歳は忘れて、考えない。 ⑩健康は、お天とう様のおかげ。』
2018/11/21
120歳は幻の、実際は105歳だった泉重千代さんの養生訓
1979年(昭和54)6月、ギネスブックは、114歳となっていた泉重千代を「世界最長寿者」と認定した。その後、
泉翁は120歳まで生きて、マスコミで有名人となったため徳之島の泉重千代邸には観光バスが毎日のようにおとずれる人気となった。
ところが、泉翁の年齢について、その戸籍の記録に疑義が指摘されたため、ギネスブック2012年版では最長寿の記録を取り消した。専門家の年齢資料の鑑定では、120歳ではなく105歳が通説となっている。
以下の原稿は 2009年6月に雑誌に掲載したものだが、年齢の違いが判明する前であり、105歳であったにしても稀有な百寿者で、あり、最期まで元気に過ごしていたその健康法は大いに参考になるので、そのままここに再録した。
「長寿は芸術であり、哲学である」-今(2009年)、日本は女性の平均寿命85歳という世界一の長寿国であり、世界の歴史上にもない最速のペースで超高齢社会に突入している。
「日本の2007年の高齢化率(六十五歳以上の人口比率)は二〇・一%で、人口三千万人以上の世界37ヵ国の中では最高、次いでイタリア(一九・七%)、ドイツ(18,8%)、スペイン(16、8%)の順。5年前の調査ではイタリアがトップで、日本は2位だったので、日本の高齢化がいかに急ピッチに進んでいるかを示した。(『日経2007年7月11日付』)
平均寿命はさらにのびる見込みで、お年寄りの誰もが元気で長生きして『センテナリアン』(百歳人)をめざす時代が今、幕開けようとしている。そんな、『最長寿日本』のシンボルが泉重千代である。
昭和54年6月、ギネスブックは、114歳となっていた泉重千代を「世界最長寿者」と認定した。泉翁はその後も長寿の記録を日々更新して、還暦を2回迎え、人の2倍の長生きをした「大還暦」(120歳)を人類史上はじめて越えた。1986年(昭和61)2月21日になくなったがその生存日数は120歳237日に達した。
泉さんの記録はその翌年八月四日、南フランス・アルルに住むジャンヌ・ルイース・カルマン(女性)によって抜かれ、カルマンは122歳164日まで生きて亡くなった。現在、しっかりした記録の残っている人物で史上最も長生きをした人はカルマンであり、男性では泉さんである。
泉重千代は幕末の大混乱期の慶応元年(1865)6月、砂糖キビ農家の長男として鹿児島県徳之島伊仙村で生まれた。徳之島を含む奄美群島は日本で唯一、黒砂糖の生産地である。当時はまだ、島津藩の代官による「作地強制割当」、「強制労働」、「抜糖死罪令」(砂糖を勝手に横流しした者は打首)などの圧制下にあった時代で、島民には黒糖生産の過酷なノルマが課せられていた。
3歳のときに,明治維新を迎えたが、全島で天然痘によって約2千人が病死。富農からは奴隷扱いだったサトウキビ労働者を,黒糖90キロと交換して解放せよとの政府の指令が出た。
明治5年に戸籍法が制定され,泉の生年月日が村役場で正式に記録されたが、この時の徳之島の人口は約二万三千人。明治8年の「苗字使用許可」によって泉姓を名のった。徳之島は台風銀座に当たるだけに毎年、何十回も襲来する台風で全戸の半分が倒壊したり、干ばつでソテツの赤い実しか食べられない「ソテツ地獄」で餓死者が続出するなど過酷な風土、条件の中で、成長していった。砂糖キビ農家の長男なので、その栽培で生計を立てていた。
泉が所帯を持ったのは日露戦争が勃発した明治37年、39歳と晩婚である。島内に住む15歳年下のミヤと結婚した。51歳の時にやっと子供がさずかったが、わずか1歳7カ月で長男は病死してしまう。
昭和4年,世界大恐慌が日本にも波及した。黒砂糖の価格も大暴落して島民は米が買えず,ひどい「ソテツ地獄」に陥った。サトウキビ栽培では食べていけず、すでに65歳になっていたが、鹿浦港の近くに引っ越して沖中仕となった。沖合に停泊する本土に砂糖を運搬する本船に、伝馬船が岸とこの本船の間を何度も往復して、沖中仕が黒砂糖の樽(60キロ)を肩にかついで積み込む仕事である。
若い者でも「塩をなめる」といわれたほどきつい労働で、すでに還暦を過ぎていた泉は、この過酷な肉体労働を70歳半ばまで10年間以上も続けた。驚くべき体力である。このせいもあり泉の腰骨は90度以上もすっかり曲がってしまったが、逆に、強じんな体力を保つことになり最長寿の要因の1つなったことは何とも皮肉である。
