アジア太平洋戦争で日本軍占領地で日本の新聞社は<どのような「戦時外地新聞」を 発行したのか① >
アジア太平洋戦争(1941-1945)で日本軍が占領したアジア
各国で、日本の新聞社は<どのような「戦時外地新聞」を
発行したか>
ー占領地におけるメディア政策について(新聞の役割と
実態メディアの戦争責任)①
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<グロバリゼイションで中国、インドネシア、マレーシア、ベトナム、ミャンマーなどへの日本企業進出が加速する中で、参考にすべき歴史的な事実>」
この内容は一九九四年一〇月一五日午後二時より東京・神田パンセで開かれた、アジア民衆法廷準備会主催の連続(小法廷〉第二回「メディアの戦争責任-占領地・植民地の新聞を中心にでの、陳述者・前坂俊之の証言を、そのまま掲載したものです。(『メディアの戦争責任ー占領地、植民地の新聞を中心にして』樹花社、1995年3月刊 掲載)
前坂です。今回のテーマである「植民地新聞」というのは一番難しいテーマです。私は『戦争と新聞』という、十五年戦争で新聞がどのような役割を果たしたかという本を三年ほど前に出しました。その中でも、大東亜共栄圏で植民地新聞、占領地新聞がどうであったのか、という点は触れていません。マスコミ学会でもほとんどやられていない分野でありまして、アジア民衆法廷準備会の世話人の田中伸尚さんの方からこういったテーマでやってほしいということでしたので、資料も少ない現状ですが、なんとか現在手に入る資料でお話ししたいと思います。
●やっと新聞社自身にメス
今日から新聞週間というのが始まっております。皆さんも新聞をご覧になったと思いますが、来年が太平洋戦争敗戦から五十年ということで、新聞でもやっと新聞の戦争責任の問題について、自分自身にメスを入れています。朝日新聞の場合はすでに始まっていますが、来年から新聞の戦争責任について、どういう報道をしていたのかという問題をやりますし、毎日でも「戦争と新聞」という連載が始まっています。まず、お手元に、今日の話の内容の簡単なレジメをお配りしてあると思いますので、これに従ってやりたいと思います。
●日本の新聞と十五年戦争
前段としまして、日本の新聞と十五年戦争の関わりということを、まずお話したいと思います。
「十五年戦争と新聞」と言った場合、十五年戦争ですから一九三一年(昭和六年)から一九四五年(昭和二十年)ということになります。第一期というのは一九三一年(昭和六年)の満州事変から一九三六年(昭和十一年)の二・二六事件まで。この二・二六事件から一九三七年(昭和十二年)の日中戦争、それから一九四一年(昭和十六年)の太平洋戦争の勃発まで、これが第二期です。第三期というのは太平洋戦争が始まりまして、敗戦までですね。このように三期に分け考えてみたいと思います。
第一期の満州事変前まで、それまでの新聞はですね、言論の自由というものが、戦後のものとは質的に違いますけれども、ある程度は自由がありまして、事実、軍部の批判をやっておった時期があります。満州事変を境にどんどんそういうものがなくなっていく。
第一期で新聞の抵抗の九〇%ぐらいまでが終わってしまう。この満州事変以降、軍部ファシズムはますます強まって、二・二六事件となって暴発する。この二二一六事件によって、朝日新聞が襲撃される。軍部のファシズムなどによって新聞の自由、言論の自由というものが九九%、その首を縛られてしまうのが第二期の段階です。
第三期の太平洋戦争中は全く「新聞の死んだ日」といいますか、国家の宣伝の機関になり下がり、新聞というよりも国家のプロパガンダ、宣伝PRの機関であったと言った方がよいと思います。こういう三期に分けまして考えた方がいいかと思います。
●進んでいない研究
その中で、大東亜共栄圏をスローガンにしたのは第三期にあたります。この段階ではほとんど大本営発表に終始しています。当時、言論統制法規が三〇くらいありまして新聞はがんじがらめになっています。新聞報国というスローガンを掲げて、本来のジャーナリズム、メディアの役割ではなくて、国家の宣伝、プロパガンダの機関であるというように完全に変質しています。そういった中で、今日のテーマである大東亜共栄圏の話に移りますが、この中で、まず日本が占領した南方地域の占領下で、いろんな新聞を発行してまいります。
ただし、その現物の新聞そのものが国会図書館その他にも、ほとんど保存されていない。そのために、現在のマスコミ学会でも研究というものがあまり進んでおりません。
