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片野勧の衝撃レポート(51)太平洋戦争とフクシマ(26)『なぜ悲劇は繰り返されるのかー東京大空襲と原発(下)

      2015/03/18

 

片野勧の衝撃レポート(51)

   太平洋戦争とフクシマ(26)

 『なぜ悲劇は繰り返されるのかー東京大空襲と原発(上)

                    片野勧(ジャーナリスト)

福島第1原発から約1.5キロ

午前9時。ホテルのすぐ後ろにあるマンションで、その人は待っていた。吉田信雄さん(78)と、その妻・恵(え)久子(くこ)さん(72)。
――3・11。その時、どこにおられましたか。信雄さんは答えた。
「自宅にいました。女房と父母の4人。それに孫が3人の7人でした。本棚が倒れて、父は本の中に埋もれていました。壁も落ちました」
吉田さんの家は福島第1原発から約1.5キロ。避難はどうされたんですか。
「避難せよ、と町では呼びかけていたようですが、我が家は道路からちょっと奥へ入った、こんもりしたところにあったものですから、聞こえませんでした」
――原発事故については?
「地震の時、揺れが激しくて原発のことは全然、頭にありませんでした。ましてや、メルトダウンを起こすなんて、想像もしていませんでした。家には1晩いましたが、隣近所は誰もいない。町のスポーツセンターへ行きましたら、人がいなくて、車がいっぱい。みんな避難したあとだったのです。そこで初めて原発がおかしいということを知りました」
信雄さんは父と孫3人を大熊町の車に、また恵久子さんはおばあちゃんを自衛隊のトラックに乗せてもらって田村市へ向かう。恵久子さんは言う。
「途中、おばあちゃんは気分が悪くなって、降ろしてくれと。もう死んでもいいと言い始めました」
そこへ大熊町の人がきて、車を乗り換えて今度は三春町の体育館へ。一方、信雄さんらは田村市の総合体育館へ。信雄さんと恵久子さんの行き先が別々になった。携帯がつながらず、一時、連絡が途絶えたが、13日、三春町の体育館で出会った。
ここで3日間いて、その後、体育館の生活がきびしいので高齢の両親だけ千葉にいる弟のところに約2週間、滞在させた。その間、孫たちはお母さんと一緒に郡山へ。その後、信雄さんらは4月3日から約3カ月間、会津大江戸温泉に避難。吉田さん一家は各地を転々として、ようやく7月1日に現在のマンションに落ち着いたという。

歌集『故郷喪失』で原発を詠う


 東日本大震災の直後には、たくさんの短歌が作られた。しかし、時間が経つにつれ、次第に歌の数は減っていく。そんな中、信雄さんは継続して震災を詠み続けている。信雄さんは高校の英語教諭を退職後、「青白き光」で知られる故・佐藤祐禎さんの勧めで短歌を始め、佐藤さんの指導を受けながら、15年余にわたって創作に取り組んできた。
信雄さんは東日本大震災と福島第1原発事故で避難を余儀なくされた中で、被災当時の衝撃、厳しい避難暮らし、故郷や家族への思いを詠い、歌集『故郷喪失』(現代短歌社)を出版した。たとえば、次の一首。

「ふるさとを追はれしわれら何処にか住処見つけむ先行き見えず」

「どんな時に詠ったかと聞かれても困るのですが、私は、ここ10年、大学ノートに日記をつけて、最後に必ず短歌を1つ、残す習慣にしています。そういう時につくった歌です」
こう言いながら、家を買いたいけれども、東電の賠償問題も、またふるさとへいつ戻れるかも分からない先行き不透明な心境をありのままに詠ったのだという。
会津地方の郷土玩具「赤べこ」。「べこ」は東北地方の方言で「牛」という意。この赤べこをベースにデザインされた会津のマスコット「あかべぇ」をバックに記念撮影したうたもある。
原発詠というと大上段で構えた視点で原発問題を糾弾するように詠った作品を多く目にするが、信雄さんの作品は違う。父や母、妻といった身近な家族を見つめ、日常を詠っているのだ。私には、この作品から早くふるさとへ帰りたいという思いが伝わってくる。

「大きなる赤べこを背に妻を撮る会津にゐたる証にせむと」

今も約15万人が避難

福島県では今も約15万人が避難を続けている。ふるさとを追われ、途方に暮れている中、一時帰宅した時の次の原子力詠のうた。

「原発の地に命あり竹ふたつ物置の屋根を突き抜けて伸ぶ」
「孟宗竹は物置突き抜け伸びゐたり線量高き無人のわが家に」

3カ月に1回は大熊町に一時帰宅しているという信雄さんと恵久子さん。その時、詠んだうた。「竹の生命力って、すごいなあ、と感じました。家の周りは竹やぶだったのですが、それが瓦屋根を突き抜けて空に向かって伸びているのです」。それは人間が生み出した放射性物質に逆らうかのように生き続けているのかもしれない。それを鋭い比喩で原発の横暴を暴き出している。

