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「日本犯罪図鑑―犯罪とはなにか」前坂俊之著、東京法経学院出版1985年 – 第1章 国家と司法による殺人 

   

       「日本犯罪図鑑―犯罪とはなにか」前坂俊之著、東京法経学院出版1985年
 
 

第1章 国家と司法による殺人 (1)誤判と死刑 (2)裁判官と死刑 (3)法務大臣と死刑(4)戦後有名死刑囚の最期

                                                                              

第1章   国家と司法による殺人
 
(1)誤判と死刑-免田事件の教訓
 
七十回も〝処刑″された免田栄さん
わが国で初めての死刑確定囚の再審判決で、免田栄さんに熊本地裁八代支部が無罪判決を下したのは昭和五八年七月一五日のことであった。三十四年もの間、絞首台の下で「今日か」「明日か」と処刑の恐怖におびえてきた免田さんは、やっといまわしい死刑確定囚という立場から解放され、自由の身となった。明治以来・わが国の裁判史上初めてのことで、世界の裁判史上でも稀なケースであろう。一九八三年(昭和五八)はロッキード事件で田中角栄元首相に懲役四年の判決が下った年であるとともに、免田さんに無罪判決が下った年としても後世の人々に末永く記憶されるであろう。
 判決の翌日、免田さんは記者会見を行なった。絞首台から奇跡的に生還した免田さんが一体何をしゃべり、世間に訴えるか、法曹関係者ばかりでなく一般からも注目された。
 免田さんは自由となった喜びを淡々と語った。その話の中で私には二つの点が特に心にしみた。
「三十四年間で一番苦しかったことは……」との質問に対して、免田さんはこう答えた。
「死刑囚の刑の執行だ。七十人ぐらいが逝きましたから。いつか自分もと思った」(『熊本日日新聞』七月一六日付夕刊)
 また、「全国の冤罪に苦しむ人に何か」と問われて、「難しい問題だが、死刑は廃止してはしい。死刑を執行される人の別れの時の言葉を聞いていますから。機会があれば死刑廃止運動をやってみたい」と答えた。
 免田さんが死刑廃止を訴えることを、うかつながら私は予想していなかった。一瞬驚き、そして感動した。
 免田さんの言葉は自然であり、十分納得できた。まかり間違えば、免田さん自身が断頭台の露と消える極限の体験をしただけに、冤罪や誤判での警察官、検事、裁判官に対する怒り以上に、その結果としての死刑が圧倒的な恐怖と逃げられぬ運命として迫ってくる。
 同じ房内にいる仲間が次々に引き出され処刑される。あのドストエフスキーは銃殺される寸前に処刑をまぬがれた事実が重い原体験となって終生、彼を悩まし続けた。免田さんが七十人もの〝最後の瞬間″を殺される側から見続けてきたことは実質上、七十回処刑されたのと同じなのである。処刑の恐怖、死刑の残酷さは死そのものにあるのではない。とぎすまされた意識が処刑までの一秒一秒を克明に記憶し、生への執着と葛藤を超えて絶対的な死へおもむくその〝過程〟にあるのである。
その意味では免田さんは〝絞首台から生還した男″ではない。本当は七十回も処刑された男なのである。最も残酷なドラマを無理やり見せられ続けた人なのである。その想像を絶する残酷さを唯一知っている免田さんの最も訴えたいことが死刑廃止であることは、自明ともいえる。免田さんの発言から、私は死刑という制度のおぞましさを考えずにはおれなかった。
免田さんの言葉でもう一つ考えさせられたのは、死刑制度、その帰結としての日本の司法制度の立ち遅れである。すでに西欧の主要先進国では死刑廃止国が大半で、アムネスティ・インターナショナルも、先進国でわが国を唯一の死刑執行多発国として告発しており、つい最近、『日本の死刑』というレポートをまとめて公表した。
