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高杉晋吾レポート⑪「脱原発」「脱ダム」時代の官僚像ーー元、淀川水系流域委員長 宮本博司氏へのインタビュー(上)

   

高杉晋吾レポート⑪
 
ダム推進バリバリの元国交省エリート、宮本博司がダム反対に変ったのは?
「脱原発」「脱ダム」時代の官僚像
元、淀川水系流域委員長 宮本博司氏インタビュー(上)
 
  高杉晋吾(フリージャナリスト)
 
なぜ、東日本大震災による大津波や原発災害の段階で、元国交省のダム担当のバリバリのエリート官僚がダム反対の立場を表明していることを皆さんに報告するのか?
それは、今回の大津波が現代社会に警告したものは、巨大人工構築物で地球の活動に対抗しようという国の公共事業、治水政策の思想が完全に破たんしたことである。
宮本氏が国交省のダム開発の中心に居ながら、いくつかの経緯を淀川水系流域委員会を立ち上げ、大戸川ダム中止、槇尾川ダム中止などダム反対を積極的に推進するのはなぜかを考えることは東日本大震災が日本国家の治水政策の破たんを全国民の前に明らかにしたことと重なり合う問題なのである。
 
ダム、湾口防波堤、原発等巨大システムが、今回、巨大な地球活動によって木端微塵に打ち砕かれ、東北を中心にした人びとに果てしない苦しみと悲しみを齎している。その根源に、国、政界、官界、財界の巨大構築物による治水政策の全面破綻がある。その国の治水政策の中心にいた宮本さんの一切の飾りのない証言を聞けば、今回の災害の根源が国、財界、政界による政策災害であるということが明らかになるのだ。
 
高杉、
宮本さんの高水論争批判に敬意を持っています。またこの間、私の高水論争批判のメイルに対して極めてストレートに全面賛意を表されたことに正直言ってびっくりいたしました。
川辺川ダム計画ストップ、荒瀬ダム撤去の偉業を成し遂げた熊本、球磨川周辺の方々は八ッ場ダム反対運動のリーダーによる高水論争に対して批判をしています。多くの方々が八ッ場ダム裁判のリーダーの誤りに気がついていません。その点、宮本さんは一点の疑念もなく私の見解に賛意を評されたので却ってびっくりしています。
そういう見解になられた経緯を知りたいと思います。
 
何の志もなくエリートコース時代、公務員試験合格
宮本さんはどこで生まれられたのですか?
宮本、
 1952年、京都の此処(下京区西木屋町、高瀬川の河畔)ですわ、建物は大分変わっていますが、敷地自体は此処です。
高杉
それで学校はどこだったんですか?
宮本,
京都大学で1978年に大学院を卒業して公務員試験を受けて建設省に入ったということです。
高杉
建設省に入ったということは何か志があったということですか?
宮本
いやあ、動機は全くないですね。
高杉
いやあ!あっはっは、動機は全くない!私は何かお考えがあって建設省に入られたと思っていましたが.
宮本
何か重い動機などは全くない。もともと家は此処で酒樽屋をやっていましてね。だから樽徳という屋号なんです。私は長男ですし,本来なら店を継ぐはずですが、親父は、まあ本人が建設省に入ったのならそれで良いやろうと。それで当時国家公務員試験を受けて偶々受かった。そんならとりあえず行こうか、というようなもんなんです。高邁な精神があって建設省に入ったなんてもんじゃない。
高杉
あの頃は大学闘争があって大騒ぎになった。
宮本
あの直後です。私らの前の年までが大学闘争でストだとかあって、私の年から正常化されたんです。
高杉
大学闘争などの影響は受けなかったですか?
宮本
全く受けなかった。良い加減な人間ですから、その時その時の気分で何も考えずに生きてきたし、建設省に入ってからも川にこだわりがあるとか、なんかこうすべきだというようなこだわりはまるでなかったんです。そういうこだわりを持つとそれに囚われてしまいますので、私みたいに何の思いもなくて流されて生きている人間にとってはいろんなことを体験することによって、自然と素直に自分にとって『ああそうか』と受けとめられたかと思うんです。肩肘張って生きてこなかったのが良かったと思います。
 
私は、何の疑問もなくダム推進を執行

高杉

当時、ダムを作れと言われ続けたと思いますが、それに対する疑問とかはなかったんですか?
宮本,
いや、それはねえ。当時はダムをどんどん作れというのが建設省の基本でしたから、今よりはるかにすごかったですよ。それに対して、出先の時には「何でこんなことでやっているのかな」と漠然とした疑問はありました。ただし、その後、30の前半位に本庁河川局に入った。その時には開発課と云って全国のダムを担当する課長補佐として入ったわけですよ。
そこで私は、全国のダム計画を審査する立場に立った訳です。そうすると今度は、当時、できるだけたくさん新しいダムを事業化する。大蔵省に認めさせる。そういう仕事に入った。そこではその方向に円滑にやることに全力を挙げました。
建設省のダムを作る理屈とマニュアルがあります。「河川砂防技術基準」とかですね。そういうものに合っているかとかですね。それは「治水計画はこう作るんだよ」というマニュアルなんです。
そこには基本高水とか、計画高水が「こうこうこうだ」とかですね。そう言ったことを審査する立場に立った。その時,私は疑問も何もなかった。
高杉
その担当時代に、何か大きな転換点はありませんでしたか。
宮本、
ちょうどそのころ、長良川河口堰の問題と重なりました。河川局上げて反対運動に対する色々な動きをしました。私は当然のこととして、河川局の歯車として建設に向けて動いていました。
 
