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海軍省記者クラブ黒潮会・<内外諸情勢が無気味な気配をただよわせる開戦前夜の報道秘話と大本営の内幕>

   

    歴史読本「太平洋戦争の証言」(昭和45年9月号)       
 
 
海軍省記者クラブ黒潮会・<内外諸情勢が無気味な気配をただよわせる開戦前夜の報道秘話と大本営の内幕>
 

                                     千葉愛雄
                            (元同盟通信記者、黒潮会員)
 
 明治中期に建てられた古びた赤レンガの建物は、いまでは見ることはできない。霞が関にあった海軍省の跡には各官庁の合同庁舎がそびえており、そこからは昔の匂いすらかぎとれなくなっている。
その旧海軍省の正面を入ってすぐ左のうす暗い部屋が海軍省記者クラブ「黒潮会(こくちょうかい)」であった。日露戦争当時、記者が省内につめかけ、日本海海戦の電報に一喜一憂したものだと、戦時中、海軍の長老だった小笠原長生子爵からうかがったことがあるが、クラブの正面に軍令部総長だった永野修身大将の書になる「黒潮温国」の額がかかっているところを見ると、正式に黒潮会と名乗ったのは大正末期の頃と思われる。
 
 大正十年のワシントン条約で五・五・三の比率を呑まされた帝国海軍が、昭和十一年の約時代、建艦競争に足を踏み入れた瞬間から時の首悩部は国民的総意を背景にした難事業達成を、決意したに違いない。
 
事実、昭和十二年十一月には、超大戦艦「大空の建造に着手し、翌十三年三月には第二号艦「武蔵」の着工をはじめている。これら大艦の建造はもちろん極秘ではあったが、予算措置その他の面では、どうしても納得しうるだけの対外的説明が必要だ。
それは直接ではなくても、米英両国をはじめとする外国の建艦競争による脅威、海国日本を守るための海軍力増強、海洋思想の普及といった面で、その方法はあり余るほどであった。そういう点で一時期を画したのは日華事変の勃発である。

事変当時は報道部の前身、軍事普及部という小さい組織で、せいぜい講演会や映画会、国防献金の呼びかけなどの仕事をするだけで、同じ海軍部内からも「チンドン屋という仇名をつけられるほど軽視されていた。

ところが事変が次第に拡大し、上海に飛火するようになると、にわかに軍事普及部の仕事は多忙になった。そこで黒潮会員の活躍もさぞかしと思われるのだが、現実は思第二次ロンドン会議で脱退し、たるものは、各新聞通信社の政治部員に限るという内規があるため、社会部記者は絶対入会させてくれなかったからである。

 
 やむなく各社の社会部記者有志は当局とかけ合って、地下室にあったじゅつ兵部前の廊下に机を三つ四つ並べて「海軍記者クラブ」を結成、活動をはじめた。史上初の南京渡洋爆撃、上海陸戦隊の勇戦、有名な南郷大尉機の壮烈な最期など、新聞紙上を飾った海軍記事の大部分は、社会部記者の筆になるものばかりだった。
それでも黒潮会は頑としてその門戸を閉ざし、社会部記者がやっと入会を許されたのは、第二次大戦のはじまる半年前の十六年夏だったから、いかにその扉が堅かったかが分るだろう。
 
一方、海軍側にしても戦局の切迫につれて軍事普及部から脱皮する必要に迫られていた。昭和十五年の十二月、内閣情報部が情報局に昇格、陸海軍をはじめ内務、外務両省の情報、言論統制、検閲関係のすべてが統合されて、いまの帝国劇場を接収して業務を開始した。これに呼応するように海軍では新たに海軍報道部を確立し、作戦報道を担当するという建前から、軍令部第三部長が報道部長を兼任、報道課長は軍務四課長を兼務するという、これまでにない大がかりな体制を布いたのである。
 従って開戦時における報道部の陣容は、報道部長・前田稔少将、報道課長・平出英夫大佐、その下に田代格中佐、富永謙吾少佐、唐木和也少佐、浜田昇一少佐らがおり、別に専任尉官、それぞれの専門分野から徴用された嘱託部員多数という編成であった。

この編成は人の入れ換えや、敗戦直前の情報局と陸.軍報道部の再統合という経緯はあったが、組織そのものとしては終戦までそれを貫ぬいていたから、当時としては理想的な形態に近かったといっていいだろう。

 
 こうして太平洋戦争の発表報道は大本営発表(最初の一ヵ月は陸軍部、海軍部と別れていた)という名の下に終始一貫して行なわれた。しかし同じ大本営発表でも、陸軍関係は陸軍省記者クラブ、海軍を主体としたものは黒潮会を通じて発表されることに変りはなかった。

