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『最強のリーダーシップの日本近現代史』(235)/ 歴代宰相で最強のリーダーシップは1945年終戦を決断実行した鈴木貫太郎ー山本勝之進の講話『 兵を興すは易く、兵を引くのは難しい。』★『プロジェクトも興すのは易く、成功させるのは難い』●『アベクロミクスも先延ばしを続ければ、 ハードランニング、亡国しかない』

   

 

 

 

  日本リーダーパワー必読史(746)記事再録

歴代宰相で最強のリーダーシップを発揮したのは鈴木貫太郎であるー山本勝之進の講話

  以下は、海上自衛隊幹部学校編『山梨大将講話集)『歴史と名将』

(歴史に見るリーダーシップの条件)山梨勝之進著、毎日新聞社(1982年刊)より

 

山梨大将の講話

一か月ほど前、鈴木貫太郎

大将の伝記がでましたので、その記念祝賀会がありました。その席で迫水久常元経済企画庁長官

から、あなたが海軍を代表して、鈴木大将に対して何か挨拶して下さいとの依頼があり、六、七分話をしました。

鈴木大将がどういう立派な仕事をし、どんな功績があったか、それは、どんなにえらい人であったかということは、世界各国の歴史に長くその名が残ることでしょうが、私としてはわれわれの教官であり、海軍の人であるという見地から、かつては双眼鏡を手にとって、ブリッジから海を眺めた人である鈴木大将に対して、一言感謝の辞を捧げたいヒ思ったのでした。

その時の話を取捨選択して、申し述べたいと思う。

鈴木大将は私らの教官であります。日本の昔の海軍の用兵の話をするときにまた出ますが、長い日本の歴史において、鈴木大将のような立場になった方は他にはないと思う

もともとが将軍でして戦(いくさ)をして敵に勝つのが務めで、またかってはそのとおりであったのですが、あのような最高の舞台で、戦(第二次世界大戦)をやめる立場(終戦)にたった、戦をやって勝利をうるのが将軍の1面であり、戦をやめるのが他の一面で、どちらが難しいかというと、場合によってはあとの方が難しいということができる。

しかも、将軍は政治・外交は嫌いで、その方面には野心もなければ、興味もない純粋な立派な武人です。運命の皮肉がそうしてしまったのです、どうしてあれができたか。

それは鈴木将軍が沈勇大胆な武将であったから、あのときにやめることが可能であり、日本の陸海の全軍が、若干の抵抗はあったにしても、ついてきたのだと信じて疑わない。

 

これは米内光政海軍大臣のカが非常にあずかっていたわけです。また陛下のことは申すまでもないことです。しかし鈴木大将のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。

あれがもし普通の文官の方があの地位にあったら、軍は収まらなかったろうと思う「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。

いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では日本1一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄、陛下の御決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。

鈴木大将は何かを考えて、故意にそうあったのかどうかはわからないが、老後まで三方ケ原の戦のことが好きで、当時よく左近司政三中将あたりと、三方ケ原の戦のことを話しておられた。

三方ケ原の戦はむろん陸戦ですが、なぜに好きであったかということを、私も少し考えてみた。

三方ケ原の戦は徳川家康が三十歳のときで、武田信玄の全盛時代、信玄の死ぬ半年前です。

そのとき信玄の率いた軍勢は四万と言われているが、実際来たのは二万から三万の間で、信玄は油ののったいわゆる日本一の信玄で、浜松の北にやって来た。ところが徳川家康は三十歳で、兵八千をもって1日分の部屋に入ってきて、枕をけっていく乱暴者があるのに、黙って見ておるくらいならば、自分は弓矢を捨て・鎧を焼きすててしまうんだ。じっとしておれるかしと言う。

織田信長が非常に心配して、日本一の信玄では危ないから、決してとりあってはいけない。浜松を捨て岡崎まで逃げろとすすめた。そして平出監物ほか一名、合わせて二人を将として援兵をよこした。家康は何と言われても、私に

は考えがあるから、御厚意は有難いが心配無用だと言って戦った戦です。

むろん負けたが、立派な名誉ある負け方で、兵を引いて浜松に夕方入って来たのですが・信玄の方も、小荷駄が十分ないから兵を引いて行った。

浜松まで全軍引き上げ、家康は城中に入って、門を開き、ある侍大将の妻君が粥を出したのを満腹するまで食べ

て、ごうごう鼾(いびき)をかいて熟睡した。そこへ山県三郎兵衛昌貴と馬場美濃守信房が馬をならべて門まで追って来たが、門が開いてもの静かなので止まり、中に何があるかわからない、伏兵があるだろうというので引き揚げて帰った。

