片野勧の衝撃レポート・太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑬ー3/10 東京大空襲から 3/11東日本大震災へ<下>
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑬
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』
3/10 東京大空襲から 3/11東日本大震災へ<下>
片野 勧(フリージャーナリスト)
「押せ、押せできた」戦後67年
軍需の生産拠点・川崎も狙われた
石巻市の、とある仮設住宅の集会場。2012年4月11日――。少し開いた窓から歌が流れていた。こぶしの効いたその歌は、静かな佇まいと妙に調和して、宵を盛り上げていた。
♪あなた変わりはないですか/日ごと寒さがつのります/着てはもらえぬセーターを……
都はるみの「北の宿から」である。音のする窓のほうを見ていた私は、もう躊躇いはなかった。まっすぐ、その部屋に入った。6、7人のおばさんたちがカラオケで歌っていた。私は名刺を出して、訪ねた“理由”を話した。だれかがボリュームを下げてくれた。
「その人なら、いますよ」
その人の名は小山ヤスノさん(89)といった。
「恥ずかしいので、その話は勘弁してください」
――どうして話せないのですか。
「遠い昔の話なので、ダメ。恥ずかしいから」
しばらく沈黙が続いた。被災者に話を聞くために来たのに、この沈黙はなんなのだろう。私は考え込んでしまう。遠い過去の戦争のことを話して、一体何になるのだろう、と小山さんは考えたのかもしれない。それとも、他に理由があるのだろうか。
そういえば、私は東北の被災地を歩いていて、しばしば被災の状況に話が及んだとき、沈黙する人たちに出会った。宮城県名取市の閖上地区で。岩手県釜石市の仮設住宅で。福島県南相馬市小高区で。それはいまだに家族が見つからず、いまも黙々と探し続けている人々の無言の声かもしれない。
これからどう生きていけばよいのか。途方に暮れている人々の声であるかもしれない。私は、それらの声なき声を求めて東北地方を取材して回った。そこで見えてきたのが、まずは人間の復興ではないのか、と。そんなことを考えていたら、突然、彼女はそれまで閉ざしていた重い口を開いた。低い声だったが、はっきりと聞き取れた。
東京の隣接都市、川崎市には多くの軍需工場があった。福島県立白河高等女学校から4年生百余名が川崎市の東芝小向工場に昭和19年(1944)10月から学徒動員で来ていた、その時の引率者だった教諭・大中一郎氏(当時38歳)の証言。
「照明弾が落ちてきて、真昼のように明るくなり、生徒の手を引いて堀に伏した。助けてといって飛び込んでくる人もいた。生徒たちのいる防空壕には行けない。続いて落下する焼夷弾であたりは燃えている。……(中略)一夜が過ぎてみると、焼け野原となっている。燃え続けている倉庫のわきに池があっても、いっさいかまわず燃えるままである。働くべき工場は燃えた。寝起きした寮も焼失した。道端には焼け死んだ人がころがっている。全員無事で一人の死者もなかったことだけが何よりの幸せだった」(『川崎空襲・戦災の記録』川崎市)
戦争末期、34万人いたと言われる学徒動員・女子挺身隊のうち、約1万1千人が犠牲になった。幸い、白河高女の生徒は全員助かったのである。
女子挺身隊員として
さて、小山ヤスノさんへのインタビュー。
――終戦時、何歳でしたか。
――女子挺身隊員としてどこの会社へ入られたのですか。
女子挺身隊です。“お国のために”と言われて……」
その会社は今も通信機器を製造しているという。
「仕事の内容は通信機のハンダ付けからペンキ塗りなどでした。寮には10数人いました。仕事は朝8時から。夜10時まで残業をやると、雑炊が出ました」
女子挺身隊の制度は戦争末期、前線に駆り出された男たちの補充労働として考え出されたもの。年齢は14歳から40歳まで。対象は「未婚」で「在学していない」「軍需工場などへ働きに行っていない」女性たちという(いのうえせつこ『女子挺身隊の記録』新評論)。
東北の寒村からも、こうして多くの女子挺身隊員が軍需工場で働いていたのである。
――辛かったことは?
