前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

近現代史の重要復習問題/記事再録/日本リーダーパワー史(293)ー『凶刃に倒れた日本最強の宰相・原敬の清貧の生活、非業の死、遺書、日記』★『原敬暗殺の真相はー「お前は「腹を切れ」といわれたのを、「原を切れ」と勘違いした凶行だった」』

   

        /日本リーダーパワー史(293

 
 
                     前坂俊之(ジャーナリスト) 
 
 

その清貧の生活ぶり

 
総理となっても芝公園の、手狭な家で通した。別荘は鎌倉市の腰越の古河邸を借りて政務の傍ら往っていた。藤沢まで汽車、それから江ノ電を利用し、車中混み合いの時はつり革につかまって行った。台所のまかない費は総理時代ですら、七百円を越えなかったという。それだから原首相は家のやりくりは、お浅(夫人)に任せてあって心配なしと言われていた。
 
その原夫人の台所の話ではー。
 先ずおしんこのタクアンを作るため、大根のクビとシッポを切って小さなタルに入れて重しをのせる、1ヵ月ばかりしてつけものをタルから出して千切りにして他のつけものとかき合とする。それを客用にも家庭用にもするというやり方で質素そのもの、家庭内の食事がどうであったかよくわかる。
 
 当時の代議士の生活状態は金をもらい集めて代議士となると、①に車、②に二号、③に別荘というのがおきまりと言われていた。中には大臣ともなると、堂々たる邸宅まで新築して、その財源がいろいろ噂されるやからも少くない。これと比べると、原首相の生活ぶりは清貧を貫いていた。
 

原敬暗殺の真相はー「お前は「腹を切れ」といわれたのを、「原を切れ」と勘違いした凶行だった」

 その原敬首相は大正十年(1921)11月4日、東京駅で駅長室を出て、改札口に行こうとした広場で、十九歳の青年により短刀で胸部を突き刺され、暗殺された。数えで66歳。
 
ワシントンポスト紙は「世界平和のため努力を惜しまなかった政治家」と哀悼の意を表し、
世界はその横死を惜しんだ。
 
犯人は中岡艮一。その父は足尾銅山に勤めていたが、艮一が十三歳のころに病死した。祖父はあの坂本竜馬の友人の土佐の志士・中岡慎太郎である。明治維新の志士の孫が、藩閥政権と戦ってきた原敬を暗殺したのは何とも歴史の皮肉であろうか。
テロの動機は、中岡は日ごろから新聞雑誌などで、議会での原首相の倣慢不遜なる態度を批判する反対党の攻撃的記事を読んで共鳴し、「原首相は国賊である」と早合点して凶行におよんだことがわかった。
 
当時、中岡は大塚駅踏み切りの【転轍手】(てんてつしゅ)で、上司の同駅助役とはウマが合い、中岡はいつもこの助役に政治談義をふっかけては日ごろの鬱憤を晴らしていた。
事件の約二カ月前の九月二十八日に、安田財閥創始者の安田善次郎が朝日平吾によって暗殺されたが、中岡は朝日のテロに感激した。
 
 犯行の約一カ月前、中岡が原の政治を批判し、「腹を切る」と大言壮語したのに対し、助役が「今の日本は武士道精神が失われた。昔は男子が責任を果たせなかったら切腹して果てた」と腹を切るまねをした。このとき興奮した中岡は「私は原を斬ってみせます」と言明し、この言葉が暗殺の引き金となった。
 
 検事局はこの助役を殺人教唆として起訴した。ところが、公判では助役は「腹を切れ」といったのは切腹のことで「原首相を切れ」との意味ではないと証言、中岡は「腹を切れ」といわれたのを、「原(首相)を斬れ」と誤解して凶行に及んだことが判明した。このため、大正十一年六月十二日、東京地裁は中岡には殺人で無期懲役(求刑死刑)、助役は無罪(求刑懲役十二年) の判決を下した。
 この公判内容は樫田忠美著『検事物語』(雄渾社、昭和31年刊)で紹介されているが、まるで、落語のような「腹か原か、バラの聞き違い」というとんでもない勘違いが大事件を引き起こし、日本の歴史を変えたのである。
 
 原が凶刃に倒れた時、病床にいた政敵の山県有朋は落涙し、少し眠った後「いま原の殺された夢をみていた。あれは偉い男だった。あのような人物をむざむざ殺されては日本の明日もたまったものではない。心配でならぬ」と語っていた。
 
 確かに、原敬は明治以来の歴代宰相で、その国際的な見識、政治力、リーダーパワーではベストワンといってよい名宰相であった。藩閥政治、軍閥政治と真正面から戦い、成果を挙げつつあった矢先のこの不慮の死で、軍をシビリアンコントロールできる政治
家はいなくなり、以後は昭和の軍国時代の幕開けとなった。原敬が暗殺されなければ、その後の歴史は大いに変わっていたことは間違いない。
 
