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『リーダーシップの日本近現代史(17)記事再録/ガラパゴス日本『死に至る病』―国家統治/無責任欠陥体制『大本営』『大本営・政府連絡会議』『最高戦争指導会議』 『御前会議』の内幕

   

   2017/08/16日本敗戦史(46)

      2017/08/16

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 日本敗戦史(46)

「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕

<ガラパゴス日本『死に至る病』―国家統治システムの

支離滅裂、無責任欠陥体制の失敗-

今も続く『オウンゴール官僚国家の悲劇」

 

戦争最高指導の<大本営><大本営・政府連絡会議>「最高戦争指導会議」<御前会議>なるものの驚くべき内幕はー「大元帥の天皇は聞くだけの存在」「陸海軍は協力一致せずバラバラで軍事、作戦内容、

情報を互いに秘匿して総理大臣にも一切知らせず最後まで対立抗争した」

 

日本は大平洋戦争を遂行するうえで、どんな戦争指導体制をとっていたのか。明治憲法では第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあって、作戦用兵の統帥は天皇の大権事項として独立しており、国務行政の範囲外におかれる「統帥権の独立」という制度があった。

これは、作戦用兵には決断を要し、機密保持を要求さるため、プロシア(ドイツ)の制度を学んで、日本の陸海軍はこの制度を取り入れた。「統帥権の独立」は、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長が作戦用兵に関する最高の責任者で、内閣の閣僚、内閣総理大臣といえども統帥事項には干与できない制度であった。統帥に関しては参謀総長、軍令部総長が直接天皇に上奏することができ(帷幄上奏(いあくそうじょう、といわれた)、陸海軍大臣も容喙できないという硬直的な制度である。

このために日本の戦争指導のシステムは、一般国務の最高輔弼責任者の内閣総理大臣と、統師の最高輔翼者である両総長3者で行われていた。しかも、総理大臣は、作戦用兵の内容についてはまったく権限がなく、容喙もできなかった。

(*日清、日露戦争の場合は伊藤博文、陸奥宗光、小村寿太郎らも元老会議で作戦も自由に討議、情報を共有していたのとは大違い)

日本の総理大臣には、いま軍が何をやり、兵をどこに進め、どんな作戦を考えているのかを知ることはできなかったのである。極端にいえば新聞記事ででも知るより仕方がなかったのである。これは満州事変(昭和11年1931年9月)の勃発の第一報の新聞記事をみた西園寺公望(元首相、最後の元老)が「これは関東軍の謀略で引き起こしたもの」と即座に見破った前例もあるが。

結局、このことが、戦争指導の上で致命的な欠点となったのである。

アメリカ大統領・ルーズベルト、英国・チャーチル首相、ドイツ・ヒットラー、ソ連・スターリンなどの作戦行動から国務一般に至るまでー元的に強力に指導できる権限を持った国々と比較すると、日本には戦争遂行の最高指導者はおらず、驚くべき無責任体制、分裂指導体制、非近代国家であったといえよう。

このような統治システムでは、近代の総力戦の戦争指導かできるはずがない。

制度的な欠陥に加えて、陸海軍が終始対立を続けて、一致協力体制が作れず、統合した組織を欠いていたことも日本の致命的な欠陥だった。陸海軍は、作戦においても、補給の面においても軍需物資の配分においても、常に対立した。本来、陸海緊密な協同の下に行われるべき作戦もこのような対立からスムーズに進展しなかったのである。

  • <ケース①東條首相も知らされなかった海軍のミッドウエーの敗北>

井野 碩哉(いの ひろや、東條内閣の農林大臣)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E9%87%8E%E7%A2%A9%E5%93%89

井野の証言である。

―「東條さんは総司令官ですからね。東条さんがいっさいの戦況を把握されたと思ってずっと戦後までおりました。ところが、戦後、戦犯容疑者とし刑務所に放りこまれ、東条さんとも話をした。そのとき東条さんから、「井野君、自分はミッドゥェーの敗戦を知らなかった」といわれたときはびっくりしました。総理大臣がですね、ミッドゥェーの敗戦を知らなくて、戦争に勝てるはずがないじゃないかと、こういう気持ちになったんです。

(略)陸海軍の意思の疎通がないということは聞いておったけど、総理大臣だけには少なくともすべてのことを打ち明けたんじゃないですかっていったところ、いや井野君、そうじゃなかったのが実際申しわけなかったんだと、自分の力も足りなかったんだと。「私はね、もしもミッドウェーの敗戦を知っておったならば、インパールの作戦はやらなかった」というんです。つまり、東条さんはミッドゥェーで負けいくさがあったということは仄聞していても、空母があれだけひどくやられたとか、航空戦力があれだけ決定的にやられたっていうようなことは知らなかったということです」