 
苫田ダム反対闘争のさなか、苫田ダム工事事務所長として赴任

それで次に関わったのが岡山県の苫田ダムの問題でした。何十年と地元の人が反対しています。私は苫田ダムの工事事務所長として赴任しました。
高杉、
はあ!苫田ダムに赴任されたんですか?
宮本、
そうです。あそこは水没家屋が約500戸有るんですけど、そのうち、430戸くらいは「もうやむをえない」、と補償交渉に入った。そのころ、七十戸位が絶対反対ということだった。そこへ私は行ったんですよ。実はこの赴任が私の役人人生を変えました。
高杉,
分かります。私も三省堂から『日本のダム』と云う本を出していましたから、苫田ダム反対闘争の人々から講演に呼ばれたことがあります。都合で行けませんでしたけど。しかし、建設省の役人・宮本さんの何を苫田ダムは変えたんでしょうか。

 

注、苫田ダム反対運動について (wikipediaより)
苫田ダム建設事業は岡山県が1953年(昭和28年)4月に吉井川総合開発調査に着手したことから始まる.1957年(昭和32年)11月、農林省と県による農業用ダム構想の記事が山陽新聞に掲載されると、当時の苫田村は緊急村議会で反対を表明し、地元住民はダム建設阻止期成同盟会を結成した。その後合併して発足した奥津町は「苫田ダム絶対阻止」を町是とし、「苫田ダム阻止特別委員会条例」を制定して町を挙げた激しい反対運動を繰り広げた。
苫田ダムは1963年(昭和38年)に建設省へ移管され、1981年(昭和56年)12月に「苫田ダムの建設に関する基本計画」を公示し建設事業に着手した。岡山県は奥津町への補助金と公共事業の締め付けによる行政圧迫を強め、1986年から1989年にかけてはダム阻止派町長3人が任期途中で辞職するなど町政が混乱していった。また関係住民への直接対話や協力要請が続けられた結果、ダム建設容認へ動く住民も次第に増加していった。そして1990年(平成2年)12月、当時の奥津町長がダム受け入れを表明。1994年(平成6年)6月に「苫田ダム阻止特別委員会条例」を廃止し、建設省・岡山県・奥津町・鏡野町により「苫田ダム建設事業に係る基本協定」が締結された。

構想浮上から42年後の1999年(平成11年)6月に苫田ダム本体工事起工式が行われ、総事業費1940億円をかけて2005年(平成17年)3月に完成した。ダムによる水没面積は330ha、水没農地面積は155ha、水没戸数は504戸(奥津町477戸、鏡野町27戸)に上った。そしてダム問題で揺れた奥津町はダム完成と同時期に市町村合併(平成の大合併)により新・鏡野町となり、46年の町の歴史に幕を下ろした。


苫田ダムで住民と接し、私は変わった
宮本、
なぜ私が苫田ダムで変わったかというと、私はね。課長補佐時代に全国のダムの審査をする立場にいたわけですよ。それでマニュアルを片手に霞が関の会議室で、全国から出てくるダムの計画を見て審査していました。その時、自分がダムについては一番良く知っているくらいに思っていました。
ところが苫田ダムの現地に入ってみると人間関係がズタズタになっている。要するにもともとは全員がダム反対だったけれど、一部の方々は反対を貫き通すことができなくなる。反対を貫く方と止むをえないと諦めた方とは感情的な対立が出てきます。口では言えないような対立が出てきます。
高杉
いや宮本さん。口では言えないようなことこそ、ダム反対から遠い人たちが聞きたいことです。どういうことでしょうか?
 