 原は、貞子夫人とはうまくいかず、別居中に公然と新橋芸者の浅子を家庭に入れていた。浅子夫人は原と好一対の女丈夫で、原が暗殺された時、ひとりで遺骸の傷口をアルコール
で洗い、包帯を巻いてシャツのボタンをかけ、姿を整えた。これを見ていたある者が「牝獅子が牡獅子を介抱する光景を想像した」と前田連山に語った。
浅子夫人は、人々が遺骸を官邸へというのに反対し自宅へと言った。なお官邸へという声に、原は息を引きとったと同時に、もはや官邸に入るべき身分ではない、と言って自宅へ運ばせたという。(前田連山『原敬』より)
 
 
 彼の遺言状はジャーナリスト出身の平民宰相の名にふさわしいものであった。
 
①    葬儀は盛岡にて営むべし。東京にては何の式もなすに及ばず。
②    墓碑には氏名のみ記し、位階勲等を記すに、及ばず。
③    葬儀は、母や兄の例によりなし、それ以上の事をなすべからず。
④    位階勲等の陸奴は辞退すべし。党葬の儀も辞退すべし。我亡きの後生活は質素を
   旨とすべし
⑤    、葬儀通知状は、原貢(みつぎ)一人の名義にて発し、先輩、知友ら連名にするに及ばず。
 
死亡広告の文案まであった。すべてが郵便報知や大阪毎日新聞社長までつとめたジャ
ーナリスト原のスタイルで統一されていた。
 
残された日記と財産は
 
 原は、明治以来の政治家の中で、後世にその政治日記を残すことに最も意を用いた、稀有の政治家であった。明治八年(一八七五)、二十歳のときから、大正十年に暗殺される前日まで記した計八十二冊の日記が残された。
 
「余の日記は数十年後はとにかくなれども当分世間に出すべからず、この日記は長も大切なるものとして永く保存すべし」と遺書の中にも書かれていた。どんなに忙しくても、記憶の新しいうちに日記を休まず書いていた。最高権力者の内幕を情報公開すること、
正確な歴史を後世に残そうとした政治家の責任、ジャーナリスト精神が見てとれる。この日記は二十九年後の昭和二十五年(一九五〇) に、全十冊として出版された。
 
 
残された財産は預金四万七千円、夫人名義の定期預金三千円と意外に少なかった。明治11年(一八七八)に暗殺された大久保利通の遺産が、現金わずか百四十円、借金八千円。所有の不動産はすべて抵当に入っていたという話と共通する。
目白御殿など数百億円の遺産を残した田中角栄、金の延べ棒など百億円近くを隠していた金丸信、金の問題で裁判をなった小沢一郎と比べると月とスッポンである。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など 外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか⑪「韓国人の行動形式は①日本への敵愾心②自文化への過度の自己満足③中国崇拝」(英タイムズ)

「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など  外国紙は「日韓併合への道』をどう …

no image
日本メルトダウン脱出法(594)『任務を負った安倍首相―行先は不明』(英FT紙)『吉と出るか凶と出るか?解散総選挙」

 日本メルトダウン脱出法(594)     ●『任 …

『オンライン講座/野口恒の先駆的なインターネット江戸学講義⑯』★『諸国を遍歴、大仕事をした“歩くノマド”たち(下)』ー90歳まで描き続けた葛飾北斎』★『全国を歩いて学問を修め、数々の発明を成した破天荒の「平賀源内」』★『紀州藩御庭番として各地を遍歴、膨大な著作を残した「畔田翠山」』

    2012/05/30  /日本再 …

no image
日本メルトダウン脱出法(685)「安倍首相がフェニックステレビに出演 中国を持ち上げる言葉」「「ムーアの法則」はまだまだ終わらない!」

 日本メルトダウン脱出法(685) 安倍晋三首相がフェニックステレビに出演 中国 …

no image
日本風狂人伝⑦ アル中、愚痴の小説家・葛西善蔵

日本風狂人伝⑦              2009,6,23   アル …

no image
『ガラパゴス国家・日本終戦史➃ 」再録ー(リーダーシップの欠如で2度あることは3度ある。日本人の 精神的な構造欠陥!」

    1年間連載開始―『ガラパゴス国家・日本終戦史の 歴史類似性の研 …

no image
●<記事再録>巨大地震とリーダーシップ➂3・11から5年目に熊本地震発生―危機突破の歴史リーダーシップに学ぶ➂大津波を私財を投じた大堤防で防いだ濱口悟陵

  <再録>2011年4月11日の日本リーダーパワー史(142) <本 …

no image
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(83)』 朝日新聞の謝罪「新聞の価値の大暴落を招いた罪は計り知れません」

        &n …

no image
「ウクライナ問題」「クリミア問題」は今後どうなるのかー下斗米伸夫・法政大学教授とウクライナのハルチ ェンコ駐日大使が会見動画

「ウクライナ問題」「クリミア問題」は今後どうなるのか 下斗米伸夫・法政大学教授と …

『オンライン60/70歳講座/渋沢栄一(91)の見事な臨終の言葉』★『日中民間外交/水害救援援助に 尽力したが、満州事変の勃発(1931年9月)で国民政府は拒否した』★『最期の言葉/長いあいだお世話になりました。私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度はもう起ち上がれそうもありません。私は死んだあとも皆さまのご事業やご健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも他人行儀にはしないようお願い申します』

百歳学入門(234回) 「近代日本建国の父」渋沢栄一の名言② 1931年(昭和6 …