昭和20年、終戦を迎えると,泉は再び、生まれた所へ帰り、「サタ(砂糖)つくり」に戻った。この1年前に、58歳で生まれた長女が20歳の若さで亡くなり、昭和31年には37年間連れ添ってきた妻ミヤが75歳で死去する。家族のすべてに先立たれて1人ぼっちになった。
すでに90歳を過ぎていたが、この淋しさを乗り越えて生き続ける意欲を持ち続けた。それは何が何でも長生きしたい、というような大げさなものではなく、「お天道様(天、自然)によって人間は生かされている」といった淡々とした寿命感で自然流に生きてきたのである。島では食べるため、誰もが死ぬまで働く。泉は100歳をすぎても肩や脚の筋肉は衰えず、自宅の畑で農作物を作り、元気で働いた。
114歳のギネスブック掲載時にマスコミ取材が殺到するが、この時も毎日、サトウキビの葉落としの作業を行い、畑で野菜を作っていた。記憶力は確かで、言葉もしっかりしており、山道など息切れすることなく元気に歩き回り、医者やマスコミ関係者と、一緒に泡盛をのんで、島歌を最後まで歌詞を忘れずに歌って、その驚くべき元気ぶりが記事になっている。
119歳での泉の身長は143センチ、胸囲は80センチ、血圧は60-170、視力は左は失明、右は正常、歯はないが、耳は両方とも良好と診断されている。
その長寿/健康法は
① 第一はその自然流の食事にある。子供のときから「あるものを食べるだけ」、「食べ物に特に気をつけたことはない」というが、主食は島伝統のからいも(サツマイモのこと)であった。からいもは老化防止のビタミンCやセンイ質もたっぷり含まれた長寿食である。
② これに野菜は家の畑から、大豆、ほうれん草、サヤエンドウ、カボチャ、とくに大豆を好んだ。自給自足に近く自家製のものが大半。それに山菜や木くらげ、ニラ、ノビルなどの野草も。魚は赤ウルメ (たかさご)、トビウオ、イワシ、サバなど周辺の海でいつでも取れる小魚。海藻類、貝やアワビは干潮時に採っては食べた。イワシなどはDHCなど、若さの健康食で、これに飼っていたニワトリのタマゴも欠かさず、食事はバランスが取れていた。同島では高齢者は食べ物を「ヌチグス」というが、命の薬と言う意味である。
③ もう1つは水で、サンゴでできた島のカルシュウム、ミネラルをたくさん含んだ水を飲み続けていたことが、長寿となったとみる研究者が多い。サンゴを含んだ水にはガン、心臓病などの予防効果がある。そのせいか、徳之島は泉だけではなく全島民で、百歳人がたいへん多い日本でも有数の長寿島である。
④ 黒糖をよく食べる、黒糖酒もよく飲んでいたが、黒糖にはカルシュム、カリュウムガ多く虫歯になりにくい。
⑤ それに何といっても同島は気候が温暖で1年中、農作業ができること。百寿者でも最期まで体を動かしていた人が多い、島民の性質ものんびりしており、楽天的で陽気。何かあるとみんな集まり焼酎をのんでは踊りだす、そんなお年寄りの仲間が多いこと。
それに、泉は何にでも関心を示して生きる意欲が人一倍強かった。そうした精神力、気力に長年の重労働を基礎とした体力、それにサツマイモを主力とした粗食が三位一体となって世界一の長寿を生んだのではなかろうか。
寿命について泉は「お天道様と人間は、縄で結ばれている。その縄が切れた時が人間の死じゃ」と新聞のインタビューに答えている。1985年 6月、還暦を2回迎えたという「大還暦」(120歳)の盛大な祝賀パーティーが徳之島伊仙小学校の体育館で開催された。
この時の泉翁のインタビューが傑作。長寿の秘訣はと聞かれ、「酒と女かのぉ。(酒は) 黒糖ショウチューを薄めて飲むんじゃ」「(女性のタイプは)「やっぱり、年上の女かのぉ。」の答えには場内から大爆笑が起こった。それから半年後、120歳6ヶ月という大長寿で亡くなった。最後に、泉重千代翁・長寿十訓を紹介する。
百歳10ヵ条
1 万事、くよくよしないがいい。
2 腹八分めか、七分がいい。
3 酒は適量、ゆっくりと。
4 目がさめたとき、深呼吸。
5 やること決めて、規則正しく。
6 自分の足で、散歩に出よう。
7 自然が一番、さからわない。
8 誰とでも話す、笑いあう。
9 歳は忘れて、考えない。
10 健康は、お天とう様のおかげ。
(ご先祖さまに感謝)
<参考;泉順江『家族が明かす泉重千代長寿の秘訣』株式会社コア(昭和60年刊)、八木俊一『泉重千代物語』パンリサーチ(昭和60年刊)>
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