「若き日に教へし子らも六十五けふ同期会風格のあり」

このうたは信雄さんが会津若松に避難していることを知った、かつての教え子たちが信雄さんをねぎらって、東山温泉で同期会を開いた時のうた。その教え子の1人の、ある建築士が信雄さんを心配して言った。「先生、新しく家を建ててください。私がお手伝いしますから……」と。
しかし、会津は良いところも多く、人情も厚く、歴史も深い。そんなことから、なかなか決断できない。しかし、父を思い、父が入院しているいわき市の病院に近いところに土地を探し、今、建築中だという。

国民学校2年の時、大熊町に疎開


 ――ところで、戦争体験は?
「昭和19年の3月ごろ、初めて米軍機が機銃掃射しながら家の上を飛んでいきました。ガラス窓はがたがたと揺れたのを覚えています。そのころから頻繁に防空演習が行われるようになりました」
この時、信雄さんは東京の滝野川国民学校2年生。ある日の授業中、教室のドアが開いた。大熊町の叔母さんが教室に入ってきて、先生に耳打ちした。先生は信雄さんを教壇に呼び寄せ、こう言った。
「今度、吉田君は田舎に疎開することになりました」
信雄さんはあっけにとられたが、長男くらいは早く疎開させたかったのだろう。昭和19年(1944)4月に疎開。続いて昭和20年(1945)2月9日、母と弟妹が大熊町に引っ越した。3・10東京大空襲のちょうど1カ月前だった。信雄さんは大熊町国民学校2年に編入した。しかし、学校に行ってびっくり。洋服を着ている子がいなく、皆、膝までの長さくらいの和服。東京では粗末な生地ながら洋服、半ズボン、長い靴下、革靴というのが通学の服装だった。
「私は洋服で登校して行ったものですから、彼らにとっては異星人のように見えたのかもしれません。私は格好のいじめの対象になりました」(「九条はらまち」No156―「私の戦争体験」)

長者ヶ原陸軍飛行場も空爆された

ところが、昭和20年8月9日、10日。大熊町の自分の家の北側の高台にある長者ヶ原陸軍飛行場が攻撃された。グラマン戦闘機が編隊を組んで縦横無尽に攻撃を繰り返し、2日間で兵舎も格納庫も全滅した。
8・15終戦。「この日は母親とスコップを持って防空壕の穴を掘っていました。そのうち、玉音放送があるというので、家へ帰って聞きました。戦争は終わったことを知りました」。
毎年、8月になると、短歌の雑誌に戦争にかかわる歌が多くなる。戦後70年経ても、戦争を引きずって生きている人が多いからだろう。信雄さんも一首、詠んだ。

「八月のまた巡り来てグラマンの黒き機影の眼(まな)裏(うら)にたつ」

――最後に戦前の太平洋戦争と今回の東日本大震災について思うことは?

「最近、マスコミもそうですが、政治もきな臭い方向に向かっているのではないですか。歴史を顧みれば、戦前も戦後も国は国民を守らなかった。うちの父親だって満州にいた時、満州に移住した人たちを置いて、一番先に逃げたのは関東軍ですよ。また会津の人は戊辰戦争でたくさんの人が死んだけれども、殿様は明治26年まで生きましたよ。為政者は自分が一番、大切で国民なんか、どうでもいいのじゃないかと」

戊辰戦争と原発

さらに、腕を組みながら、信雄さんは会津藩を中心に展開された戊辰戦争と原発について語った。戊辰戦争は新政府を樹立した薩摩・長州藩連合が幕府勢力を一掃するために仕掛けた戦争で、薩長連合の勝利で終わった。

ところが、会津藩は江戸幕府を守るために最後まで戦ったのに、江戸の将軍は自己保身を第1に考え、さっさと遁走。会津藩の人間を守ってくれなかった。このことに対して、福島の人たちはやりきれない思いと信雄さんは言う。

その後も江戸は名前を東京と変え、繁栄を享受したが、会津は旧幕府側ということで冷遇された。東京を愚直に支えたのに、それがひっくり返ると一転して非難される。この構造は幕末も今も全く変わっていないのだ。

福島第1・第2原発は戊辰戦争の中心藩=会津藩の近くにある。戊辰戦争で賊軍となった会津藩・東北は明治政府から差別的な待遇を受けてきた。「白河以北一山百文」――明治政府は東北地方をこう表現した。

東北地方は戦前、凶作で娘は売られ、若者は次々に軍隊にとられて多くが戦死した。戦後も集団就職によって人材を都会に奪われ、農村は疲弊し過疎化した。そこへ電源交付金付きで原発がやってきた。信雄さんの証言。

「個人的な感傷かも知れませんが、私には戊辰戦争と原発立地は深くつながっているように思えるのです。それは原発をめぐる構造的差別があったからです」

明治以降、原子力開発は中央集権的な国家主義と深く結びついていることを考えると、原発という国策との決別は簡単ではない。この差別的構造を変えない限り、また同じ悲劇を繰り返すだろう。