<証言・私の昭和史➂「太平洋戦争末期」テレビ東京編 学芸書林 1969年>

 

日本の「リーダーシップ」を発揮できない欠陥体制「戦争指導機関」の歴史をのみるとー。

 ◎<大本営>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6

戦時における苦統帥機撃、日清、日露の両戦役のとき設けられたが、日中戦争勃発直後の昭和12(1937)年11月、大本営令が制定され、戦時ばかりでなく事変のときでも設けることができることとなった。

(注) 大本営令

第一条 天皇ノ大應下二最高之統帥部ヲ置キ 之ヲ大本営ト祢ス 大本営ハ戦時又ハ事変二際シ必要二応ジ之ヲ置ク

第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚オ長トシテ帷幄ノ職務二奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ェ 陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス

この規定からも明らかなとおり、大本営は統帥輔翼の最高機関で、国務と統帥との関係は全く並置的で無関係なものとされていた。作戦に当たって陸海両軍の策応協同が示されているが、実際には、両軍を統一した最高指揮官を命ずることはほとんどなく、中央では各作戦のたびごとに陸、海軍とも相異なる指揮系統があることから、協同作戦の実効があがらないことが多かった。

◎<大本営・政府連絡会議>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E6%94%BF%E5%BA%9C%E9%80%A3%E7%B5%A1%E4%BC%9A%E8%AD%B0

統帥権独立に由来する国務と統帥の間の協調をはかるため、昭和12年2月大本営設置とともに設けられたもので、当時、近衛首相らが心を砕いて実現した。ここで政略と戦略の統合運営をはかろうとして、昭和15(一九四〇)年になると毎週定例に開かれた。重要国策は、この連絡会議で決定されていった。法制上はオーソライズされてはいなかったが、実質的な重要国策、戦争指導方針の決定はここでなされたのである。

しかし依然として統帥権独立の壁は厚く、統帥の内容は、首相といえども論議すらできない、知らされなかった。この連絡会議の構成員は、原則として政府側から首相・外相・陸相・海相、統帥部側からは参謀総長・軍令部総長の六名であり、必要に応じて他の閣僚も出席することがあり、また参謀次長・軍令部次長は随時出席した。連絡会議には世話役として幹事をおき、内閣書記官長、陸海軍務局長がこれに当たった。

昭和一九(一九四四)年七月、小磯内閣成立のとき、この連絡会議を「最高戦争指導会議」と改称した。戦争末期には、小磯首相や鈴木首相が大本営の会議に列席することとなったが、統帥権独立の本質はついに変わらず、首相といえども統帥事項には発言権が認められなかった、という「戦争指導できない会議」が続いた。

このメンバーには総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長、外務大臣を以て構成員とする。また参謀次長、軍令部次長は随時本会議に出席し得ることとし、内閣書記官長及び陸海軍両軍務局長の三者を幹事として事務機関とした。

この新制度は、従来の「政府大本営連絡会議」に比べると、少し前進したものではあったが、肝心の作戦のことについての総理の立場は従前とあまり変らなかった。作戦に関しては、総理大臣にも知らせなかったのである、もちろん、外務大臣にも。

一体何たる組織か、コミュニケーションの不在、これでリーダーシップの発揮や情報の統合が図れるわけはない。「最低戦争指導、ただの小田原会議」だったのである。

東条首相兼陸相が昭和19 年2月、参謀総長を兼任したのも、彼の権力欲からという単純な見方より、政治と戦略を一元化した戦争指導をしないとだめという焦りから強行したものとみるべきであろう。

重要国策の決定は、連絡会議でなされていったが、特に重要な国策決定は、御前会議を開いて行われた。御前会議とは文字どおり天皇の御前で行われる会議で、天皇が主催する会議ということではなかった。

議題と結論の案があらかじめ政府・大本営連絡会議で決定されており、それを天皇の御前で討論し、それを天皇のお耳に入れるという趣旨で、天皇は通常発言されないことになっていた。御前会議の出席者は、連絡会議の出席者とほぼ同じであったが、陸海軍統帥部の次長が常に出席することになっていた。また、枢密院議長も、重臣の代表という意味もあって出席者に加えられていた。天皇は意見を述べたり連絡会議の決定事項に拒否権を持つということはないとされていたが、①昭和16(1941)年9月6日の御前会議で発言したことと、➁終戦の断を下された昭和20(1945)8月10日の御前会議で、天皇自ら戦争終結を裁決したというこの2点は例外であった。

<以上、引用文献―証言・私の昭和史➂「太平洋戦争末期」テレビ東京編 学芸書林 1969年

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