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日本リーダーパワー史(634)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(27) 『川上操六参謀次長の田村怡与造の抜擢②<田村は川上の懐刀として、日清戦争時に『野外要務令』や 『兵站勤務令』『戦時動員」などを作った>

      2016/01/06

 

日本リーダーパワー史(634)

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(27)  

 『川上操六参謀次長の田村怡与造の抜擢②

<田村は川上の懐刀として、日清戦争時に『野外要務令』や

『兵站勤務令』『戦時動員」などを作った

        前坂俊之(ジャーナリスト)

 

田村 怡与造(たむら いよぞう)は明治16年4月からドイツに留学、ベルリン陸軍大学校で学んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%80%A1%E4%B8%8E%E9%80%A0

その軍事研究の優秀さが認められ、2年の留学期間を延長され、川上操六とともに実戦訓練、モルトケ、クラウゼビッツの研究に没頭した。川上のドイツ滞在日記には 田村との面会、会食、行動が多数記録されている。実に5年の留学を経て、明治21年6月に帰国、監軍部(後の教育総監部)の参謀となり、明治22年11月には参謀本部第一第一局員になり、歩兵少佐に昇進した。ドイツで学んだ軍制の日本への導入に努め、『野外要務令』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E6%88%A6%E8%A6%81%E5%8B%99%E4%BB%A4

『兵站勤務令』の策定や、陸軍演習の作戦計画を担当した。

川上は田村を重宝し、自らの後継者と任じ、『野外要務令』や『兵站勤務令』、日清戦争が秒読みとなると、兵力動員計画を直ちに作れと命令し、田村はその頭脳を傾けて、徹夜で詳細、ち密な戦時計画、動員令を仕上げて、川上に提出した。いわば、川上の懐刀であり、軍師川上の第一の参謀が田村であった。

明治27年の日清戦争では初めは大本営兵站総監部参謀で兵站を担当し、8月には歩兵中佐に昇進、前線での作戦指導に出された。第一軍司令官・山児有朋大将の下で、参謀副長となった。この時の参謀長は小川又次少将である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%8F%88%E6%AC%A1

第一軍が朝鮮に進軍した時、小川参謀長と田村参謀とが、作戦計画をめぐって衝突して大喧嘩となった。田村参謀に分はあったが、憤然とした田村はいきなり朝鮮から引返して広島大本営に飛び込み、時の参謀本部次長川上に直談判した。正しく軍規上の大問題であった。

しかし、田村の才能を認めていた川上は何とか山県大将との間を丸く収めて、田村中佐を連隊長に転補させた。田村は大先輩の山県大将にでも、川上中将にでも、平気でアグラかいて論議して少しも臆しなかった。

次のようなエピソードも伝えられている。

田村が参謀本部総務部長のとき、時の陸軍省軍事課長井口省吾大佐(のちの大将)と、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8F%A3%E7%9C%81%E5%90%BE

本部中に響き渡るようなどなり声での大議論があった。

「貴様は大佐の分際で、少将にタテつくとは何たることであるか。」

「何をいうのですか、私は軍事課長という職責でものをいっているのです」

という調子で二人のどなり声は庁内に響き渡り、延々と何時間も続き、議論は消灯時間になってはじめて止んだという。

この後の田村、井口の関係はどうなったのか。議論の数日後、田村少将は参謀本部次長になり、後任の総務部長に抜擢したのは、この井口大佐だったのである。

明治の軍人たちの自説を曲げない信念の強さ、徹底した討論、激論の末の適切な決断力が如実に示されている。これが『坂の上の雲』をつかんだ明治の先輩のすごさである。

以下は『小川又次』についての余談である。

川上が晩年まで自己の子分として信頼していたものは大生定孝(福井県出身、陸軍大佐. 参謀本部総務部長.兼大本営副官兼管理部長など)http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/4301

伊地知幸介、田村怡与造、福島安正の4人であった。これに明治22年以降には小川又次が加わる。

小川は当時局長として参謀本部にあったが、システマチックなの頭脳を有し、見識に富み、その理論の組み立ては堂々たるものがあり、俄然として頭角を現した。さすがのメッケルも彼には一目置いたほどだったので、川上の信任を得て縦横の手腕を振るい、部内では彼に対抗しうるものはいなかった。

当時の参謀本部の各局長、各師団の参謀長を通じて小川と互角に太刀打できる力量をもったものは唯1人、高島信茂(仙台鎮台参謀長、陸軍士官学校次長、陸軍大佐)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E4%BF%A1%E8%8C%82

だけだったが、

三浦悟楼系https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

http://www6.plala.or.jp/imail/1112.html

物なので、三浦の学習院長になると、彼も引っ張られて同院に転じて、その後の参謀本部は小川の一人舞台の観があった。

もし、小川が順調にすすみ、川上が参謀総長に昇任すれば、その次長の椅子にすわってもよかったが、小川が余りに弁論をこのんで他と衝突することがおおかったのと、金銭的な問題もあった実現しなかったと言われる。

