村田久芳の文芸評論『安岡章太郎論」①「海辺の光景へ、海辺の光景から』
2018/11/23
海辺の光景へ、海辺の光景から
村田久芳
「海辺の光景」が安岡章太郎の小説の代表作であることは衆目の一致するところである。
私は、いくつかの批評を手がかりに、まず「海辺の光景」に至る前景に注目し、「海辺の光景」の私なりの解析と安岡の作品の中で占めるその位置を測り、さらに安岡の小説のその後の展開を追って見たい。
安岡章太郎の小説にはいわゆる一群の落第ものと言われる小説がある。
「宿題」「青葉しげれる」「悪い仲間」、それに「花祭」を加えてもいいかもしれない。他にも直接、少年期、青年期を対象としない作品においても折に触れ自分が劣等生であったことを安岡は表明している。
たしかに安岡の年譜をみると慶應義塾大学を28歳で卒業しており、戦中から戦後への学制の混乱、兵役での何年間かの中断を差し引いてもこれは異様に遅く、何回かの入学試験を失敗し、落第したことがわかる。
平野謙は、新潮文庫「海辺の光景」解説にこの安岡の劣等者意識を取り上げ、そこから安岡文学の本質に論及している。
「太宰治がそうであったように、安岡章太郎にもほとんど先天的に世俗に対する劣弱意識がある」とし、さらに近代日本の私小説家たちの多くが劣敗者たる自覚をもち、その人をやむなく文学者たらしめたという。
「世に、これを私小説家の被害者意識という」が「そういう被害者意識一般から安岡章太郎をわかつものはなにか」が問われなければならぬとした。
そして「太宰治の被害者意識は一種のエリート意識の裏返しにほかならぬが、そういう被害者意識即エリート意識から生ずる誇張や甘えや自虐が安岡章太郎にはたえてない。そこにこの著者のまぎれもない芸術的オリジナリティがある」とし、さらに「いたずらに自負も自卑もしない明晰な自己限定力によって、この著者のかけがえのない文学上のユーモアもよくうまれたのである」と進めている。
さらに平野は、太宰の文学が青春の文学であり、50歳の太宰治、60歳の太宰の文学的ありかたなぞ、到底考えられぬとし、「太宰が、かりに40歳以後まで生きながらえたとしたら、その文学上の転換は極度の困難に面接したにちがいないと、思われる」とする。
続けて「このことは伊藤整のいわゆる『破滅型』の作家一般にいえることである」とし、太宰治、牧野信一、嘉村磯多、葛西善蔵の名をあげる。そしてこれらの作家について「彼らの被害者意識がすべてエリート意識の裏返しにほかならぬ」ものであり、「彼らには、他者、社会の意識がまるで欠落していた」とする。
「他者、社会のパースペクティヴに自我を正当に組み入れるべく、あまりに自我中心的」であり、「正統な意味において、太宰治らには市民意識が欠落したままだった」のに対し、「わが安岡章太郎の劣弱者意識には、最初から芽生えとして他者の観念を含んでいた」と論を進めている。
「落第坊主からノラクロ二等兵にいたる安岡章太郎の前半生はたしかに世俗的な劣敗者だったにちがいない。しかし、その劣敗者の疵口を太宰治のようにひろげてみせたり、すぼめてみせたりしなかったのは、自分にとって落第や失恋がどんなにツライかけがえのない体験だったにせよ、ひろい世間の目からみればいうにたりない、という自己限定的な認識が安岡章太郎には最初からそなわっていたからである。それが安岡章太郎における他者の観念の萌芽にほかならなかった、と私は思う」と結ぶ。
さらに平野は「海辺の光景」について、「もしかりに安岡章太郎が劣弱者意識だけの作家だとしたら、ユニークではあっても、小粒な作家に終ったろう。しかし、倖にして、安岡章太郎は『宿題』や『愛玩』の作家たるにとどまらず『海辺の光景』の作者にまでよく自己を転換させ得たのである。すくなくとも『海辺の光景』は安岡章太郎における青春の文学との袂別(べいべつ)を意味している」と評した。
私は、平野謙が示した安岡の劣等者意識の捉え方に大筋で同意するが、ここでもう少し安岡の劣等者意識について考えてみたい。
安岡章太郎は、父が軍医官であったため高知で出生した後、千葉県内を転々とし、5歳の時に朝鮮の京城に移住し、9歳で青森県弘前市に引き揚げ、その後、東京、青森、また、東京にもどって、青山小学校、二ヶ月後には青南小学校へ転校している。このたび重なる転地、転校は当然のことながら安岡に多くの影響を与えている。
