クイズ「坂の上の雲」ーー極秘「明石工作」は日露戦争約1年後に暴露されていた(2)
クイズ「坂の上の雲」
極秘「明石工作」は日露戦争約1年後に暴露されていた(2)
明石元二郎が欧州を股にかけ革命援助に活躍ー『ロシヤ・叛徒(革命家)と日本資金(下)』
前坂俊之(ジャーナリスト)
(明治39年8月23日付『大阪毎日新聞』)
サンクトペテルブルク通信(7月十九日、特設通信員フランシス・マックラフ)
シリアクスはロンドンよりデカノゼに書翰を送りて、事は良好に進行しっつありと報ぜり。当時、明石大佐はジョージと変名して、ベルリン、パリ、ストックホルム間を股に掛けて横行しつつありしが、大佐は27日、ドイツ・ハンブルグにおいてシリアクスと会合せり。この会合の後、シリアクスは港内の汽船カリクスト・ガルシア号を視察するため出掛けたり。
六月三日、明石大佐はロンドン・クレーヴン・セント・チャーリンダ,クロスよりA,Kなる首文字の匿名にてチルリアクスに書翰を送り、奮然努力せよ。事は制限の期間内に遂行するの必要あり、といえり。
六月十九日、明石大佐はジョージ・マルテンと化けて、ロンドン・カムデン・スケーヤ・クリステン・ヴィラス二十番地に平然として住居し、その間シリアクスもまた単にヘンリーと変名して、同じくロンドンに住居したり。
しかして両人は共に、あるフランス新聞のサンペテロブルグ通信員にして、よほど用心深き性のユーゼン・ビューなる男より援助を受けたり。この男の書翰によりで見れば、彼は最も有力の共謀者らしく、また用心深きだけあり,小銃をも小銃とはいわず、これに見本との暗号を付して、他の商売上の用語と混用したり。
故に一見したる所にては、彼の書翰は普通の商売上の書翰たるに止まり、誠に無味淡泊のものなりしも、サスガ鋭敏にしてその道に熟練したロシア密偵は、早ぐもビューの書鞄に目をつけ始めて、殊にビユーが存外少量の「地図」のため1500の箱入用なりと書き送りたる書翰は、深くも彼等に疑惑を懐かしめ、またこの時にもつじつまの合わざること発見せられへ結局左の事実の暴露するに至れり。小冊子の編纂者の記す所に曰く。
日本はデカノゼとシリアクス、の手を通じ連動し、この両名は更にビューをスイスの代理者に任命して、ロシヤ革命党のために小銃三万五千挺、弾薬三百五十万発を購入したり。、
ロシヤ革命党以下云々の文字には、イタリックの活字を使用したり。
6月下旬、明石大佐は再びロンドンに在りたり。
この時も名もジョージ・マルテンにして、その寓居はグ.ロナーナ―・セント・ベドフォード・マンションス三十番地なり。
七月十六日、シリアクスがハンブルグにおいて検査したるカリクスト・ガルシア号は、港務部にすらいずこに出航すとの報知をも与えずして、或る日漂然その影を暗ましたり。
しかるに八月二十五日、突然フィンランドの一港オーレオポルグの付近に一隻の怪しむべき快走艇現われ、艇内には小銃六百五十九挺、銃剣六百五十八本、弾薬十二万発入りの箱九十三個を搭載すること発見せられたり。
8月26日、ヤコブシュタットの北方近き所において、別段怪しとも思われざ灯し一船ジョン・クラフトン号に爆発事件起り、これがため同船に多量の短銃、小銃及び弾薬を積載すること発覚せり。
また八月二十八日、コルマー島においても、偶然の出来事よりして小銃七百挺と破裂弾と他に短銃、弾薬、および露語にて認めたる革命げき文をいっぱいつめ込みたる若干の箱発見せられたり。これらの小銃はおおむねジュネーブの製造に係るむのたり。
ここに至り編纂者は昨年十二月(すなわち一昨年)コーカサス反乱の際。叛徒の使用したる小銃は、全部スエーデンの製通に係るもの重りと特書せり。かくて明石大佐とその朋友等は、アムステルダムにおいて、更に他の船舶リリウス号を準備し、これに小銃、弾薬を満載し、コーカサスへ向け発送したるもののごとし。
一見したる所平和の上商船のごとく見ゆるりリウス号が、海波静穏の地中海をし走したるは、その実ハ・当時、極東にて封鎖を突破したる商船の冒険に比して、はるかに大危険を冒したるものなり。