この日、4月15日夜。狙われたのは川崎市川崎区の大半と、小山さんが勤めていた通信機のある幸区の南部地域だ。大型の70ポンド焼夷弾M47を8925発、短時間に投下し、川崎市は一夜にして壊滅したのである。小山さんは語っている。
「焼夷弾が落ちてくるので、防空壕の中に逃げました。一夜、明けると、焼け野原になっていました。道端には焼け死んだ人々が転がっていました」
川崎市幸区は軍需産業の生産拠点。東京芝浦電気、明治製菓、池貝鉄工、大同製鋼、古河鋳造など数多くの軍需工場があったが、その多くは全焼した。死亡した女子挺身隊員も少なくなかった。川崎市に隣接する東京地区にも同時に120機のB29が焼夷弾760トンを投下した。
大川小学校児童68人が死亡
「我が家は大川小学校の向かい側で、家は流されました」
――ところで、津波はどこで遭われたのですか。
石巻市立大川小学校といえば、全校児童108人中、68人が死亡し、6人が行方不明。教育現場を襲った災害としては歴史に深く刻みこまれることになった学校である。
私は震災後、1年が経過してから大川小学校がある石巻市釜谷地区と、その周辺を中心に取材して回った。つぶれた家屋や車が散乱していた地震時と比べると、がれきは取り除かれていた。
しかし、家屋や漁業施設が寄り添うように立ち並んでいた街も、人気のない砂漠のような太古の姿をさらけ出していた。子供たちの歓声も消え、無機質な静けさに包まれていた。小山さんの家も流され、更地になっていた。
――どうして助かったのですか。
「水は近くまできていて、夢中だった。今だったら、登れませんけど、おじいちゃん、おばあちゃんと山へ登って助かったのよ。犬を飼っていて、その犬が山の頂上まで連れて行ってくれました。犬に感謝しています」
「不敗神話」の大本営発表
「都内各所に火災を生じたるも、宮内省主馬寮は2時35分、其の他は8時頃迄に鎮火せり」
一夜にして10万人も死んだというのに、3月10日正午のラジオを通じての大本営発表は次のとおり。
主馬寮とは天皇の乗る馬の馬小屋のこと。その馬小屋はどこよりも早く消火させたが、10万人の死者たちは「其の他」で葬り去られたのだろう。つまり、大本営の考え方は、人間よりも馬小屋の方が大切だったのだ。
大本営は10万人が焼死したということを一切報道せず、ひたすら隠蔽した。なぜなのか。大本営発表を少しでも批判すれば、「不敬罪」などで投獄されたからである。つまり、言論の暴力によって、国民を脅していたのだ。
また事故が起こると、「想定外」という用語を持ち出し、それを免罪符のように振りかざすのが日本の官僚や企業、政治家たちの思考の枠組み(パラダイム)である。
30時間、燃え続けた
「8時頃迄に鎮火」という表現も詐欺的。「鎮火」という文字は単に「火勢がしずまる」ことではなく、「火事が消えてしずまること」(『広辞苑』)。30歳の時、3・10東京大空襲を経験している評論家の故・松浦総三氏(「東京空襲を記録する会」事務局長)はこう書いている。
この原稿は私が「宇都宮市戦災を調査する会」の事務局長として『宇都宮空襲・戦災誌』を編纂した時、「宇都宮空襲史論」の原稿をお願いした時のものである。少し長いが、引用する。
「3月10日の東京空襲の場合、消防車は皇居周辺へ全部集まってしまったために、日本橋のビルディングは、延焼につぐ延焼で、3月10日の夕方に隣のビルディングから、火が移って一夜燃えつづけて、「鎮火」したのは11日の「未明」であった。3月10日の東京空襲は、空襲が開始され火災がおこったのが10日午前零時8分で、空襲が終わったのが2時45分ごろであった。
67年前、米空軍B29による東京爆撃は100回以上。そのうち、東京を壊滅させたのは5回の夜間焼夷弾攻撃。焼失率80%。作戦を指揮したのはカーチス・ルメイ総司令官。彼はその後、名古屋、大阪などの空襲。広島、長崎の原爆投下にも関与した。
第1回目の大空襲は3月10日の海抜ゼロメートルの江東スラム地帯などへの下町爆撃。死者10万人以上。第2回目は4月13日の赤羽造兵廠や滝野川、明治神宮など山の手地帯への空襲。3・10空襲よりも投下した焼夷弾は20%も多かったのに、死者2500人。3月10日のそれの15分の1に過ぎない。これはいかなる理由によるものか。
米国戦略爆撃調査団報告は、3月10日は烈風が吹き掘割や河に遮られたが、4月13日の空襲は風があまりなく、家も江東地域ほど密集していなかった、と分析している。しかし、理由はほかにもあるという。
「多くの都民は3月10日の惨状を知っていた。だから、政府や軍の言うことを信用せず、空襲警報が鳴ると、消火をあきらめて逃げてしまったのである」(東京空襲を記録する会編『東京大空襲の記録』三省堂)。
第3回目、第4回目は東京南西部の目黒、品川、大井、荏原などがやられた。第5回目は5月25日の皇居周辺の爆撃だった。明治宮殿が焼失し、米記者は「東京にはもはや高地なし」と言った。このように東京は言語に絶する被害を出したのである。
東京大空襲の時もそうだったが、老人や女性、子ども、障害者など弱い立場の人に被害がシワ寄せされる。現に東日本大震災の死者のうち、60歳以上が1万2006人で、約6割を占めているという。
弱者置き去りの軍事優先
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