その黒潮会であるが、いよいよ社会部を吸収してふくれ上り、開戦直前にはそれまでの一社二、三名が七、八名となり、坐る場所もないありさまだった。開戦時における主なメンバーは次のとおりで、すでに故人となった会員も少なくないが、いまなお各界で活躍している名前も数多く見られる。

 ▽朝日新聞=杉本健、門田圭三、斎藤信也、泉毅一、入江徳邦、足立和雄、加藤大吉▽毎日新聞=後藤基治、新名丈夫、川野啓介、福湯豊、岡本博、戸川幸夫、名取譲之助。▽読売新聞=内田栄、小川力、吉田万里夫、河辺確治。▽同盟通信=森元治郎、千葉愛雄、猪伏清、中村伸康、若杉慧助、斎藤桂助、今井幸彦、北原晴光。▽日本経済=佐藤良邦、吉田啓、武藤直義、石原憲▽東京新聞=一原道常、藤田幸男、笠井寅男、杉谷馨。▽西日本=伊東浩三。
 
 以上の黒潮会とは別歯に、報道部は新しい報通班員制度を研究していた。これまでの従軍記者制度は多くの欠点や不利な点を持っていた。

日華事変中にも多くの記者や写真班が陸海軍部隊に従軍したが、陸海軍から従軍許可のお墨付をもらうだけで、身分上の扱いは兵、馬匹、新聞記者の順序であり従軍の経費その他は全部所属する社の負担、空戦死した場合でも、一片の補償すらなかったのである。

 そこで総力戦にふさわしい合理的な班員制度はどうあるべきか。この研究立案には富永少佐と田口利介部員が専任で当たり、約半年にわたって調査研究を進めた結果、開戦二カ月前にいたってようやく成案を得たのであった。これは当時目ざましい効果を収めていたドイツの宣伝中隊(P・K=ベーカー)の組織をお手本に、海軍の現状に適合するよう配慮されていた。
 1番の特徴は身分上の取扱いが確立したことで
①身分=海軍軍属とする。学歴、年令、社会的地位に応じてこれに相当する待遇(大部分は奏任官待遇)を与える。これによって艦船乗組み、航空隊配属、戦死の場合の待遇などが解決された。
② 採用=徴用令音によることとし、期間は三カ月を一期とし、特別の者は二年とする。
③組織=記事、普通写真、映画、作家、絵画、無電・ラジオ、検閲の八班とし、方面艦隊を配属先とし、ここから水上、航空、潜水の各隊に派遣される。
第一回の報道班員四十六名が召集されたのは、十二月二十七日で、いらい終戦まで報道の戦いが続けられたのである。
 
  機密保持秘話・サイレント・ネービー
 
「沈黙の海軍」といわれていた海軍が、対内外の宣伝攻勢に乗り出したのは・昭和十六年五月三十七日の海軍記念日に「世界動乱に処す帝国海軍」という題名で平出大佐が行なったラジオ放送の、有名な「われに艦艇五百、海軍航空機四千あり」という内容であった。
これまでの海軍は数字に関しては一切発表しない建前であった。それがそのものズバリの表現で、実勢力に近いものを発表したのだから、われわれ黒潮会員はもちろん、翌日の新聞を見た人々は驚嘆すると同時に、帝国海軍に対する信頼を一段と深めたのである。
 
 もちろん、その裏には伝統の沈黙と機密保持を原則に、強硬に反対した首脳部があり・放送原文が出来上るまでに一ヵ月以上もかかったという。しかし当時の軍令部作戦課長、富岡定俊大佐と報通課長は海兵の同期間クラスで、富岡-平出のコンビがこの画期的な放送を実現させたのであった。
 それでは海軍はそれ以降、部内情報を出してくれたかというと、そうではなかった。特にその年の十一月に入ると、内外諸情勢は嵐の前の静けさ、といった無気味な気配をただよわせていたのであるが、事実は次のように戦争への道を進んでいた。
 
 十六年十一月三日(ハワイ攻撃決定)五日(来栖大使出発)七日(Ⅹ日を十二月八日とす)十日(機動部隊呉出撃)二十二日(エトロフ島単冠湾に集結)二十六日(ハル・ノート手交、機動部隊単冠湾を出港)十二月一日には山本長官によって「新高山に登れ」(前進攻撃せよ)の暗号秘密命令が打電された。
 