ドラマ『どっこい生きたふたりの100年』

私は信雄さん、恵久子さんご夫妻に話を聞き終わって、DVDをみせてもらった。NHKが2014年3月に放映したドラマ『信さん101歳 ツルさん103歳~どっこい生きたふたりの100年~』。
関東大震災、太平洋戦争、シベリア抑留、そして原発事故……。私は学校の授業で習うような体験を経て、100年間、生き抜いてこられた信雄さんの父母である信(まこと)さん(102)、ツルさん(104)夫妻の映像を見て魅了された。
大熊に生まれた信さんは小学生の時、家族と大熊町から上京。現在の東京都北区で関東大震災(1923年)を経験した。激しい揺れに立っていられなかった。「高台から見ると、あちこちから煙が上がり、それがどんどん広がっていくんです。怖かったですね」と信さんは振り返る。
信さんは旧制中学から高等商業学校に進み、教員免許を取得し、英語教師になった。昭和10年(1935)、ツルさんと結婚。信さん24歳、ツルさん25歳の時だった。そして2男1女に恵まれた。
ところが、昭和16年(1941)、29歳の時、召集令状。関東軍の特殊部隊に配属され、満州(現中国東北部)のソ連国境近くで戦うことになった。一方、ツルさんも東京で空襲に遭い、子どもたちを連れて、先に述べたように昭和20年(1945)2月9日、故郷の大熊町へ帰った。映像で語るツルさんの証言。
「焼夷弾が落とされると、娘は怖いよう、田舎へ帰ろうよ、と言って泣くんです」
それで帰ることを決心したという。

極寒の地での過酷な労働――シベリア抑留

8月には広島、長崎に原子爆弾が投下され、日本は降伏。8・15終戦。その時、34歳の信さんは満州奉天にいたが、さらに苦難の道が待っていた。それはシベリア抑留。昭和20年11月8日。信さんを乗せた列車はカザフスタンにある炭鉱の町、カラガンダへ。信さんたち日本人兵士は約2000人が毎日、零下40度の極寒の地で過酷な労働を強いられた。
復員できたのは1948年9月。その時、36歳。福島県内の中学校で英語教師として勤務した。
「日本は戦争に負けても必ず、立ち上がるという信念がありました」
信さんの言うように、日本経済は昭和20年代後半から急速に成長した。人々の暮らしも良くなった。そして昭和42年(1967)、55歳の時、原子力発電所の建設が始まった。出力40万キロワットの福島第1原発。昭和45年(1970)10月の完成を目指した。信さんの証言。
「この地域は冬になると、仕事がなくなる。皆、出稼ぎに行った。それが原発できたら状況がすっかり変わっちゃってね。収入は今までの倍以上も入った。皆、金持ちになった。道路はよくなるし、公共施設はできるし、何もかもいいことづくめでした」

出口の見えない閉そく感


 一時の現金収入・雇用と引き換えに進められた原子力産業。繁栄に向けて走り続けた果てにたどり着いた出口の見えない閉そく感――。信さんの表情から悔しさがにじむ。
信さんは教師を辞めた後、長男の信雄さん夫妻や孫、ひ孫と大熊町で4世帯9人の静かな余生を送っていた。ところが、3・11東日本大震災が起きた。津波は自宅の数百メートル先で止まったが、原発事故で避難を余儀なくされた。避難指示区域に指定され、会津若松のマンションに避難した。
「おめでとう」――昨年(2014)1月2日はツルさんの103回目の誕生日だった。離れ離れになっていた9人家族が震災後、初めて集まった。ひ孫の真美ちゃん(12)がツルさんにインタビュー。
「おばあちゃん、103歳の誕生日、おめでとう」(真美ちゃん)
「ハイ、ありがとう」(ツルさん)
「今、どんな気持ちですか」(真美ちゃん)
「気持ちいい(ハハハ……)」
ツルさんは鶴が飛ぶように両手をパタパタさせた。

「私は希望を捨てません」

しかし、この日、いつもはツルさんの前に座っている信さんの姿がない。年末にインフルエンザにかかり、1週間入院。熱は下がったものの、体力が落ち、歩くことができなくなった。
「でも、もう大丈夫。何があっても私は希望を捨てませんから。また元気になって帰ってくるからね」
すると、ツルさんは、「帰ってこなかったら、困るわよ。いなくなれば、ケンカもできないし、寂しくなるから」と笑う。
希望を捨てない――。信さんは今、いわき市の老人ホームに入り、元気を取り戻そうとリハビリに励んでいるという。
関東大震災と過酷な戦争体験、そして今回の東日本大震災、原発事故――。幾つもの時代、幾つもの困難を乗り越えてきた信さんとツルさんの歩んだ人生を長男の信雄さんは詠う。

「戦禍経て原発禍にもたくましきともに百歳越えたる父母は」
 (かたの・すすむ)

 - 現代史研究

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