各新聞社の社史でも、この部分の記述が非常に少ない状況でありまして、太平洋戦争、十五年戦争での、各新聞の役割に少しは触れているわけですが、大東亜共栄圏のアジア各地でどのような協力をし、占領地新聞を発行したかの研究が少ない実情です。
●自身の問題としてとらえる
ご存じのように、ドイツと比較しますと、戦争責任の問題その他で戦後、反省、追及そのものが非常に少ない。1992年のことですが、シンガポールのリクワンユー首相が、そうしたドイツと日本の態度を比較しています。
ドイツの場合、第二次世界大戦のナチスのいろんな問題を徹底して調べまして、その情報を公開している、ところが、日本の場合、最近この二、三年からやっと始まったばかりです。そのために、アジア各国の人々の不信感が一向に消えないという発言をしています。日本は本心から変わっていない、のではないかと不信感を持っているわけですね。その点では、このような民衆法廷で、いろんな事実関係を、今が検証できるもう最後の時期ですが、研究して究明していくことは本当に大切なことですし、徹底してやるべきだと考えているわけです。
その中で、メディアの戦争責任、メディアの場合も、メディアそのものが自分自身の戦争の問題、戦争責任の問題をこれまではほとんどとりあげていない。やっとこさ、この五十年目の節目を前にしまして、それが始まったと言えると思います。
大東亜共栄圏について、アジアの解放が目的であったという人があります。大東亜共栄圏という思想そのものが、ドロ縄と言いますか、一九四一年一二月八日の真珠湾攻撃の前に、どうしても、戦争の長期化に備えて、南方の資源を確保しなければならないと、急に出てきたものです。その面では、ドロ縄の感じがしています。
●大東亜共栄圏の目的とは
目的はあくまでも重要な国防物資の確保である。これが最大の狙いでありまして、その他、いろんなものは後から付けた理由です。レジメに書いてありますが、南方占領地の実施要綱というものを軍の方で作成して出しております。この中で書いてあります内容は、まず軍政の狙いは、
一には治安の回復、二番目として、これが一番重要なわけですが、重要国防資源の獲得であると、これが最大の狙いですね。三番目が作戦軍の自活確保である。この三つが目的でありまして、資源を確保し、英米に対する戦争に備える、遂行する。また、中国戦儀を遂行するための資源の確保、そのために大東亜共栄圏が必要であるということであります。その中で、占領地の問題として、占領地域でのメディアの支配だとか、二次的、三次的なものが出てまいります。こういう目的の一環として最後に各国に独立を与え、傀儡政権を作っていくことになります。
●占領後に問題発生
まず、一二月八日に戦争が始まるわけですが、真珠湾と同時にマレー半島にも上陸、その他、東南アジアに.一斉にに催略をするわけです。最初の段階でこれほど成功するといういう見通しはなかったわけですが、結局それがうまくいった。
では、占領をどうするかという問題が出てまいります。最初から、言論政策、メディアをどのように支配していくかは、軍なり国の方で考えていません。新開と放送という、メディアの中で重要な二つのものを、どうやって統制、管理していったのかというと、新聞の方は間接統治をし、それまで各国にあった新聞を接収し、大部分を統廃合していく。
新聞の場合は間接的に統治していく。一方、一番緊急なメディアである放送は、人々に直接話ができる重要な部分ですから、軍が直接管理していく。戦争が始まった初期の段階では、こういう二重の管理をやっているというふうに思います。
例えば、マニラの場合はどのようににやりたかといいますと、占領した段階で間接政治によりまして、フィリピン行政委員会というものを組織します。マニラ市長をその委員長に任命して、フィリピンの現地人を各部の長官に任命する。これを日本の実質上は日本軍の軍政部がこれの業務を指導するという全くの傀儡政府でありますが、そういう間接統治をおこなっています。
●マニラでの政策の実態
その中で言論の政策はマニラの場合は、どういうふうに行ったのか。一九四二年(昭和十七年)一月二日にマニラに入城するわけですが、その段階でマニラ在住の在留邦人の協力を求めて各新聞社を接収する。
それまで、だいたい七〇くらいの新聞がフィリピン全土にあったわけですが、そういったものを全部日本軍の管理下に置く。全部の新聞を直ちに閉鎖するという措置に出ています。その後、軍政府の許可の出た新聞しか再刊させない。結局、フィリピン人が経営するTVTという会社のみを認め、新聞を発行させています。