ダムについて何も言えない老夫婦が私のダム作り役人人生を変えた
宮本、
それはね、どう言ったらいいのかネ。その人たちが何十年とその街におられて募り募った憤りがダムに、国に有るわけですよ。そう言ったこととか、仲良くしていた人たちがののしり合ったり、裏切り者だとかいう話になってくる。
周りの店が無くなっていますから、老夫婦が二人だけで取り残されていて、買い物も車の運転ができないから、日常の買い物もできない。そこでも筋を通すということでダム反対で頑張っておられる。
 
そこに私が行く。本来その人たちにとって、私は敵なわけですよ。だけどその人たちは自分の思いを私に語ってくれました。そして一緒に酒でも飲むかということになって、買い物に行けないその人たちの大事な大事なご飯やおかずを私に出してくれるんですね。
そういう人たちを、私は何の罪の意識もなしに何十年間、苦しみや心労を与えてきた。
私は霞が関で「ダムについて、自分は日本で一番分かっているんだ」、と得意になって仕事をしてきたのに、現地に入ったらこんなにもダムは住民の人たちを苦しめて疲れさせ、憤りさせてきているんだ、そういうすごい犠牲を伴うものだということが初めて分かったんですよ。霞が関でやってきたことはダムについては何も分かっていない。
 
それをわかったかのようにして仕事をしてきた。そのことがすごく恐ろしいことに感じられました。
私は苫田ダム現場に三年間いたわけです。たった三年間ですからわかりませんよ。だけど痛みは少しだけでも感じられました。水没の人たちは反対の声を上げるが、その老夫婦は反対の声を発せられないんです。
我々がマニュアルで、計算でいえばこれだけのダムが要りますねとか言ってきたことだけでダムを作ってきたが、本当のダムの実態は何も分かっていなかった。私は自分に対して、ものすごくショックを受けました。
私はその時から、すべてのダムが要らないかどうかはわからない。でも、ダムと云うものは、それだけの痛みを伴うものだということはわかった上で、それだけの痛みを伴っても作らなければならないという説明責任を果たせないようなものは作ってはいけない。そう心に刻みました。
 
河川法の改正、長良川河口堰担当者を中心に
宮本
次に行ったのは、長良川河口堰でした。そこでは最後の最終戦争が行われる段階でした。残念ながらそこでは良いの悪いのと云っておられる段階ではなくて、考えるひまさえなくて、今までのように国交省の歯車として動いただけでした。
高杉
こう考えたからこうやると、そんなに簡単なものではないわけですね。
宮本、
長良川河口堰に問題から、それが終わった段階で本省の河川局のダム担当の課になったんです。それで不十分でありましたが、全国のダムの総点検と云うのを始めました。あの当時、ダムの中止とかいうことをやりました。それと長良川河口堰の反省もあって、河川法を改正しました。
高杉
ダム総点検と云うものを提起しようにも建設省の雰囲気からすれば、そんなことを提起する雰囲気はなかったのではないんですか?
宮本,
その時はね、建設省は長良川河口堰でめちゃめちゃに批判されたわけですが、この時にね、「今までのやり方じゃ持たない」
という雰囲気が河川局の、特に長良川河口堰を担当した人たち、特に幹部も含めてあったことは事実です。それでその当時はダムに対して
『もっと推進しよう』
という人や
「もうあまりダムは作らん方が良い」
と云う人がいるんですよ。どちらかと云うと「ダムはもう作らん」という人たちが長良川河口堰にかかわった人たちを中心に多かった。
それが河川法改正にもつながって行った。その河川法改正は『住民の意見をちゃんと反映したうえでやって行こう』と云うことです。だからその時点では「河川局の方向転換できるんだなあ」と私も信じ切っていました。
 
「国が決定」から「住民参加」へ、淀川水系流域委員会が発足

だから淀川水系流域委員会を立ち上げました。住民の意見を聞こう。説明できないのなら止めよう、と。

高杉,
従来の河川法の何が一番悪いとお考えでしたか?
宮本
悪いと云うじゃなく、今までの河川法は洪水対策と水資源開発が目的だった。改正によってこれに河川環境の保全と整備が入った。これも良いことですが、私は大したことじゃないと思っています。一番大事なのは、いままでの河川法は
「すべての計画を国が決めます」
と云うことだった。
ところが長良川を経て、新たな河川法では、
「国は原案を出しますが、住民の意見、自治体の意見、有識者の意見を反映すること」。
そこの解釈はいろいろとあるが、私の解釈は『とにかく自分たちがまかされたのではない。住民は行政が勝手にするな、と云っているのだから、勝手にはしません。皆さん方の意見を十分に聞いてそのことによって我々は計画も変えるし、場合によっては計画を中止することもありますよ』と。
私は、河川法の改正でそういうような仕組みができたと思っていました。だから私はその時の『河川法の改正』は非常に画期的なことだと思っていました。だから現場の淀川で実現しようと思ったわけです。ところが長年経ってみると実はそうじゃなかったということが分かってくるわけです。
高杉
なるほど、だけど淀川の流域委員会に参加なさるということ自体がお役人だった宮本さんにとっては非常に難しい話ではなかったんですか?
宮本、
いやそれは違います。私はその時は河川局の役人ですから、淀川の事務所長として淀川水系流域委員会を立ち上げたんです。、それに行政の立場でダムについて国交省が説明するという立場で参加したわけです。
それで役人をずーっとやっていまして、役人を辞めました。辞めて京都に帰ってから代代の樽徳商店を継ぎました。まだ継続していた淀川流域委員会の委員となり、固辞していたのですが委員長になったということです。

                                                                                                                                             つづく

 

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