そうした死刑存置国であることと、冤罪・誤判が続発するという捜査当局の人権無視、刑事裁判の歪みと後進性はまさしくセットになっているのだが、その点を免田さんは「生意気かも知れませんが、司法の社会は古いんです。精神構造は外国より二世紀遅れています。裁判も雑だし、警察の被疑者の扱いも雑です…」(『読売新聞』七月十六日付夕刊)とズバリと指摘した。
 二世紀遅れている古い司法の体質が冤罪を生み出し、その結果、温存されている旧制度の遺物である死刑制度にょって免田さんのような悲劇が生まれたことを、簡潔な言葉ながら批判したのである。
 こうした免田さんの悲劇を二度とくり返さないためにも、司法関係者は徹底して反省し、その対策を考えなければならない。又、裁かれる側の市民は何をなすべきか、をも考える必要があろう。その一つの方法を私なりに提示したい。
 
 
○〝時数″としての誤判・誤審の発掘
 さて、免田さんの生還を機に、わが国でもやっと半世紀遅れて死刑と誤判が論議の対象になろうとしている。その死刑をめぐる議論の争点は次の三つに要約される。
一つは、死刑を廃止すると兇悪犯罪が増えるのではないか-という死刑の抑止力についての問題である。
 第二は、教育刑か応報刑か。教育刑が主流の中で、死刑囚だけが教育不可能で社会復帰させてはならず、まっ殺する以外にないというわけだが、その是非。
 三番目が死刑と誤判の問題で、誤って無実の人を処刑する可能性をめぐってである。
 以上の三つの争点の中で、今回は誤判の死刑の恐怖が現実のものとなったのである。
 免田事件だけではない。すでに財田川事件、松山事件と死刑再審事件が相次いで無罪判決となった。さらに島田事件、名張毒ブドウ酒事件…など十件近い免田事件と酷似した死刑再審事件があとに続いているのである。刑事裁判であってはならないとされている「誤った死刑」やその疑惑の濃い事件が目白押しなのである。
 免田さんはこの五八年一〇月七日、東京の日本教育会館で開かれた拘禁二法反対の集会で弁護士の質問に答えて、次のような事実を語った。「七十人近くを見送った中で、特に印象に残っているものは」との質問にである。
免田さんは静かな口調でこう語った。
「一審で私に死刑判決を下された裁判官殿が高裁に栄転きれまして、その方が何人か覧刑判決を出しておられるんですが、この死刑囚と私は二年間ほど一緒にいまして。その人が死刑執行の朝、私に殺人はやっていないのに、強盗殺人で死刑になるのは残念でたまらないといって、私に遺言して執行台に上られた方が二人おられます」
免田さんは七十人近く見送った死刑囚から数多くの遺言を受けたが、裁判や再審への不満もその中にたくさんあったと次のようにも述べた。
「冤罪を訴えておられる人も多くいましたが、端的に言って多かったのは殺人はしているが、強盗はしていないとか、殺人ではなくて傷害が殺人になったとか、そんな事件が多いですね」
こうした免田さんの断片的な話からうかがわれることは、冤罪や誤判の結果、誤った処刑も決して皆無ではないのでは…という恐しい疑惑である。一旦、死刑を執行されたあとでは、事件の解明も不可能だし、真相もヤミに葬られてしまう。
裁判についてはみだりに批判は行なうべきものでないことは承知しているが、市民にとって死刑の誤判は一番気になるところである。免田事件をきっかけに、今こそこうした死刑誤判事件の全面的洗い直しをやる必要があるのではないだろうか。
免田事件を契機に、法務省なり最高裁が十分反省し真剣にその対策を考えるならば、死刑や誤判事件の全調査を行なうべきだろう。また国ができないというならば、大学や研究者に依頼して行なうことも可能である。
 かつて西ドイツではカール・ベータース教授が国の全面的な協力によって、誤判とその原因を約二千件の事件記録をもとに世界でも初めてという総合的な調査を行なったことはよく知られている。