土地ごとに言葉が違っていることや教科書の進み具合が学校によって違っていること、友人ができにくいことなど安岡少年にとって大きな困難が待ち受けていたにちがいない。
例えば言葉について、安岡は「海辺の光景」の中で次のように書きとめる。
「父の任地がかわって、弘前の小学校から東京へ出てきてニヶ月ほどたったころだ。
学校で自分一人が異った声で話しているような気がしはじめた。気がつくと、彼が話し出すと皆だまってしまって、その話し声に耳をかたむけているのだ。
彼は皆の話し声をマネするようにつとめたが、そのため話している間じゅう自分の口の中に舌が一枚余計に入っているようなことを意識しはじめた。
彼が嘘をついて学校をやすんだりしはじめたのは、そのころからだ。、、、、、、 それにしても家と学校とで言葉をつかい分けることは何と重い負担だったろう」と、その頃、バイリンガル的状況を強いられていたことがわかる。
また、同様に「宿題」に「東京へきても僕は読本をよむのは得意だった。僕が読みだすと、まわりが変にシーンとなる。しかし、それが僕の四国弁と東北弁と植民地言葉のごっちゃになったナマリのせいだとは知らなかった」と書き、自己と他者のちがいをいやおうも無く思い知らされる。
そんな東京の小学校でのさまざまな出来事の中で、安岡にとって決定的といっていい事件が起きる。そのことを磯田光一は、「安岡章太郎論」の中で次のように述べる。少々長いが重要な論点がいくつか含まれているのでまとめて引用する。
「私小説『顔の責任』の伝えるところによると、そこの学校に唱歌を教える美貌の女教師がいたという。田舎で育って東京の女を見たことが無かった安岡にとって、彼女を最初に見たときの印象は、この世に『こんな美しい人がいるだろうか』ということであった。
いや、教師としても親しみ易いところのあった彼女の周囲では、休み時間になると、『同級のものがよく彼女の躯にぶらさがったり、手を引いたりして遊んでいた』のである。
ところがある日、今までに一度もそういうことをしたことのなかった安岡が、『親しさというものは誰にも平等に与えられて然るべきだ』と信じて、はじめて他の子供と同じように、その女教師の腕にぶらさがっていったとき、彼女はとつぜん安岡の腕をふり払ったのである。『田舎の子供はちがうわね。』これが彼女が安岡に与えた唯一の言葉であった。
―――その時から三十余年を経た今でも、安岡はその時の言葉を忘れることができないという。
落第生のほまれ高かった安岡にしてみれば、教師に叱られることには慣れきっていた。しかし、彼が教師からうけたどのような叱責よりも『あの女教師が冷たく私を見下ろしたときの視線の方が、ずっと深く心のそこまで突き刺していた』と言うのである。
私はこの一事件に、安岡がのちに人生からうける迫害の、ほとんど原型的なものを感じてしまう。『こんなつまらないことを生涯おぼえていなければならないとしたら、私もずいぶんつまらない性分であると思う』と言いながらも、彼は、なお『やっぱり心の痛手をうけた』と考えずにはいられないのである。
そこには疑うべくもなく都会の子供にたいする田舎の子供の劣等感があった。東京の子供の生活に参与しようと願っていた安岡にとって、その参与の権利を剥奪されたということは、言いかえれば生きる権利をうばわれたのと同じであった。おそらく当時の安岡の目には、彼の郷里が、ひとつの美しい幻影として思い出されていたにちがいない。
彼に迫害を加える東京の生活を憎んで、美しい郷里の幻影に逃避の場を求めること――それがこういう場合に多くの人々の辿る常道であろう。孤独の城壁を築いて他者を固く拒みながら、自我の倨傲の温存をはかること、それがかっての私小説家の辿った行路であった。
しかし、すでに五つ六つの小学校を転々と動いていた安岡にとって、もはや信じるに足る郷里の幻影はありえなかった。彼は精神的には孤児であり、自ら生を開拓しなければならない宿なしの孤児であった。女教師から侮辱をうけたとき、彼は自己の劣等性を恥じたかもしれぬ。しかしそれと同時に劣等性を恥じることをも恥じたのだ。
少なくとも彼は自分の劣等性を逆手にとって、そこに居直ることだけは慎んだのである。彼は彼を侮蔑した女教師の言葉を、一度は正義に反したものとうけとったであろう。しかしそれと同時に安岡はその女教師の言葉の正しさをも承認せずにはいられなかったのである」と。磯田の安岡論の要は、ほとんどここに提示されている。
