○わが愛する名作「人生劇場」を書いた 豪放磊落<男の中の男>「尾崎士郎」記念館(大田区山王町1-36)を訪問
○わが愛する名作「人生劇場」を書いた
豪放磊落<男の中の男>作家・「尾崎士郎」
記念館(大田区山王町1-36)を訪れる
(おざき・しろう/一八九八-一九六四)小説家。愛知県生まれ。
義理と人情と仁侠の青春小説『人生劇場』の作者。旧制中学のころから政治に興味をもつ。早稲田大学に入学するが、学長人選問題に端を発した「早稲田騒動」の中心人物として除名。「時事新報」の懸賞小説に入選してからは創作に専念し、『河鹿』などの短編を発表。三三年から「都新聞」に連載した『人生劇場』は、川端康成の絶賛を受けベストセラーとなる。大正十一年に宇野千代と結婚。戦後は『天皇機関説』『大逆事件』などの問題作を発表。『人生劇場』は「青春編」「愛慾編」など、五九年まで続編七編が書き続けられた。相撲が大好きで横綱蕃議委員もつとめた。
●「日本風狂人伝⑩ 尾崎士郎-「人生劇場」を書いた男の中の男
http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=190
『人生劇場』を書いた尾崎士郎は酒豪で、ひとたび酔えば、明治の書生のように志を語り、詩を吟唱した。尾崎は生来のドモリで、緊張すると一層ヒドくなった。が、酒が入ると、それは全く姿を消して雄弁となった。彼が酒を片時も手離さなかったのはこのせいであった。
尾崎は気前がよく、酔うと何でも人に与えた。ある時、尾崎は酔って友人に、自分の「早稲田大学卒業証書」をほうびとして与えた。
「見ろ、大隈重信が署名しているだろう。字は他の人が書いたものだ。大隈は悪筆だから、一生書かなかった」と得々として説明した。
その後、この友人宅にフラッと現れた尾崎は、自分の証書がりっぱに表装して、飾ってあるのに驚いて、「これどうしたんだ。俺のじゃないか」
「ハイ、先日、先生からいただいたものです」
「オイ、俺はやった覚えはないぞ。いくら俺がものをやるクセがあるとはいえ、手前の免状をやるほどモウロクはせん。返せ」と即座に取り返した。
ところが、その後、また、この友人が尾崎を訪ねると、
「オイ、この前の免状は貴様が持っていてくれ。俺のところにあると、また、人にやってしまうかも知れん。お前のところにあれば、いつでも見られて安心だ」
尾崎が『人生劇場』を「都新聞」に掲載したのは一九三三(昭和八)年三月のことである。「人生劇場・青春編」は八月で終わったが、宿屋に泊り込みで書き続けたので、新聞社から入った原稿料は三十円しかなかった。
金のなかった尾崎は、母校の岡崎中学から講演を頼まれたが、旅行用のカバンがなく、三越でボール紙のトランクに見せかけたものを、五円で買って行った。
講演後、久しぶりに旧友四、五人と一緒に飲んだが、雨がふり出した。車に乗って、尾崎のトランクを大事に抱えていた友人が急に「おかしい」と言い出した。トランクが溶けはじめたのである。作家生活のはなやかさを議論していた友人たちも、これを見て口をきくものはなくなった。帰りの駅についた時は、四角なトランクが丸くなっていた。
昭和十四年五月、尾崎は大鹿卓らと一緒に、尊敬する幸田露伴を訪ねた。露伴から、「何を今書かれているのか」とたずねられた尾崎は「ボー、ボクは、いー、いま、関ケ原合戦をかーい、てるんです」と膝を正して、ドモリながら答えて、一時間余り話がはずんだ。
露伴は帰り際に、戦記の写本二冊を尾崎に贈った。
「先生から宝物をもらった」と大感激した尾崎は席をかえて深酔して、この大事な本を忘れてしまった。大鹿が見つけて預かっていたが、翌日、酔がさめて気がついた尾崎は青くなって「弱った。気づかなかったか」と大騒ぎして探し回った。