 数年前、ベータース教授は日本弁護士連合会の招待でわが国を訪れ、各地で講演した。日弁連や各研究者の再審への熱心な取組みの背景には「ベータース教授に続け」という強い意欲があり、ここ数年続いている再審無罪判決もこうした地道な努力と情熱によってやっと獲得されたのである。
 ところで、肝心の法務省は死刑について、年度別の処刑数さえ、死刑囚の人権や名誉を配慮するというわけのわからぬ理由で議員の質問にも答えないという、極端な秘密主義を相変わらず続けている。
 免田事件とうり二つの財田川事件の再審公判で、免田事件に無罪判決が下った後にもかかわらず、検察側は死刑を求刑している。
 こうした態度を眺めていると、免田事件について十分反省し、その教訓を生かそうと本気に考えているのかどうか心細い限りである。
 そこで明治から現在までの、一度、死刑判決があった後に無罪となったケースを私なりに調べてみた。免田事件のような例が過去にどのくらいあったのだろうか。いわば、明治以来のわが国の刑事裁判の歴史の中で、ヤミに包まれていた〝誤った死刑(処刑)″についての調査である。
 私見では、誤った処刑に至るまでの段階、過程は次のようになる。
 ①誤認逮捕-警察、検察庁などで誤って逮捕される。アリバイが証明されたり、人違いとわかって釈放されれば、すぐ冤罪は晴れる。過去には弁護士が誤認逮捕されたや、同じ人物が二度も誤って逮捕されたというひどいケースも兵庫県下であった。すぐ警察で釈放になるか、検察庁に送られても不起訴になれば、誤りはそこで一応ただされる。
 ②誤起訴-ところが、検察段階でチェックされず、不起訴にならず、誤って起訴されるとやっかいだ。検察官も有罪にしようと必死になるし、有罪率九九%の日本の裁判の中で無罪をかちとることは至難である。「自か黒か」で場合によっては十年以上の長期裁判を覚悟しなければならない。
 ③誤った有罪-それでも裁判で無実の証拠が見つかり、賢明な裁判官によっ
て無罪判決が下されれば幸せである。五年や十年の裁判の犠牲も無罪の前には我慢しなければならない。無罪になれば、誤りはただされ、冤罪は誤判へと発展せず、裁判官のチェックによって被告は救済される。
 ところが、チェックされず、一、二審、最高裁の厳重な三審制のワクの中でも誤りがまかり通ると、冤罪は誤判へと発展する。被告は裁判の犠牲者になる。
 ④誤った死刑-そして、有罪が最高刑である死刑の場合、一、二審での死刑が最高裁で確定すると、残された道はこれまで〝針の穴″といわれた再審の狭い門しかない。島田、名張毒ブドウ酒事件などはいわばこの段階といえるだろう。免田、財田川、松山事件は、この段階から危うく生還したケースである。
 ⑤誤った処刑-しかも、誤った死刑が執行されてしまった場合、冤罪・誤判での最大の悲劇が生まれる。サッコ・バンゼッティ事件などのように処刑されたあとに真犯人が出現し、誤った処刑が証明されたケースは西欧には何件か報告されており、死刑廃止を実現するきっかけになった。わが国では処刑されたあとに真犯人が出現したり、裁判で無実が明らかになったようなケースは一応ないとされている。
 しかし、③④の中で誤った死刑が後に裁判で無罪となったケースは明治以来、少なからずある。これは誤判であると同時に誤判がただされたケースなので、裁判制度の安全装置が作動したケースともいえなくはない。
 が、この発展過程の①から⑤の中には、いずれも少なからずの〝暗数″が含まれていることはいうまでもない。実際にあった誤認逮捕、誤起訴、誤った有罪、誤った死刑、誤った処刑のうちの何割がただされ、何割がチェックされず、ヤミの中に葬り去られたか。その本当の数字はだれにもわかりはしない。ただ、その一部分が検察や裁判上の統計に不起訴、無罪などとなって現われるだけで、あとはつかみようのない〝暗数″である。その中でも、特に〝誤った処刑″はまったくわれわれにはつかみようがないし、わからない。