 
そこで黒潮会員の関心はもっぱらⅩ目は何日なのか、を知ることであったが、事前にキャッチできた社はなかったと思う。
それほど機密保持は厳重であった。とくに十二月の五、六、七の三日間、毎日三千人の水兵が横須賀から東京に派遣され、宮城を邁拝し、靖国神大戦の勃発を報じる昭和16年12月9日付の東京日日新聞(現・毎日新聞)社に参捧してから銀ブラをした。そして新聞社を見学して、その写真が大きく載った。その日的はいうまでもなく作戦カモフラージュの一助であったが、外人記者の中には「日本水兵、大挙して銀座見物」と打電した向きも多かったという。
 
 
 機密保持といえば筆者にとって忘れられぬ思い出がある。十一月の初旬、当時同盟通信の編集局長だった松本重治氏(現国際文化会館専務理事)に呼ばれ密命を受けた。

それは「連合艦隊の山本長官の要請によって、旗艦長門に報速攻員一名を同盟から派遣することになった。そこで君に行ってもらうことにしたが、このことは当分口外しないように」といって高額の仕度金を手渡された。連合艦隊の司令長官といえば海軍の神様であり、その旗艦にはいままで外部の者は誰一人立ち入らせなかった。それこそ男冥利につきるというものである。

 数日後、郷里の父親から「憲兵隊がお前の身許を調べに来たが何をやったのか」また結婚したばかりの妻のところへも海軍法務官がきて、家族や親戚のことまでも、あれこれ聞いて行ったという。思い当たることはあったが、あからさまには言えず困ったことを覚えている。
ところが十日ほどして「報道部の平出課長から連絡があり、旗艦には乗せないことになったから、あの話はなかったことにして他日を期してくれ」というわけで、いとも哀れな結末になったが、旗艦には最後まで誰も乗せなかったことからみても、無理もなかったと自ら慰めている。
 ところでハヮイ海戦に続いてマレー沖海戦と、景気のいい軍艦マーチに日本中が湧き立ったのだが、何か一つ物足りない思いが残っていた。それは海戦史上初の大戦果であったが、いわゆる戦闘詳報が聞かれないことであった。

十二月下旬のある日、平出課長に呼ばれ二階の課長室に行くと「これからすぐ芝水交社のⅩ号室へ行って、淵田という海軍中佐と会ってくれ、先方には通じてある。君には借りがあるからな」といす。ピンと来てその足ですぐ水交社に飛んで行った。

一室で待っていたのは、長身の正式軍装に身を固めた美丈夫であった。ハワイ攻撃隊の絵指経営で旗艦赤城の飛行俊長、淵鴇美津堆中佐である。宮中での奏上を終えて帰ったばかりとのことだった。

正直いって私は身体のふるえるのを禁じえなかった。それから約二時間余、母艦出発から雷撃隊常よる攻撃第一波、艦攻による第二次、大型機による水平第三次爆撃、さらに特別攻撃隊による特殊攻撃にいたる戦闘詳報をたんたんとした調子で余すところなく語ってくれた。

会見を辞した私はすぐ海軍省近くの旅館の一室にとじむもって、いまの感激を出来るだけ再現させるよう筆を走らせた。数日後、そり骨子は黒潮会員に、報道聾貝によってコメトされ、原文は同盟通信を通じて全国に流された。こうして十七年貢二日付に「某基地にて○○中佐談、ハワイ海戦の全貌」と題する記事が各紙の第一面全部を飾ったのである。
 
 発表と真実の裏側・
 
 ハワイ攻撃の奇襲成功の公算は五分五分だったという。そして成功の場合でも、勝味は七分、わが損害三分ということだった。してみるとわが方の損失、飛行機二十九桟、特殊潜航艇五隻は、海軍作戦史上に例をみない大戦果というべきだろう。

戦後、真珠湾攻撃の成果について日米双方から数多くの批判が出された。日本側からは、艦船や航空機だけ叩くのではなく、他の軍事施設たとえば大型の油槽タンク群や、機械工場などを爆撃していれば、米軍の反抗作戦はあと一年は遅れただろうという。