「親しさというものは誰にも平等に与えられて然るべきだ」という当たりまえのセオリーを信じた安岡が世の中は原理どおり動いているのではないこと、理想のとおり動いているなどと安易に錯覚しないよう肝に命じた事は想像に難くない。「テーブル・スピーチ」の中で交通事故で死んだ友を回想して「あいつは、そこが横断歩道であれば、自動車は必ず止まって自分が渡りおわるまで待っているものと、アタマから信じきっていた。あいつはつまり、そういう市民道徳で殺されたのか、、、、、」と主人公に言わせている。
また、安岡は、自分が劣等生であることはじゅうじゅう意識していた。しかし、女教師から「田舎の子供はちがうわね」という侮辱的で差別的な言葉を投げつけられた時、確かに強烈な劣等感を感じるとともに、このようなことを平気で言う「他者」がいるということを身にしみて思い知らされたのではないか。そして安岡の場合、磯田のいうように慰めてくれる郷里も見当たらなかった。つまり、退路は断たれていたのである。
思いもよらないことや考えもしないことを発する他者でこの社会は成り立っているのだということを認めざるを得なかったのだと私は思う。
それ以後の安岡の文学上の処世について、平野は「その劣敗者の疵口を太宰治のようにひろげてみせたり、すぼめてみせたりしなかった」といい、磯田は「自分の劣等性を逆手にとって、そこに居直ることだけは慎んだのである」と書いた。
両者はほとんど同義の論理展開をおこなっているが、安岡はそういった方策を採ることなく、自分はさまざまな人間で成り立っている社会の一員であるという視点を獲得した。その視点に達した後、安岡は依然として劣等感は持っても被害者意識で自己を防御する方向へは向かわなかった。
その事件から劣等性を恥じることをも恥じるナイーブな心を持つ少年は、「他者」の観念を得たが、同時に彼にとってそこから先、社会はそう遠くないところにあった。
このあたりの自己の意識の変化を安岡自身はどう捉えているのであろうか。
安岡は遠藤周作との対談で遠藤に中学時代どんな本を読んでいたか聞かれ、「中学時代?僕は小学校のときにおとなになってしまったんですよ、精神的に」と答え、遠藤を驚かせている
。全く脈絡の無い質問にとっさにこのような答えが出てくるところを見ると、自己韜晦も含まれていると思うが、安岡の内部では小学生の頃から「他者」の存在を認識し始めていたことがわかる。このような苦い事件をいくつか体験し、徐々に社会の中で生き抜く知恵を得た安岡は自己を若くして「大人」と位置づけるようになっていったのである。
平野謙は「自己限定的な認識が安岡章太郎には最初からそなわっていた」と説明した。私は「最初からそなわっていた」のではなく、転地や度重なる転校でおきるいろいろな不快な、どうしようもなくつらい多くの体験をとおして安岡は平野の言う自己限定的とも言うべき生きる術を身につけ、他者の存在をみとめる「大人」に変容していったと考える。
そして、さらに他者の存在を深く捉えるようになったのは、安岡が中学を卒業し高等学校の受験のため予備校に入り、自分と同様な何人かの「悪い仲間」と出会ってからである。古山高麗雄や倉田博光は安岡と同じく落第生であったが、たやすく時代に迎合することを拒み、高踏的で文学指向の強い連中であった。
この出会いは、「精神的な孤児であり、自ら生を開拓しなければならない宿無しの孤児」がようやくみつけた宿であったかもしれない。彼等はことさら「まじめ」であることや「優等生」であること避け、デイレッタントで、時に江戸趣味にはしり、時に悪所に通った。
彼らは戦時体制へと急ぐ国家に身を寄せ声高に叫んで正論を誇示する人々にイカガワシサを感じ距離を置こうとした。そのことは結果としてその距離の分だけ時代の風潮に反抗することにつながった。
安岡は冷たい他者ではない自らと傾向を同じくする仲間に出会い、他者の認識に幅を持たせることとなった。こうして他者の存在を取り込んでいくとともに他者の中の自己という枠組みの概念を自己の意識の中につくって行った。
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