大東亜共栄圏のたいへん広い地域で各国を占領するわけですが、初期の段階では、このように現地の新聞はすべて廃刊し、その中で選別した少数の現地の新聞ですが、そういうものだけを、再刊を許すという方針でやっております。
マニラ新聞というものは毎日新聞が発行しておりまして、みなさんにお配りした資料にありますが、この復刻にも社内の反対があったわけですが、私が進言して実現したという経緯があります。
ジャワ新聞につきましては、後で直接の関係者である谷さんのお話を伺いできることになっていますので、お聞きしたいと思っておりますが、まず、マニラ新聞について詳しく触れたいと思います。
マニラの場合は現地の新聞を廃刊し、TVTというフィリピン人が経営する新聞のみの発行を許したということであります。
●放送局の接収
次にやったのは放送局の接収です。放送局の方はなんといっても宣撫のためには重要ですから、これは米軍によって破壊されておったようですが、大至急、復旧しまして、現地への放送を再開しております。放送の方は直接管理してやっております。新聞の方は、間接統治の別建てでやっています。
TVTという新聞社は「トリビューン」という英語新聞と、タガログ語の「タリバ」という新聞と、それから「ガルディア」というスペイン語の新聞の三種類を発行していたのですが、日本軍当局はこれを検閲して発行するという形態をとっております。厳重な検閲をやられていまして、どのような内容のものが検閲されたかと言いますと、「反日宣伝をするもの」、「デモクラシーの宣伝」、「枢軸国-ドイツ、イタリアの批判を図るもの」、それから
「戦争を否認するもの」、「フィリピン教育核心の根本方針に反するもの」、「軍政施行上不適当と認めるもの」、こういう記事は一切、検閲の対象となっています。これまであった現地の新聞は七〇紙がつぶされまして、計四紙のみが発行を許可されています。こういう厳しい検閲で日本軍の大東亜共栄圏を遂行していくという目的にかなった内容の報道だけが許されたわけです。
時間の関係で、細かい部分にはあまり入りませんが、結局、日本の占領地新聞のほとんどは太平洋戦争開戦から一周年たった一九四二年(昭和十七年)一二月八日前後に発行されております。
その間、戦争が初期の段階から進行しまして、いかに占領を遂行していくか、現地人を宣撫していくかという問題が重要になってきます。そうしたメディアの重要性を軍部も認識しまして、お配りした紙に書いてありますが、「南方陸軍軍政地域新聞政策要綱」(注①)という新聞政策要綱を一九四二年 (昭和十七年)一〇月二〇日に陸軍でまとめます。
●日本の新聞社が経営
この内容はここに書いておりますが、朝日、毎日、読売、同盟(これは現在の共同通信などの前身で、国策通信会社で同盟通信社という会社がありました)、この同盟と各地方紙
の四社が現地の日本語新聞を経営するということで協力、支援することになります。
つまり、日本の新聞が南方に進出しまして、その新聞の経営権を一切まかせるということです。二番目は地域の分担ですが、朝日新聞がジャワ、毎日がフィリピン、読売がビルマ、同盟がマレー、シンガポール、スマトラ、北ボルネオという感じで、お配りした資料に分担発行した新聞の内容が書いてありますので、これをちょっとご覧ください。(注②)
海軍の方も同じような要綱を出しておりまして、ボルネオー朝日、毎日-セレベス、読売-セラムとなっています。セレベスというのはどこか、これは現在のインドネシアのスラベシでありまして、ボルネオというのもインドネシアのカリマンタン、セラムもインドネシアであります。スマトラもインドネシアでありまして、昭南島というのはシンガポールの名が占領の段階で昭南島となったわけです。また、現地の新聞というものがあります。当然、多民族でいろんな言語の新聞が発行されていたわけですが、現地の新聞も四社が分担した地域で、これを統合し、経営していくということになります。
同盟と他の県紙、これは一三紙が協力、分担してやっています。北海道新聞とか、河北、日輝、東京などというように計一四紙が協力しておりまして、結局、日本の大新聞による占領地新聞が発行されたのは一九四二年(昭和十七年)一二月八日、これは太平洋戦争開戦一周年なわけですが、これから敗戦までの間大体二年九か月、こういった占領地新聞が発行されています。
つづく
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