アジア太平洋戦争(1941-1945)ー日本軍が占領したアジア各国で日本の新聞社は<どんな「戦時外地新聞」を発行したか>②
アジア太平洋戦争(1941-1945)で日本軍が占領したアジア各国で、日本の新聞社は<どのような「戦時外地新聞」を発行したか>
ー占領地におけるメディア政策について(新聞の役割と
実態メディアの戦争責任)②
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<グロバリゼイションで中国、インドネシア、マレーシア、ベトナム、ミャンマーなどへの日本企業進出が加速する中で、参考にすべき歴史的な事実>」
この内容は一九九四年一〇月一五日午後二時より東京・神田パンセで開かれた、アジア民衆法廷準備会主催の連続(小法廷〉第二回「メディアの戦争責任-占領地・植民地の新聞を中心にでの、陳述者・前坂俊之の証言を、そのまま掲載したものです。(『メディアの戦争責任ー占領地、植民地の新聞を中心にして』樹花社、1995年3月刊 掲載)
●多言語で発行
当時の南方総軍の中枢軍が駐留していましたシンガポール、これは昭南市ですが、マニラ、ラングーン、クアラルンプールなどに各新聞社は本社を置きまして、計二〇の都市が中心ですが、日本語の新聞を八か国、計五二種類発行していたということです。これは資料をご覧いただきたいのですが、このようにたくさんの新聞が発行されています。
これらの言語的な分類を申し上げますと、日本語の新聞が一四紙です、英語の新聞が七紙、中国語が六紙、マレー語が一〇紙、タガログ語が四紙、その他インドネシア、スペイン、セブ語といったように現地語で新聞を発行しております。
そのために内地からたくさんの朝日、毎日、読売、同盟の記者、それから印刷とか製作の工程関係者が現地に行って指導して新聞を発行したということであります。マニラ新聞について申しますと、マニラ新聞の場合、五〇〇〇部ほど発行していましたが、英語のトリビューンが一万五〇〇〇部、スペイン語のラランガデルアが二七〇〇部、それからタリバというタガログ語の新聞が九〇〇〇部です。号外とか多い場合は外国の新聞を一〇万部発行したという状況になっています。マニラ新聞の創刊号というものがお配りした資料に入っています。どういう内容のものを出していたかを報告しますと、創刊号に東条首相が本紙創刊に寄すという祝辞を掲載しています。
●東条の祝辞も掲載
「…・米国文化の悪影響を脱して、比島独自の伝統・民族性の本然に復帰することが先決条件である、かくして比鳥人は真に大東亜共栄圏の一月たることを自覚し、剛健なる精神の下に皇国日本と一体となり、共通の理想達成に邁進すべきである……」という内容です。
また、フィリピンの軍報道部長の談話としまして、「邦人は悉く模範者たれ」という見出しの下に、「マニラ新聞の創刊によって邦人を啓蒙し、一人一人が軍政下において、模範者たらしめて、軍政の普及に邁進すると、諸君の一人一人が日常座臥の間にも東亜における先達として恥ずかしからぬ人物となれ」という内容のものが出ています。創刊号から「フィリピン建設指導者としての日本人」という座談会が計七回行われています。
これは、軍報道部華日本人会会長、それから文化人がたくさん来まして、フィリピンの場合、作家の石坂洋次郎が司会をやっております。どういった内容かといいますと、日本人のとるべき態度について「本当の親切で臨め」というのが第一回のタイトルであります。
二回目が「慎むべき空威張りー弟として指導せよ」という見出しになっています。三回目が「率先範を垂れよ」、四回目が「医療を最上の宣撫」 で、「片寄ったフィリピンの教育」とか、「二世に日本精神」とかの連載があります。
●徹底した検閲
マニラ新聞のような日本語の新聞は在留邦人向けでありまして、在留邦人として大東亜共栄圏内でどういう態度をとるべきかという内容が中心です。ただし、検閲が徹底してやられていますので、日本にまずい内容とか情報は一切載っていないわけです。
例えば、この連載の中で、それでも在留邦人が現地人を殴るといいますか、平手打ちにする。当時はそういうのが、習慣化しておったようですが、この平手打ちに対して現地人が、これはフィリピンだけでなく東南アジア全域でそうだったと思いますが、非常に反発を買っています。
一方、アメリカ人は公衆の面前で人を殴ったりはしないので、その点をフィリピン人は、恩義に感じている。ところが、日本人の場合はすぐ殴ると、こういう態度はいかんなどという憲兵隊長の話が載っています。それ以外も本当の親切で臨めとか、現地人に対して軍人が非常に親切でした点に対して、「現地人が手紙を憲兵隊に出して、非常に感謝しているという」ような内容です。これを
見ましても、大東亜共栄圏の理念の貧困さ、そのものを感じるような、そういった連載であります。
●シンガポールでの記事から
昭南新聞というものがあります。シンガポールで出していた新聞ですが、シンガポールの場合、一九四二年(昭和十七年) 二月一五日にシンガポールが陥落しまして、軍がシンガポール日報という新聞社を接収しています。ここで
軍関係の新聞の発行を継続してやったわけなんですが、シンガポール陥落のほぼ一週間後に昭南新聞という中国語の新聞を創刊します。