果然ロシアの密偵は、地中海由一港においてリリウス号の秘密を発見したり。,しかれどもリリウス号は、向かい側のアフリカ沿岸に疾走して行方を暗まし、ついに拿捕を免れたり。
それより十一月に至り、同船はギリシヤの多島海に入りしに、同二十日を以って船長は朋友より、小アジア沿岸はロシヤ艦隊の警戒厳重なれば、黒海に突入を試みるは暫らく待つべしとの電報に接せり。
よって船長はギリシャの一島ツエオにおいて、暫らく時機の来たるを窺いつつ、ついに首尾よく黒海に入り込みて、数千挺の小銃と数十万発の弾薬を、コーカサス叛徒(革命家)に供給し得たるものなりと。
以上のロシヤ半官報的記事は、いかにも小説的に、いかにもよく按排せられ、ほとんど一点の疑いを挿むの余地なきまで、好妙に棲述せら当るものにあらずや。
関連記事
-
-
オンライン講座/天才老人になる方法』★『長寿力こそ創造力、創造力こそ長寿力」★「70歳からの出発も遅くはない、あと30年健康で生き1日1生、1日1作(創造)と積み重ねていけばはるか千里の道をいくことができる。巨大な作品もつくることができる」
「70歳」の検索結果 142 件 http://www.maesa …
-
-
日本リーダーパワー史(222)<明治の新聞報道から見た大久保利通 ② >『明治政府の基礎を作った男』
日本リーダーパワー史(222) <明治の新聞報道から見 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(132)/記事再録★『昭和天皇による「敗戦の原因分析」①★『敗戦の結果とはいえ、わが憲法改正もできた今日において考え て見れば、国民にとって勝利の結果、極端なる軍国主義 となるよりもかえって幸福ではないだろうか。』
2015/07/01   …
-
-
『Z世代への遺言講座』★『79年目の終戦日に当たって鈴木大拙師の一喝!』★「1945年8月15日『日本敗戦』の混乱をみて <言葉を言い換えて事実の本質を忘れて、無責任となる感情的な行動(センチメンタリズム)を脱せよ。感傷的でなく、合理的、論理的に考えよ」
2018/12/15日本リーダーパワー史( …
-
-
「パリ・ぶらぶら散歩/ピカソ美術館編』①」(5/3日)周辺の光景 ー開館前から行列ができ、終日長蛇の列、20世紀最大の画家・ピカソの圧倒的な人気がしのばれる。
2015/06/01 記事再録 『F国際ビジネスマンのワ …
-
-
『Z世代のための日本スリランカ友好史』★『 日本独立のサンフランシスコ講和条約(1951年)で日本を支持したジャヤワルデネ・スリランカ大統領』★『同大統領ー感謝の記念碑は鎌倉大仏の境内にある(動画)』
2014/11/30 記事再編集 瀬島龍三が語る『日本の功績を主張したセイロンの …
-
-
『オンライン鈴木大拙講話』★「東西思想の「架け橋」となった鈴木大拙(95歳)―『『長寿の口癖は「わしは死神と競走で仕事をする」★『死を恐れるのは仕事を持たないからだ。ライフワークに没頭し続ければ死など考えるヒマがない。死が追ってくるより先へ先へと仕事を続ければよいのじゃ』』★『禅は「不立文字」(文字では伝えることができない)心的現象』★『「切腹、自刃、自殺、特攻精神は、単なる感傷性の行動に過ぎない。もつと合理的に物事を考へなければならぬ」
前坂俊之×「鈴木大拙」の検索結果 28 件 http://www. …
-
-
<まとめ>白洲次郎についてー『従順ならざる日本人・白洲次郎―新憲法・戦後民主主義の基礎を作った男」
<まとめ>白洲次郎について ☆日本占領下でマッカーサーと戦った唯一 …
-
-
日本リーダーパワー史(267)名将・川上操六伝(39)野田首相は伊藤博文首相、川上参謀総長の統帥に学べ②山県有朋を一喝
日本リーダーパワー史(267)名将・川上操六伝(39) <野田首相は明治のトップ …