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日本リーダーパワー史 ⑨若き日の昭和天皇の海外旅行とホームステイ―体験は・・

   

日本リーダーパワー史 ⑨若き日の昭和天皇の海外旅行とホームステイ―体験は・・
                                    
                                                                                   前坂 俊之
                                        (静岡県立大学名誉教授)
 
若い者には旅をさせよ、バックパッカーこそ世界をしり、自己のコミュニケーション力を高める最善の方法なのよ。これは古今東西の鉄則じゃ。人間成長のための旅とホームステイこそ高校、大学時代には必ず経験させる、それによって日本人の異文化コミュニケーション能力を鍛える必要がある。
日本の最高のリーダーの1人だった原敬は反対の大合唱をおしきって20歳の若き昭和天皇を旅に出した。「次代の天皇として、国際的な視野と見識を身につける」ため前例のない外遊の旅に出す英断を下したのである。
 
 昭和天皇は皇太子時代の一九二一年(大正十)三月から、約半年間にわたってヨーロッパ旅行に旅立った。天皇・皇太子がヨーロッパを訪問したのはこのときが初めてである。
 お召艦「香取」に乗船した皇太子は横浜港を出航、まずイギリスに到着、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの計五カ国を訪問した。

ヨーロッパは第一次大戦による戦災の混乱からまだ立ち直っていなかったが、各国の王室や国民から温かい歓迎を受けた。それまで、まったく“カゴの鳥〃だった皇太子は、この外遊で広く世界への目を開き、立憲君主制の精神を身をもって経験した。

 この外遊を、強い反対を押し切って推進したのが、原敬首相であった。将来、天皇になる皇太子に対して「国際的な視野と見識を身につけてほしい」との期待からであった。原首相は出発前に自ら遺書〃をしたためる決意で見送った。

 皇太子一行はお召艦「香取」、供奉艦「鹿島」に分乗して、一九二一年三月三日に横浜港を出港、約二カ月余の航海を終え、五月九日英国ポーツマス港に着いた。英国皇太子プリンス・オブ・ウェールズが桟橋で待ち受けていた。お召列車に同乗した両皇太子は歓迎一色のロンドン・ヴィクトリア駅へ到着。ここには、わざわざ英国皇帝ジョージ五世が出迎えるという最大級の歓迎ぶりであった。

 同夜、バッキンガム宮殿で一二八人の王族・名士を招待した晩餐会が催され、東洋の〝日の出ずる国からのプリンス″を一目見ようと大勢が集まった。皇太子のスピーチは大音声で会場にギンギン響くほどであった。マイクなどない時代、「二〇歳やあれほどの声が出るとは、よほどすぐれた人物に違いない」と出席者は度肝を抜かれた、といわれる。

 英国訪問でいちばん印象深かったのは、アソール公爵の賓客となってスコットランドの広大な領地を訪れたこと。アソール公爵は英王室に匹敵するスコットランドの大貴族。皇太子は三日間静養し、フィッシング、ドライブ、ゴルフ、散歩などを楽しんだ。

公爵はスコットランド名物のスカート姿で出迎え、バグパイプなどを演奏して大歓迎した。最後の日、盛大な送別晩餐会が催されたが、ダンスがはじまると近所の農民たちが普段着のまま集まり、一〇〇人をこえる踊りの輪が広がり、そこは身分の分けへだてもなく公爵夫人も農夫とステップをかわした。

皇太子は、公爵の質素な生活ぶり、領民との平等で自由な人間関係に驚きと感銘を受けた。「アソール公爵のやり方をまねたら、日本でも過激思想などおこらないと思う」と新聞記者に語り、生涯得がたい経験となった。

 英国を後にした一行は、フランスを五月三十日に訪れ、七月七日まで滞在。途中、ベルギー、オランダを計十日間ほど訪問した。昭和天皇は戦後の会見で、「暮らしてみたいのはやっぱりパリだね」というほど、ここで自由な生活を楽しんだ。

 フランス訪問の目的は、エッフェル塔、カタツムリ料理、戦場見学の三つであった。皇太子の強い希望でカタツムリ料理を食べたが、有名料理店「エスカルゴ・ドール」に頼み込んで日本大使館まで出前してもらい、一つ一つ味わいながら五、や六個食べたところでストップがかかった。

「それ以上は毒になっては……」という周囲からの理由であった。

 皇太子がパリで一番気に入ったのは「それは地下鉄(メトロ)さ。ルーヴルから、エリゼまで乗った。実におもしろかった」。

 また、ペタン元帥の案内で第一次大戦の激戦地ヴエルダンの丘を視察した。数万人の戦死者の十字架が見わたす限り並んでおり、「戦争とはかくもむごいものか」とよみがえり戦争の悲惨さを深く胸に刻み込んだという。
 「香取」が横浜港に帰港したのは九月三日。心配のあまりめっきり白髪の増えた原首相は涙を流して喜んだ。その原首相が外遊に反対する右翼にそそのかされた少年によって東京駅で刺殺されたのは、この約二ヵ月後のことである。