 正確な調査は法務省や大学、研究者の手を待つことにして、私が行なったささやかな調査は『法律新聞』『東京朝日新聞』『東京日日新聞』などのバックナンバーをめくることによって、明治・大正・昭和戦前のこれまでほとんど調べられていない死刑誤判事件を抽出することであった。以下、明治から順を追って、概略だけ記してみよう。
 
○誤った〝処刑″はどれぐらいあるのか
【明治】
1)東京府下の元村会議員の実父殺人事件で東京地裁は死刑判決、明治三七年一一月二六日、東京控訴院は無罪判決を下した。
2)徳島県名西郡の士族・増田敏太郎は、明治二三年の強盗殺人事件で徳島地裁で欠席のまま死刑判決を受けていたが、同四一年六月一五日、大阪控訴院で公訴不受理で無罪。
3)明治四〇年三月に岩手県下の強盗殺人事件で死刑が確定した被告に、その後、真犯人が出現した。
4)明治四二年二月二五日に東京控訴院で、本所饂飩屋主人殺し、深川薪屋妻子殺し事件で一審死刑判決を受けた二被告に一転、無罪判決が下った。
5)長野県南安曇郡の魚行商夫婦殺人事件で、金森宗一は一審の東京地裁で死刑判決を受けたが、明治四六年三月(日付不明)、東京控訴院は無罪判決。
【大正】
6)新潟県の一家四人死刑事件。農家の主人を妻・母・息子二人の四人が共謀して殺害したという事件で、新潟地裁は大正四年六月二日に四人全員に死刑判決。東京控訴院は大正五年四月二七日に妻・母・息子一人の計三人に無罪、長男一人に死刑判決を維持。大審院で同年七月八日確定し、その長男は死刑執行されたが、誤判による処刑の疑いがある事件として問題になった。
7)柳島四人殺し事件。大正四年一〇月一五日、東京地裁は橋本平三郎に死刑判決を下したが、翌五年六月二四日、東京控訴院止逆転・無罪を言渡した。
8)大阪箕面の母殺し事件。大正五年五月一五日、大阪地裁は主犯に死刑判決、共犯に懲役十年を判決、大阪控訴院は同年七月二二日に主犯に無罪を言渡した。
9)島根県の女房毒殺事件。広島控訴院は大正七年三月一五日に一審の松江地裁で死刑判決を受けた男に無罪を言渡した。
10)函館丸山楼主殺し事件。大正五年七月二八日に事件発生。遊郭「丸山楼」の主人を息子が殺したという事件で同一〇年七月一〇日、函館地裁は無罪、同控訴院では一転、死刑判決を受けたが、大審院で差戻しとなり、仙台控訴院で再び無罪になった。
11)大正七年三月四日発生。浦和地裁で同年四月一二日死刑、東京控訴院で大正八年四月七日無罪。
【昭和・戦前】
12)昭和三年三月四日、岡山県苫田郡奥津村で毒団子によって一家二人が死亡、三人が重態。被害者の妻が一審の岡山地裁津山支部で死刑判決。昭和四年五月一二日、広島控訴院は無罪。
13)昭和六年八月二七日、東京千駄ヶ谷原宿のバス屋「丸菱商会」の主人が殺され、その主人の妻・同商会支配人の二人が起訴。東京地裁は二人に死刑判決。東京控訴院は昭和一〇年一〇月一五日、妻に死刑、同支配人に無罪。大審院で妻の死刑確定。
【昭和・戦後】
 戦後になって冤罪、誤判と騒がれた事件は山ほどある。その中で、死刑判決がいったんあってから後に無罪になって確定したケースはわずか六件しかない。
 古い順番にあげると次のようになる。
14)幸浦事件-昭和二三年一一月、静岡県磐田郡幸浦村の一家四人強殺事件。一審は近藤勝太郎ら三人に死刑判決、二審は控訴棄却、三二年二月に最高裁から差戻しになり、東京高裁は三人に無罪判決、三八年七月に最高裁で確定した。
15)松川事件-昭和二四年八月、福島県内の東北本線松川駅付近で起きた列車転覆事件で機関士ら三人が死亡した。第一審では佐藤一ら五人に死刑判決、四人に無期、二審では四人が死刑、二人が無期の判決だったが、最高裁は昭和三四年に差戻し、仙台高裁は三六年八月、全員に無罪判決を下した。三八年九月に最高裁で確定した。