このように、気前よく何でも人にくれてやるのだ。ある時、尾崎が伊豆・伊東にいると、作家・今日出海が訪ねてきた。尾崎は大変、歓迎した。
部屋の床の間に甲胃が飾ってあったので、「尾崎らしい」と今がほめると「君はフィリピンでよく働いた。論功行賞せなけりゃならんと考えていたので、これをやる」と尾崎はいきなり言いだした。
「大きなものなので、もって帰ることも出来ないし飾っておく場所もない」と今は何度も固辞したが、頑として聞き入れない。
そのうち二人とも大いに酔っぱらって、尾崎も忘れたようなので、今は安心して鎌倉に帰った。ところが、数日して日通から大きな荷物が届いた。この立派な甲胃だった。尾崎は酔っての言葉でも約束は違えなかったのである。
普段はドテラに細帯というスタイルで、おでこにはエジソンバンド、首に白いほうたいを巻いて原稿を書き、食事をして酒を飲んでいた。
●「日本風狂人伝⑩ 尾崎士郎-「人生劇場」を書いた男の中の男
http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=190
●百歳学入門(55)―作家・宇野千代(98歳)『生きて行く私』長寿10訓
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(561)イチローは現代の「宮本武蔵」なり「鍛錬を怠るな<鍛とは千日、錬とは一万日(30年)の稽古なり>
日本リーダーパワー史(561) イチロー(41歳)は現代の「宮本武 …
-
-
日本リーダーパワー史(625) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑲『清国海軍は「砲艦外交」(Gunboat Policy)の威圧デモを 繰り返し日本は震え上がる。 尖閣、南沙諸島をめぐる中国軍の行動パターンは 昔も今も変わらない。
日本リーダーパワー史(625) 『清国海軍は「砲艦外交」(Gunboat P …
-
-
●『三井三池炭鉱炭塵爆発から60年』敗れざる者の豊かさ──「三池」を抱きしめた「半未亡人」たち」ジャーナリスト 池田 知隆著<『現代の理論36号』(23年11月刊)>
戦後最悪の炭鉱事故・労災事故とされる三井三池炭鉱の炭塵爆発。死者458名、一酸化 …
-
-
日本一の「徳川時代の日本史」授業⑧福沢諭吉の語る「中津藩での差別構造の実態」(「旧藩情」)を読み解く⑧
日本一の「徳川時代の日本史」授業 ⑧ 「門閥制度は親の …
-
-
日本リーダーパワー史(478)日本最強の参謀は誰か-「杉山茂丸」の研究④「人跡絶えた谷間の一本杉のような男だ』(桂太郎評)
日本リーダーパワー史(478) <日本最強の参謀は誰か& …
-
-
日本リーダーパワー史(182)『大アジア時代の先駆者・犬養木堂②』ロシアに圧迫されたイスラム教徒も支援―
日本リーダーパワー史(182) <百年前にアジア諸民族の師父と尊 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代興亡史』(231)/2020年は終戦75年目ー『昭和史の大誤算を振り返る』★「国を焦土と化しても」と国際連盟脱退した「昭和最大の外交大失敗」を冒した荒木陸相、森恪、松岡洋右のコンビと、それを一致協力して支持した新聞の敗北』★『日本は諸外国との間で最も重要な橋を自ら焼き捨すてた」とグルー米駐日大使は批判した』
2015/08/17   …
-
-
『Z世代のためのウクライナ戦争と日露戦争の共通性の研究』★『国難がいよいよ切迫、万一わが軍に勝利あらざれば、重大なるご覚悟が必要です。ロシアの侵圧を許せば、わが国の存立も重大な危機に陥る』
『オンライン講座/日本興亡史の研究 ⑭ 』021/09/01/記事転載2017/ …