<参考文献  安井 滄溟『陸海軍人物史論』(博文館、大正5年)、日本図書センター復刻>

川上参謀次長は敵前視察旅行をよく行なった。

明治29年9月から、明石元二郎(陸軍大将、のちの台湾総督)を連れて、台湾、広東、トンキン、安南(ベトナム)と4ヵ月間にわたって視察。翌30年には、後継者の田村怡与造を連れて、ウラジオストックに入って花田仲之助らと会い、東シベリアから黒竜江を回り、情報網の構築と人材育成に当たった。このとき、田村は商人に化けて上陸し、ウラジオストック要塞を漁師に身を扮して密かに探った。

明治31年1月、川上は陸軍大将に昇進。それまでは皇族のみの参謀総長の職につき、文字どおり日本陸軍の最高頭脳となった。ここで対惑戦の戦略立案に智慧をしぼり、組織盤備に全力を挙げている矢先、燃え尽きた。32年末から糖尿病が高じており、これに心労が重なり、翌32年5月に50歳の若さで急死した。

田村 怡与造(たむら いよぞう)こそ川上の知恵袋

しかし、後継者は川上が決めていた田村 怡与造にすんなり決まり、参謀本部体制が揺らぐことはなかった。田村は、明治16年から22年まで5年間にわたってドイツ陸軍に滞在し、クラウゼヴィツツに最も精通した参謀だった。その戦術を応用し、日露戦争に適用したのは、彼の功績である。

明治23年3月に、明治天皇の統監のもと、愛知県半田町で陸軍大演習を行なったが、メッケルに代わってはじめて川上参謀次長が指揮し、見事に成功させたが、この計画を立案したのが田村だった。このとき、はじめて陸軍はメッケルの指導から完全に独立できたのである。

メッケルが陸軍大学で講義を始めたころ、日本将校に兵砧の知識は皆無であった。渡河とかする際に、鉄の船を並べて橋を作る戦術なども全く知らない。第一回の参謀旅行の試験では、「ドプロク渡河」との珍答案があった。「兵にドプロクをのませて渡河させます」との答えで、メッケルも仰天するはどの低水準だった。

三、四年前は、陸大の秀才将校たちがこのレベルだったのが、今やクラウゼヴィッツをマスターして近代戦を戦える軍隊に育ったのである。この大演習の教訓として、明治24四年、田村は、川上の指示でドイツ陸軍を参考にして、陣中勤務、演習事項を網羅した『野外要務令』を完成した。日清戦争の勝因の一つは、この『野外要務令』によるものといわれている。

日清戦争直前に、閣議の了解を取りつけ、一個旅団を混成旅団に急編成したときも、川上の指示で田村が一晩で描き上げた。川上が参謀総長に任じられる前年には、田村はドイツから帰国を命じられ、参謀本部第二部長に座り、師団の増設、新設、改変に取り組んだ。日清戦争での日本軍の最大の弱点は弾薬、食糧などの兵輿ロジスティックス(物流、輸送)であった。このため、田村はドイツ陸軍の『後方勤務令』を翻訳して日本式に改めたものを刊行するなど、川上戦略の中枢を担ったのである。

川上が急逝すると、参謀総長に座った大山巌は、薩長藩閥出身でない田村の昇格に反対する周囲の声を抑えて、田村を抜擢した。田村も休日返上、参謀本部に詰めっきりで、対ロシア戦略に没頭する。

このとき、参謀本部で田村の両腕となったのが、田中義一、佐藤鋼次郎両少佐であった。

田中は、日清戦争後のロシアに派遣され、上流階級に出入りするため社交ダンスを習得して情報収集に当たり、ロシア社会の矛盾と腐敗、軍隊内の将校と兵士との対立を見抜いた。一方、佐藤はドイツ留学組で、攻城砲を研究し、旅順要塞攻撃の戦術を錬った。佐藤が調べてみると、それまでの 『歩兵操典』はドイツ操典を翻訳したものだが、誤訳だらけで、最新式の攻城砲の記載もない。そこで田村と共同で新版を出した。

しかし、田村もまた無理がたたって、明治36年10月1日に、川上とほぼ同じ50歳で逝した。亡くなる10日前、田村は、「夢の中に西郷さんが現われて、しっかり頼むよと手を固く握られたと思うと眼が覚めた」と部下に語っていた。

こうして、日露戦争を前に2代続けて参謀本部の中心人物が亡くなるという一大危機に見舞われた。ロシア側は手をたたいて喜んだ。政府、軍、国民ははたして後任の参謀総長にはだれが座るのか 祈るような気持ちで見守った。

このとき、内務大臣・児玉源太郎中将が自ら、「『蝦善人』(大山巌のニックネーム) のためにやってやろう」と二階級降下して、田村の後釜を申し出た。それから4ヵ月後、日露戦争の勃発である。

 

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