16)二俣事件-昭和二五年一月に起きた静岡県磐田郡二俣町の一家四人強殺事件。須藤満雄に同年一一月、第一審死刑、控訴棄却、二八年一一月に最高裁で差戻しになり、静岡地裁で逆転無罪となり、三三年一月に確定。
17)木間ケ瀬事件-昭和二五年五月の千葉県木間ケ瀬の一家四人強殺事件。本田昌三に第一審死刑、東京高裁で三六年五月に一転無罪となり確定した。
18)八海事件-昭和二六年一月、山口県熊毛郡麻郷村八海で起きた老夫婦強殺事件。阿藤周平に第一審で死刑、他三人にも無期などの有罪、二審でも阿藤は死刑、最高裁で差戻しになり、広島高裁で三四年九月、阿藤ら四人に全員無罪。ところが、第二次最高裁が差戻しになり、広島高裁で逆転の死刑判決、四三年一〇月、三度目の最高裁で全員の無罪が確定した。
19)仁保事件-昭和二九年一〇月、山口県吉敷郡大内町仁保の一家六人強殺事件。岡部保に三七年六月、死刑判決、四五年七月、最高裁は差戻しを行ない、四七年一二月、広島高裁で無罪判決になり確定した。
20)免田事件
21)財田川事件
22)松山事件
 
 松山事件を含めて以上、二十二件である。明治時代は明治三七年以降の数字だが、死刑から無罪になった事件は計五件。この中には大逆事件も加えるべきとも思ったが、裁判上は一応死刑判決・即処刑となっている。わが国の近代史上、最大のフレームアップ事件として、ここでいう〝誤った処刑″に該当すると思うが、あえて入れていない。
大正時代は六件、昭和・戦前は二件である。戦後は免田事件を含めて九件である。私の不十分な調査でも、明治以来現在まで、一度、死刑判決があった後に無罪になったものは計二十二件あるので、実際はこれ以上の数にのはるであろう。
 このほかに、被告が無実を訴えながら死刑が確定し、そのあと真犯人が出現かと騒がれたり、再審を請求したり、執行をされたのかどうか不明だったりの、よくわからない疑惑の事件も数多く見られる。
例えば、明治では沼津三人殺し事件、野口男三郎事件など…。昭和では同六年三月に大阪市吉川区で起きた十三釣堀屋事件なども〝誤った処刑″の疑いの強い事件である。
『法律新聞』を丹念にめくって…と、この種の事件が散見される。例えば、昭和四年九月三日付の塚崎直義弁護士の「死刑廃止を痛感」という論文の中でも、ある疑惑の死刑を紹介している。
この事件は、増上寺の道重大僧正がじきじきに、ある死刑確定囚は無実と思うので是非、助けてほしい、と同弁護士に再審の要請にきたというのである。  
本人は犯行を否認しており、その男は軍隊で善行証書などをもらった正直者で殺人を犯すような人物でない上に、事件も疑惑に満ちていた。
 犯行に使われた凶器は家にあった包丁とされ、これを押収して警察医が鑑定した。その包丁の左側面に付着していた洗い残された血痕が唯一の物的証拠にされたという。しかし、この血痕が人血か、科学的に被害者の血液型と一致するものかどうかはっきりしない上、証拠隠めつを被告が行なったならば、包丁の右側面を洗い落としながら左側面はそのまま洗い残していたというのもふに落ちない。
 これだけでは真相は不明で判断のしょうがないが、免田、財田川、松山事件でも血痕鑑定が最大の争点になっており、今から四、五十年前の科学的鑑定の水準の低い時代は、冤罪や誤判をただす道は今以上に至難ではなかったろうか。 
今はもう真相はヤミの中だが、こうした事件が数多く裁判の歴史の中に埋もれているのではたかろうか。
 戦後でみると、福岡事件、藤本事件などが〝誤った処刑″として騒がれた。
 明治以降、三千二十一人(昭和五九年まで)にのぼる死刑執行者が出ているが、これと比べて二十二人以上という数字は〇・七三%に当たる。この数字が多いか、少ないか。無視していい数字かどうかは議論があろう。
 ただ、こうした事実をも見据えた上で、死刑廃止か、存続かも議論しなければならない。往々にして、死刑廃止を訴える者はこの誤判を強調しょうとするし、存続論者は逆に過小に評価し、大量殺人者や連続殺人などの凶悪犯罪を強調しがちである。