 若き皇太子にとって、このヨーロッパ旅行、ホームステイはどんな意味をもったのだろうか。

この旅行は、昭和天皇の人格、思想形成の原点になるほど大きな影響を与えたことは間違いない。はじめて日本を出て、ヨーロッパに留学し、その文化に接し、ホームステイした大学生と全く同じである。異文化コミュニケーション、異文化認識の原点となったのである。

広く世界に向かって目を開き、西欧流の立憲君主制や王室のあり方を考えるきっかけとなった。その後の昭和天皇の世界認識に貴重な複眼的視点を養ったことは間違いない。

張作霖爆殺事件(一九二八年=昭和三)、二・二六事件(一九三六年)などで示した昭和天皇の見識や、一九四五年八月十五日の「聖断」も、もしこの訪欧体験がなければなかったかもしれない。

 
②「パリでの天皇行状記」
          
ところで、このパリでの天皇行状記について、パリに一番長くいた伴野文三郎が「花のパリの50年」の中で、ざっくばらんに書いている。
 
 第一次大戦後、ベルサイユ会議のあと、連合国の一員として四年四ヵ月をともにした日本のプリンス(現天皇)が英仏ベルギーの三国を訪問(英のみ公式訪問)されたことがある。
 
私に与えられた肩書が国際連盟陸軍代表部員で、きっそく陸軍代表の稲垣中将から「現フランスの経済事情報告書をできるだけ正確に調査のうえ作成してもらいたい」といわれた。

幸いその当時フランス新聞記者に多数の友人があったので、その最高級ルタンの経済部長に相談したら、期待以上の各書類を見せてくれたので大助かり、わずかの時日で大報告書を完了、皇太殿下に奉った。このパリ滞在中の殿下にはかずかずの珍談奇談があった。

 
第一に殿下までのラブレターが山のように舞い込んだ。下は小学生から40,50代ののうば桜までである。当時は雲上人であられたから、日本でこんなレターを出そうものなら一大事であった。また怖れ多くてバチが当るとだれもそんあ真似はしなかった。ところが舞台は世界の恋愛市場パリである。
 
しかもそのころ飛ぶ鳥も落す勢いの英国の皇室・エドワード7世も8世も、パリで流した浮名のかずかずは有名であったし、東欧ロシアの大公連もパリのド真中で大脱線を平然とやってのけた時代である。

ちょっと気の利いたパリ美人なら、異国の大人にラブレターを書くなど朝飯前のことであった。また当時の日本は東の君主国と云われ欧州各国から敬意を表さされていたから、そのプリンスとあって本気で惚れ美人も少なからいたことと思う。しかしこれらのラブレターの山は随行の忠臣によってすべて闇から闇へ葬られたのである。

つぎはオペラ見物である。例によって中入りの十分間を、日本皇太子にも楽屋へ御招待したところ、ニベもなく老臣からハネつけられたのである。私の友人ブロンドがオペラの重役をしていたので、彼から直接聞き得た話である。

外国の君子ならば、喜んで楽屋見物したであろうが、東洋の君主国は哲学が違うのだからしかたない、日本でいえば柳橋か赤坂に行幸なさるようなものだから「君子危ふきに近寄らず」というわけであろう。


昔から欧米では、踊子は二号の適任者と決っている。五六歳の幼少から毎日毎晩踊りづめで、腰の筋肉が非常に発達強化されているから通人はかく珍重するのである。現に皇太子が楽屋入りされておったら、その夜握手された踊り子中に各国の王侯や富豪の二号
が何人かはいったはずである。

 次は地下鉄試乗の珍談である。そのころ日本にはまだ地下鉄がない。ぜひ殿下に見せようと、随員中の竹下勇海軍大将が背広服を着せて普通のツーリストなみに試乗した。切符を買って殿下にお渡し申し、これを紛失すると乗車の権利を失うと注意した。切符というものを見たことがない、改札口で殿下は固く切符を握りしめ、改札係りはこれにハサミを入れるのにひと苦労したらしい、

「ハサミを入れるんだから切符をよこせ」というのを、殿下は奪われては一大事とばかり、容易に改ためさせない。業を煮やした改札係は「この変ツク奴」とか何とか云ったんだろう、あとでホームに入られた皇太子は、竹下大将に「生れてはじめてシカラレタ」とほほ笑まれたそうである。

 最後に、リ・ブランの夜会でのおはなし。パリで年に一度、目のとび出すような高い入場料を取って、収入全部を貧民に寄付する催しをするのがリ・リブランの夜会であるが、その夜はシャンゼリゼー脇の富豪ロスチャイルド邸の庭園で催された。色様ざまな余興が引続きあったが、その中に、多数の美人が一せいに裸の脚をピンピンはね上げる踊りがあった。

生れてはじめてみる半裸体の美人のこの踊りがただ珍らしく面白く、全プログラムが終了する夜の二時過ぎまで、随員が何と云ってもお立上りにならなかった。日本へ帰ったらまた雲の上に乗せられて、こんな絶景には二度と接することができぬことをよく御承知の殿下が、トコトンまで頑強に粘られたことは想像に難くない。

大平洋戦争開戦前に、陸軍が何といっても戦争してはならぬと、パリ夜会の頑強さでお粘りになっておったら、幣原、石井らの重臣外交官も大いに力をえて、反対は通ったかも知れない。
 

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