現地にあった中国語の新聞を接収して、すぐやらせた日刊紙で四ページものです。創刊した三日後に号外を出しています。これに抗日ゲリラ運動には厳罰で
臨む、銃殺で臨むという声明と同時に、首をさらした写真が載っていまして、みせしめですね。皆さんもご存じのシンガポールでは中国人の虐殺、大量の人が殺されたわけですが、その一番最初の軍司令官の声明と見せしめの写真が載っております。
この時、社説でどのようなことを書いているかと申しますと、「一を殺して百を救う」と題する社説が載っております。内容は、「反日運動を進め、英国や重慶政府と結んで日本の軍政情報を探り、利敵行為に走る場合には当然のごとく銃殺される」というのが載っています。
その前後に、中国人をシンガポールの五か所に一八歳から五〇歳の中国人全部を集めまして、首実検をしまして、その中で面接調査チェックをして、良民証というものを発行します。スパイとか義勇軍とか共産党、前科者、その他敵性、不良分子は銃殺するということで、この犠牲者は六〇〇〇人とか、二万人とか三万人に、のぼったといういろんな説があります。そういうシンガポールの情勢が報道されています。
「昭南日報」に対して、現地のシンガポールの人たちはどういうふうに受け止めていたのかと言いますと、これによって軍政、日本の軍政そのものが掲載されたわけですから、定価は当時、一〇セントなのですが、倍にはね上がりました。現地人は自分の身に振りかかることですから、これを買って、日本軍がどんな決定を下したのか、この新聞を奪うようにして回し読みしていたそうです。
●現地新聞を一掃
他に、ジャワとかスマトラとかでも、同じように新聞が発行されたわけです。例えば、ジャワ新聞の場合は、朝日新聞が委託されています。ジャカルタで一九四二年(昭和十七年)十二月八日に発行されております。
当時、ジャワには大体一〇〇〇くらいの新聞がありまして、その八割がジャカルタに集中しておったのですが、現地の新聞の大部分がつぶされてます。敵性刊行物を一掃するということで、オランダ軍ですが、オランダ語の新聞は
一切禁止になっています。
一九四二年夏から、現地の新聞人から有能の人物を軍がスカウトしまして、日本に友好的な八紙を残して、最終的にそれをジャワ新聞の統括下に置いたわけです。太平洋戦争の一九四三年、四四年と戦局が悪化してきまして、だいぶ事情が違ってきます。台湾の新聞の場合、台湾は日本の植民地であったのですが、地元の六社、有力な六社、台湾日日とか台湾新聞とかが一九四四年(昭和十九年)四月一日に統合されています。全部統合して毎日新聞に委託されまして、台湾新聞社という一八万部の新聞を創刊しています。しかし、台湾はすぐ空襲にやられて、二、三か月後にはすべて焼けてしまったという状況になっています。
●現地新聞の狙いと日的
こういう非常に広範な地域での植民地、占領地新聞の実態、全体像にはなかなか迫れないのが実情です。各地の新聞の断片的な話になってしまいますが、植民地新聞の狙い、目的というものに入っていきたいと思います。 記事の内容、編集方針はどのようなものであったのか。それを大別しますと大体四つに分類できると思います。
まず、大東亜戦争というものは聖戦であると、その目的は「八紘一宇」であるという精神を現地人、ならびに現地の邦人に普及拡大することがまず第一です。
二番目は、そのための中心的存在、これはいうまでもなく天皇であり皇室であるわけですが、天皇と皇室の偉大さを宣伝するというのが第二になっています。これはお配りしたマニラ新開をご覧になりましてもトップで大々的に天皇についての報道があります。
●日本語教育の新聞も発行
三番目は日本軍は決して負けない、強い、皇軍の強さのPRですね。四番目は日本語の普及であります。これは資料として「ニッポンゴ」というものを入れてあります。当時の植民地新聞の中で、日本語を中心的言語にする、アジアの中心的言語にしていくという方針がありまして、現地の英語とか中国語とかの新聞の下にも日本語の欄が、日本語を習得するコラムを設けております。この欄が発展しまして、このような「ニッポンゴ」という新聞が、マニラで週刊新聞として一九四三年(昭和十八年) 二月ころから発行されています。
現地の大人、子供向けの日本語の教育をするための週刊誌です。これをご覧になっても、隣組の話とか、世界で話す日本語とか、アジアのことば日本語とか、
日本語の教育を徹底している。
その一番最後に、日本語の隣組という大東亜共栄圏という日本語、それから隣組の環境をこのようなマンガにして出したりといった内容が載っております (本書二六~二八ページ参照)。
第四の目的は日本語の普及である、皇民化教育の教材としてこういったものを使っておったということです。
アジアを解放していくという理念は最後に出てくるものであります。実質は、最初に申しましたように重要資源を獲得するという、その目的がだんだん発展していって、占
領の目的をよりスムースにするために、このような日本語の教育、それからフィリピンとかビルマに名目的な独立を与えるということをやったわけです。真の目的というものは言うまでもなく聖戦の完遂である、と言えると思います。
そういう目的のプロパガンダの役割を新聞が果していたと言えると思います。
つづ
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