 死刑は幅の広いものである。一方で誤判の死刑の可能性もあれば、一方では社会正義の立場から大量殺人者に厳罰を課するという役割も担う。両者をハカリにかけて、どう解決するか、である。
 免田事件の問題提起から、明治・大正・昭和の約百年間の死刑誤判事件の歴史を眺望すると、あることに気づく。
 その冤罪・誤判の手口や構造のあまりの不変性、事件の度ごとにきびしく批判されながらまったく変わっていないことに驚くと同時に、絶望的になってくる。免田事件の無罪判決で批判された見込み捜査、別件逮捕、拷問、自白強要、代用監獄の問題性、証拠不開示、偽造、弁護権侵害、誤鑑定などの問題は明治・大正からそっくり同じで、まったく変わっていないのである。
 警察の捜査における人権無視は、免田さんが指摘したように一世紀たっても、まるで進歩していないことがよくわかる。
 例えば、明治・大正の死刑誤判事件では、事件の関係者は片っ端から捕まえられ、有無をいわせず「白状せよ」と殴る、蹴るの暴力、拷問を受けた。乱暴きわまる取調べが行なわれた。見込み捜査、別件逮捕と名前は変わっても、実質上、まったく同じ自白中心の捜査が現在まで脈々と流れているのである。
 科学捜査や法医学の駆使が最近は声高く叫ばれているが、明治・大正初期は指紋捜査さえできていなかった。唯一の証拠の指紋が間違っていたことが二審で判明し、死刑が無罪になったケースもあった。
 柳島四人殺し事件、大阪箕面の母殺し事件などは、身障者が犯人に仕立てられて、一審で死刑が下った。二審でその自白や証言が信用できないことが立証され、逆転無罪になったが、弱者を責めて犯人にデッチ上げていく手口は戦後の幸浦事件、八海事件、島田事件などに引き継がれており、まるで変わっていない。
 こうした死刑誤判の暗部をみていくと、まるでネガをみているように、その前近代性、歪み、矛盾が浮き彫りにされてくる。
 
○第二の「免田事件」を繰り返さぬために
 免田、財田川、松山事件の無罪判決が提起した問題は、どんなに慎重に行なっても、裁判は誤る場合があり、そうした誤判による死刑をどうして防ぐかということである。
 防ぐための方法は、どう考えても一つしかあり得ない。死刑廃止以外に防ぐ道もなければ、誤判による死刑という恐るべき悲劇を救う道もない。再び三つの事件を起こさないための結論は死刑廃止なのである。
 このはっきりした結論を法務省はもちろん、司法関係者、マスコミ、市民もまともに見、考えようとしていないのではないだろうか。三つの死刑再審事件の無罪判決をお祭り騒ぎで報道したマスコミも、この誤判と死刑の究極的な解決法である死刑廃止にはほとんどふれなかった。免田さんは司法の遅れと、それからくる死刑廃止をはっきりと訴えているというのに…。
 司法関係者や一部の識者の問では、誤判と死刑は別問題で、誤判は裁判の審理を強化、充実していけば解決できる問題とし、死刑廃止と切り離して考えるべきだとする考えが強い。しかし、両者は切っても切り離せない。誤判は人間が裁く以上、不可避だし、裁判の終局として死刑が存続されている限り、免田事件の悲劇は今後も続くことは自明である。
 西欧ですでに死刑廃止に踏み切った主要国は、何度かの死刑誤判という悲劇を体験して、それが死刑廃止の世論を盛り上げる起爆剤となった。
 今、死刑再審事件が相次いで三件も無罪になるという死刑の誤判があらわれたにもかかわらず、わが国の死刑問題への関心はマスコミをみても、国会においても、低調を極めている。それは司法が二世紀遅れていると同時に、国民の人権意識そのものも同じように遅れており、自らの後進性に気づいていないからなのである。
 世界の先進工業国で唯一、死刑問題がいまだに脚光を浴びていないこの〝人権低国″の行方が注目される。
 
 
(2)裁判官と死刑
○裁判官の胸の内
