日本リーダーパワー史(736) 明治維新150年『明治極秘史』②『日露戦争の勝因は!―空前絶後の名将・川上操六参謀総長 のインテリェンスー田中義一(後の首相)をロシアに 派遣,徹底調査を命じ、田中は名前を変えてダンスを習い、隊付となって上流貴族と親友となって秘密情報を入手、ロシア革命のレーニンにも接触した。②
日本リーダーパワー史(736)
明治維新から150年、『明治極秘史』⓶
―日露戦争の勝因は!―空前絶後の名将・川上操六参謀総長
のインテリェンスー田中義一(後の首相)をロシアに
派遣,徹底調査を命じた、田中は名前を変えて
ダンスを習い、隊付となって上流貴族と
親友となって秘密情報を入手して
ロシア革命の主人公・レーニンにも接触⓶
名門『露都駐屯ノヴォチェルカッスク・アレキサンダー三世歩兵第四十五聯隊』の隊附となる。
語学に習熟してからは、田中義一大尉は特定の仕事がないので大小の旅行を何度となくある時は語学教師を伴い、ある時は単独で飛び回った。女教師について発音を習い、南ロシア生れの男性を教師とし、最後にはペテルブルグ大学在学中の椎名を教師としてではなく語学の相手とし翻訳の相談に殆んど毎日のように呼んで帰朝の日まで続けた。
このため、ロシア語は相当な域に達していたから、後ちに外務大臣在任中にソビエト大使と会談する時のみは通訳を用いなかったほどだ。
さてロシア語の自信を得たので明治33年、ロシア陸軍省に対し隊付勤務の許可を申請した。ところが日本将校の、つまり黄色人種の隊付は前例がないという理由でなかなか許可にならず、この間公使館附武官村田大佐が正式に、つてを求めて内面からいろいろと陳情したが鉄のカーテンはなかなか外れなかった。
明治三十三年五月末(1900年)閑院宮載仁親王殿下がたまたま来遊になった。
そこで田中大尉は村田武官と相談の上、1日御旅館に伺候して隊附希望の苦衷を申上げたところ、案ずるより産むは易く殿下が某皇族に依頼された結果、六月二十七日、正式に許可された。
入隊を許されたのは露都駐屯ノヴォチェルカッスク・アレキサンダー三世歩兵第四十五聯隊であった。この長い名称の聯隊は準近衛連隊と云われプレオブラジエンスコエ連隊隊及びセミーノフスコ連隊とならび称されたいわば連隊としては名門であり、従って将校には多数の貴族がいたのである。
田中少佐は(比の年十月少佐に昇任した)当初露国陸軍少尉の職務から、次で中隊長・最後に大隊長の職務を執って露軍練成の過程を短期間に身につけたのである。隊付になって両三日後、野営地における練兵演習が開始されたのでこれに参加することが出来た。当時露軍の戦列聯隊は六七月頃から九月にかけて約100日を野営地で練兵する。
この野営地は聯隊から相当の距離で、聯隊長以下全員が天幕(テント)生活をするのである。但し将校は附近の村落に家族を呼び寄せて日曜日に帰宅するという風習であった。
この野営地に於ける猛訓練で兵を練成し、その後の九カ月は殆んど営舎に於ける射撃演習であった。従って将校も殆んど用務とてなく、聯隊長は此の長い期間殆んど経理事務に没頭するという状態であった。する実兵を離れた参謀官は机上の理論と兵棋のみで、戦列聯隊とはわずかかの結びもなく、聯隊長以上の団体長も、百日の野営地を除けば検査のための経理事務に没頭するのみであった。
このようなロシア陸軍の在り方であるから、勢い会飲会食が盛んになるのも当然である。酒を除いてロシア人との交際も杜交もあり得ない、今も昔も変りはなく彼等は彼女等は実に良く飲む。
田中少佐も好きな方であるから、大いに飲んで国境を越えた胸に垣根のない間柄となるのに、どれほどの日数もかからなかったであろう。酒を愛し人には愛される天性は、たちまち聯隊の人気役者となって、将校クラブでも給仕がすぐにギイチ・ノブスケウィッチを古馴染のような上客として扱った。その日課は朝食を下宿で済まし、昼は聯隊内の食堂か、或は将校クラブで、夜は将校クラブかレストランで飲み且つ踊り、又ある時には縄ノレン式の労働者向きのバーでウオツカをあおるのであった。
時には聯隊の将校-約五、六十名をその夫人と共に招待して兵隊のブラスバンドを呼んで盛んなパーティーを開いたことも1度や二度ではなかった。バンドが居眠りし始めると、ウオツカを飲ませては勢いを附けて演奏を続けさせ、夜が明けて小鳥が嘲り出すとカーテンを下ろさせて更に踊り抜く、疲労を知らぬ、酔を知らぬ彼氏、彼女等に伍して、少佐の酒量も大いに上った。
後年の述懐に「従卒が俺の身体を心配して・少し酒を控え目にされるが良いと、涙を流しながら諌めて呉れたこともあるが、体力酒力の強い若い将校相手だったから随分と無茶をしたもので-大隊長と飲み比べをやって丸二日起きられんこともあった」というから、酒に明け酒に暮れたアレキサンダー三世聯隊附時代は城府を設けぬ露国将校達がやがて戦争する国の将校という意識も持たずにギイチ・ノブスケウィッチ少佐として親交したのもあえて不思議ではなかろう。