帰ってから真田昌幸にこの話をしたところが、「あなたがたはしくじった。諸葛孔明が門を開いて琴を弾きながら、司馬仲達が追っかけてきたときにやった計略、そして仲達がおそれて逃げた話を覚えているか。もし中へ入っていたならば徳川公を虜(とりこ)にできたのに」と言われて、二人は「ああそうだったかしと言ったという軍談がある。

また馬場が、たんねんに戦場にある徳川方の死骸を調べてみると、北を向いているものはみなうつ伏せになっており、南を向いているものはみな仰むけになって倒れている。

 

突進したものばかりで、誰一人として逃げたものはない。全力をつくした証拠である。家康の訓練の行き届き方は底が知れんですと、馬場美濃守が信玄に言ったたということになっている。鈴木大将はこの話が好きでしょうがない。

鈴木大将はどちらかというと、海軍の名将としては、ネルソンよりも、アメリカのフアラガットの方に・感じと肌ざわりが近い。陸ではナポレオンではなくて、ウェリントン型と申したい。

ちょっと見たところ村夫子然として・田舎の村長のような感じでした。「おれは勇気満々だ」という感じではなくて、渋い地味な方で、偉いんだとか、元気なんだというふうなところはない。田舎の村長が袴をはいたような感じの方でした。そして無限の勇気を包蔵しているところは、実に東洋型だと思うのです。

関連して申したいのが、学者であり、哲学者である曾国藩(そうこくはん)

のことです。この人は清朝末期における中国の大政治家であり、大学者・大軍人でありまして、非常に偉い人でありました。

大漢和辞典を書いた諸橋轍次という人の『経史論考』という立派な本があるが、これに軍人としてではなくて、むしろ学者としての曾国藩のことが書いある。

その終わりのところに兵学者、軍人としての性格に対して、価値ある記事がのっている。そのなかに「千古兵を知るは諸葛孔明」とあります。孔明は中国の何千年の歴史において、名将としてまた立派な人です。

敵の仲達でも、孔明を天下の鬼才であると褒めている。それ以外では王陽明とこの曽国藩が哲学者であり、軍人として立派な人です。二人とも学者の方が本職であるが、名将としても二人とも劣らない事績がある。孝明天皇の嘉水三年(一八五〇)に、中国に長髪賊の乱(太平天国の乱)が起こった。

洪秀全という人が「自分は神様の次男だ、キリストは長男で私が次男だ」と言い、髪を長くして長髪賊といった。

これが約十五年の間、中国の一八省中二六省まで侵して、大変な騒ぎであった。そのときこれを平らげたのが曽国藩である・兄弟で働いた。米人のワード、英人のゴードン将軍を招聘して平らげた。

この人の思想は「用兵は道徳を基とす」と言っている。また『克己の二字は特に身を束ねるもののみにあらず。すなわち治国平天下、何ぞこの二字の

カにあらざるなき。すなわち用兵に至りてもまたかくの如し」、用兵は克己だというのです。

1つの達見と言わねばならない。いちばん危ないのは名誉心だというのです。これを非常に戒めている。長い戦になると、指揮官は名誉欲を抑えなくてはならない。それを克己と言っている。

また「兵はやむを得ずしてこれを用う。あえて先となず」、兵は決して自分から始めてはならないということです。「兵は陰事なり。哀悼の意、親喪に臨むが如し」と、これは、戦争は親の葬式のようなつもりでやらねばならないものだ、というつつしみのことなのです。

西太后の評によると、「曾国藩の用兵はカを兵法に得るにあらず。すなわちカを道学に得たり」と。西太后というのは徳宗皇帝の皇后で、有名な利口な政治家です。

外国には西太后とか、則天武后、カザリン二世とか、女でこういう人がときどき出ます。日本にはそんな人が出なくて結構なんでしょうが、この西太后が長髪賊に困りまして、祖国藩によって平定したのですが、その曾国藩の用兵

は、力を兵法から得ているのではなくて、道学からきているというのです。道学というのは宋学の李程瞬、程明道、程伊川および朱晦庵からきている。

こういう考え方は孫子、呉子とも違い、むろん欧州のクラウゼヴィッツの有名な兵学とは、兵学の考え方が根本から違っている。深く研究すると、曽国藩の用兵の核心が得られると思うのです。

何でこういうことを言うかというと、鈴木大将はこういう肌なんです。鈴木大将は道徳的な考えの勝った人でした。ナポレオンは幾何学的戦略ですが、そういう欧州風でなくて、われわれの先祖が親しい東洋流の、場合によっては、仏教の禅のにおいと香りの感じのある人である。鈴木大将はあとからも述べることもあると思うが、そういう偉い人であります。

 

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