 いうまでもなく、死刑は国家による殺人である。一般的に殺人が犯罪として厳重な追及を受け、刑罰を課せられるのに対し、死刑執行だけはそうではない。逆に、戦争は別にして国家に公認された唯一の殺人が、死刑なのである。
 殺人が悪ならば、加害者が個人であれ、国家であれ、許されるはずがない。ところが、個人の場合は悪であり、国家の場合は許されるというのが死刑存置の馬鹿げた現状なのである。
 この正義と国家の深いミゾ、殺人が悪と善になる一八〇度の矛盾を一身に背負い、同じナマ身の人間に極刑を課すべき義務を負わされているのが裁判官であり、検事であり、法務大臣であり、刑務官である。
 個人の殺人をきびしく追及する故に、逆に極刑を課さねばならぬ宿業の前で国家と良心の板バサミに悩まぬ者はない。
 さて、その当の本人の裁判官はどんな気持ちで死刑判決を下すのだろうか。神ならぬ裁判官が人を裁き、しかも死という絶対的な刑罰を課す死刑制度。裁判官に課せられた任務とはいえ、決して平静に行なえる行為ではないであろう。
 死刑について現役の裁判官の発言は紋切型の判決文以外、その心情をうかがい知るものは意外に少ない。判決ですべてを語り、合議の秘密は守るという裁判官の職務上の原則がそうさせていることはいうまでもないが、死刑のおぞましさ、後ろめたさも多分にあるのではないだろうか。
そこでどうしても、元判事らの回想などを引っぱり出すことになる。そうしたOB判事の死刑にかかわった胸の内を聞いてみよう。
 四十年にわたる裁判官生活の最後の札幌高裁長官時代に、最高裁に対して「時の政府から一歩はなれた広い視野と遠い展望に立て」と要望し話題となった横川敏雄氏は、次のように語っている。
「わたしは地裁の裁判長時代に一回、強盗殺人・死体遺棄等の罪で死刑の宣告をしたことがあるほか、高裁の裁判長のとき一回、控訴棄却という形で、強盗殺人・放火等の罪による死刑判決を支持したことがある。いずれの場合も、証拠調べを尽くし、有罪の確信をもっていたが、判決の言渡しの前後それぞれ一週間くらいは、あまり食事も進まず、何かに祈るような気持ちだった。同じ人間にこんなことまで許されるのか、とその都度悩むからである。ただ、死刑にするのは誰がみてもやむを得ないと思われるよくよくの場合なので、このための合議にはあまり時間はかからなかった。(中略)わが国の現状では死刑制度はやむを得ないと思われるが、できればこんな制度はないほうが…というのが、死刑を言渡したわたしの偽らぬ実感であった」(同氏著『ジャスティス』日本評論社・昭和五五年一二月)
 全国裁判官懇話会の第二回会合の代表世話人の一人であった元東京高裁判事、三井明氏もインタビューに答えて、語っている。
「死刑はいやです。誰れが見ても死刑より他にないという事件でなければ、死刑はすべきではない。死刑はできるだけ避けるべきだというのが私の考えです。ただ、死刑という制度がある以上は裁判官として死刑を避けるわけにはいかない。
 私の死刑判決は二件あります。ある職人が大阪の遊郭の娼妓と仲よくなり結婚しようとしたら親兄弟に反対され、合計七人を殺した事件です。弁護人は精神鑑定を申請してきた。私はまだ左陪席でしたが、『死刑やむなし』と思っていました。しかし、もし精神鑑定をやって、心神喪失にはならなかったにしても、心神耗弱にでもなっては困るなという気持ちがありました。これはもう死刑なんだと、だったらへタに精神鑑定なんかしない方がいいという気持に傾く。結局、精神鑑定申請を排斥して死刑判決を下したんです。いま考えると、精神鑑定をすべきだと思います。悔いが残っています」(法学セミナー増刊『日本の冤罪』昭和五八年七月三〇日発行の中の「誤判と裁判官の責任」)
 
○裁判官にとっての自由心証主義
 裁判官は厳密な事実認定を行ない、それに基づいて量刑を定める。それらは裁判官の自由心証主義にまかせられている。
 四九年五月の改正刑法草案で量刑の一般基準が定められた。