 
 これに対し米側からは、まず奇襲作戦に対する国民的憤激をあおった点で、結果的には米国にとってプラスであったという見方が、圧倒的に多かった。また老朽艦の始末をつけてくれて手間がはぶけて助かった、という皮肉な意見も見られた。それは米太平洋艦隊を全滅させたはずが、実際は標的艦ユタと戦艦アリゾナとオクラホマだけが完全喪失しただけで残りは全部戦列に復帰したからである。とくにアリゾナは沈澱場所にそのままの姿で残され、いまなお戦死者のための記念館になっている。
 ところで特別攻撃隊の九人に対しては、二階級特進、九軍神という発表が十七年の三月にあったのだが、実は一人数が不足で、オアフ島海岸で、意識不明のまま捕えられた捕虜二号の酒巻和男少尉のことだったが、これは遂に戦後まで発表されなかった。また特港隊が二階級特進なら、真珠湾上空で散った搭乗員も当然そうすべきだという実施部隊と・反対する軍令部の問で冷戦が続いたが「それなら事後の作戦には応じかねる」という強硬態度に、軍令部側がしぶしぶ折れるという知られざりいきさつもあった。
 大本営発表は緒戦のころは敵に対する戦果とわが損害は、おおむね正確であったが、戦局が激化してくるとともに、誇大戦果と過小損害が次第にふくらんでゆき、その最初の大きいつまずきが運命の、ミッドゥェー海戦(十七年六月五、六日)であった。その年四月十八日のドゥリットルによる、B25十捜東京初空襲への報復のため、山本長官が作戦実施を急いだといわれるが、その実偽はともかく、結果的には真珠湾と彼我ところを変えた惨敗であった。

わが方の損害空母一沈没、一大破、巡一大破、未帰還三十五機と発表されたが、実は虎の子空母である加賀、赤城、蒼龍、飛龍の四隻を失い、戦艦榛名と重巡三隈が沈没、同最上の大破を招き、飛行槻二百八十機を母艦とともに沈められたのである。

ミッドゥェー海戦を境に太平洋の落日が開始された。この敗戦は暗号解読によるといわれるが、同じ米国の暗号作戦で十八年四月十八日、山本長官題プーグッゼル上空で壮烈な戦死をとげた(発表は五月二十一日)。続く古賀峯一長官も十九年三月三十一日、ルソン島沖で殉職(発表五月五日)。この時期をはさんで大小幾多の海戦、空戦が行なわれたが、いずれも勝機に見放され、原爆投下までの戦敗街道をひた走ったのである。
 
 太平洋戦争の敗因は、一口に物量の圧倒的違いによるとされているが、総力戦を戦い抜く体制と資格に、欠けるところがあったのは事実である。その一つが陸軍対海軍の相剋である。当初この戟争の呼称も、海軍は「真珠湾作戦で始まったのだから、太平洋戦争と呼ぶ」としたが、陸軍は「日本は大東亜の盟主となるのだから」と十六年十二月十日の大本営政府連絡会議で強引に「大東亜戦争」を押し切ってしまった。

また日本最初の海軍落下傘部が、セレベス島メナドに降下したのは十七年一月十一日であったが、この発表を陸軍は機密保持上見合わせるよう申し入れた。ところが陸軍の急仕立て部隊が一ヵ月後の二月十一日、スマトラのパレンバンに降下するとへさっさと単独で発表してしまい海軍を怒らせた。

 こんな争いはいささか子供じみているが、そうでないのが陸海軍の航空機争奪戦であった。航空消耗戦によって増産が叫ばれ、陸海の調節をはかる軍需省が十八年十一月一日設立されたが、これまで海六陸四の比率で進められていたのに、昭和十九年二月の東条・嶋田繁太郎海相の妥協案では、陸軍二七、一二〇機、海軍二五、130機となり、これではまるで嶋田副官だと前線部隊の憤激を買った。これから、海洋航空機増強を叫ぶ報道機関にさえ、有名な竹槍事件をはじめとする召集戦術がはじまり、この面でも陸海軍は相反目したまま、終戦を迎えたのである。一

 本稿を結ぶに当たり、終戦の八月十五日、J沖縄へ特攻出撃した前連合艦隊参謀長、宇塩練中将と、翌十六日官邸で自刃した特攻隊生みの親、軍令部次長、大西滝治郎中将の二人の名を付記したい。それは批判は別として、如何にも帝国海軍の最期にふさわしい壮烈な最期と思えるからである。また栗原悦蔵少将と交替して報道部を去った平出英夫大佐は、その後マニラ武官府から札幌地方軍需府付となり、少将で敗戦を迎えたが翌年、郷里の青森県三沢で病を得、寂しく没した。
 ハワイ、ミッドウエーエーその他の海戦で勇名を馳せた淵田美津雄大佐は、終戟後キリスト教に帰依し、全米各地をザンゲの講演旅行をして回り、いまは郷里三重県下でプロテスタントの牧師として、静かな信仰生活を送っていると聞く。
 なお、戦争全期を通じて作戦報道に挺身した報道班員は延べ八百名(記事六百名、写真二百名)に達したが、うち二十一名が尊い人柱となっている。
 

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