陸相クロバトキン夫妻から可愛がられる
その上に親王殿下から親王殿下に口添えして貰ったという事実が、霹国陸軍首脳部の注目するところともなって、陸相クロバトキン夫妻から特別に目をかけてもらい、その家庭にも招かれる様になった。上級将校が多くは貴族出身であるという関係で従来も隊附将校の紹介で貴族杜会にも出入し、あらゆるパーティーにも出席していたのが!」のクロバトキンに知られるようになってから1段と精彩を添え、一流の名士と伍して飲む機会も自然に増えたのである。
この酒の間に聯隊の貴族出身の同僚某と懇意になり、その妹と深い交誼を結んで、前述藤室少将の談にある露軍の重要なる書類を入手したのであった。これは後のことであるが大正三年田中少将は欧州を巡遊し、ウイーンで案内役の西尾寿造大尉(後の陸軍大将)に慰労の夕食を供した時に、在ロシア時代の話を語り、非常な好意を寄せた同僚某の妹の
思い出を語り、その書類はロシア軍の戦時輸送計画書であったと、述懐したと、西尾大将は語っている。
田中少佐の謀略活動ー革命家を訪問、ロシアの社会運動を調査、レーニンにも接触する
嘗て田中大将は、露都で軍人を辞めようとした経緯を語った時に「労働者になって革命運動をやっても良いと息ったのは、その運動をやっちょる奴と随分と懇意にして居ったから、相当な事が出来る自信があったからじゃ。隊附きになる迄は決まった仕事がなかったので、手当り放題に気の向く所へ、何処でも旅行した。特に一年程たって言葉が上手になってからは、方々へ出掛けた。もちろん、軍隊の駐屯地がおもだったが、ストライキのあった土地もぐるぐる廻った。運動の親分格のような男にも何人かあったし、一緒にめしも食ったが、みんな今はエラクなっているのでのう。どうもこんな話はあんまり人にしゃべれんでのう」と述べたことがあるが、日露戦争前後のロシアの杜会運動を瞥見すると、戦役と田中少佐の活動との関係が大概が推察される。
一八九八年(明治三十一年、田中少佐が露都着任の年)ペテルプルグ、モスコ、キエフ等の社会主義団体の代表者達がポーランドのユダヤ人労働者同盟と握手して、露西亜社会民主党を結成したのが、霹国に於ける社会連動が統一された
始めである。その中心人物はプレハーノフ、レーニン、ストロウエフ等であった。一方社会革命主義者はエス・エル党を組織して居ったので、田中少佐がペテルプルグを中心にして交遊したのは、自然この二派の幹部級であったと想像
されるのである。その頃までの社会運動は何等統一もなく、ポーランド・フィソランド・ウクライナ等の独立運動も
一緒くたになり、政府やロマノフ朝に対する不平党等も交雑していたのが、田中少佐の露都入りの頃から社会主義化して、その運動もストライキも政治的な色彩を強くし、又統一された関係からストライキの頻度も急激に増加した。
これに対し富国当局は、スワトフの献策を入れ御用組合を組織して、示威連動とストライキとに対抗したスワトフの労組は政府の保護を受けて勢力を急増したが、勢力の拡大するにつれて政治的要求をするような趨勢となり、スワトアの手で作られた組合が、スワトフを打倒する社会主義的なものに変化したのも勢いの赴くところ止むを得なかった。
レーニンが刑期を満了してシベリアの流刑地からペテルブルクに帰ったのが一1900年2月で、ペテルプルグから500キロのブスコフに住み『火花(イスクラ)』と称する新聞発行の準備をし、同年七月亡命の旅に上るのであるが、田中少佐が頻りに旅行した年、革命運動の親分に会ったという年が即ちこの一九〇〇年であるから、或はブスコフに落ち着いたレーエンを同志の紹介で訪ねたのではないかと推測される次第である。
克明にストライキやデモのあった土地を訪ねて社会の割れ目を究めた少佐が、所在の運動の幹部に会ったことも自壊の如くであるが幕末に生れ育って、維新志士の言動そのものを教育の過程とした少佐が、初心の貫徹のため身を以て大ロシア帝国の崩壊を志し、そのためにも革命運動をやってやれ、と決意したと推断しても不当ではなかろう。
レーニンは前述の『火花(イスクラ)』発行の準備とその協力とを要請するた聖ブスコフを根拠として全露到る処を遊説し、又書簡を以て各地の同志に呼びかけ、そのためポルシェビイキ活動はこの『イスクラ』に集約され、各地に『イ
スクラ』に共鳴協力する地区委員会が活発に動き初めた。コーカサス地方において、スターリソが鋒経を現わし初めたのも実にこの頃である。
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