一、死刑の適用は特に慎重でなければならない。
二、刑の適用においては犯人の年齢、性格、経歴及び環境、犯罪の動機、方法、結果及び社会的影響並びに犯罪後における犯人の態度を考慮し、犯罪の抑制及び犯人の改善更生に役立つことを目的にしなければならない。
 わが国の裁判官は、最高裁判事十五人を含めて全国の裁判官は二七六一人である。家裁や民事担当もあり、すべてが死刑判決にかかわる刑事裁判官ではないにしても、これらの裁判官が死刑についてどのような考えを持っているかは容易にわからない。ただ、戦後の量刑傾向が大幅に寛刑化していることをみれば、裁判官の死刑観、刑罰観がそこに数字となって浮き彫りにされてくる。
 強盗殺人に対する死刑・無期適用率は約五年きざみで昭和二三年~二五年は死刑一二・七%、無期三六・六%だったのが、五〇年~五五年では死刑七%、無期四九・八%となっており、死刑適用率は戦後約三十八年間で三分の一に減少しているのである。
 さらに死刑の選択も大幅に減少しており、このまま進めば、死刑廃止に踏み切らなくても内部的には死刑判決は漸次ゼロに近づいていくことは間違いない。永山事件の東京高裁判決はこのような流れを象徴的にあらわした判決であったが、死刑廃止に傾く裁判官が多い以上、繁くにはあたらない。
 判事補を三年間したあと弁護士に転じ、ある死刑事件を担当した弁護士ははっきりとこう語っている。
「私は死刑制度には反対の考えをもっていた。しかし、実際には死刑求刑事件に関与することはなかったので、ほんとうの意味でこの問題をつきつめて考えたとは言えない。ただ死刑執行に検察官のみが立会うことには疑問をもっていた。少なくとも、裁判官が死刑を言渡すにあたってはその執行に自ら立会い、その結果を容認できるというばあいでなければならない。右のような立場で決断すべきだと考えていた」
 永山事件にしても、四人を殺害した点と本人の生育環境、情状のどちらに重きを置くかで、一審死刑、二審無期に分かれ、結局最高裁で差戻しになった。同じようなケースは永山事件ほど問題にならなかったにしても、過去にいくつかある。
 敗戦直後に閣物資を世話するとだまして、大阪で男を次々に自宅に誘い込んで殺害し埋めていた事件で、犯人の夫婦は十二年間逃亡生活をした末捕まった。この夫婦は犯行を悔い、逃亡先で「アリの街の聖人」として周囲の人から慕われていたが、この点の情状で大阪地裁は三六年一月に無期懲役の恩情判決を下した。大阪高裁では四人殺害、逃亡の点が重視され死刑に逆転し、最高裁で確定した。
 永山事件とは一、二審の量刑が逆だが、量刑判断の力点をどこに置くかによって、裁判官の刑罰観、自由心証主義によって必然的に起こってくるケースである。
 法務省などのこれまでに死刑廃止に踏み切らぬ理由は、
①世論調査では死刑存置の支持率が多いという国民感情。
②量刑のきびしい適用基準によって、裁判官による死刑選択が恣意的に行なわれることはない。又、死刑は年々減少している。
③裁判は慎重に行なわれており、死刑確定事件で誤判が確認されたケースはない。などである。
 このうち、免田、財田川、松山事件など三件の無罪判決によって、③の不当性はますます明確になった。
 無期か死刑か、の分かれ目は、いかに量刑の一般基準を厳密に設けても、最終的な判断は裁判官のヒューマニティ、刑罰観によって決まる。自由心証と悪意性の区別の基準などもありはしない。それに、どこまで量刑の公平性を確保するか、憲法による「法の下の平等」の観点からも重要な点だが、両者の兼ね合いがさらに難しい。
 誤判と死刑の関係を考えれば、こうした矛盾を解消する唯一の道は死刑廃止しかないのではなかろうか。死刑か無期か、という量刑の差は紙一重にみえて、生命を奪うかどうかの天地の差なのである。あえていえば、被告にとっては誤判以上の影響を持っている。
 しかも誤判の危険性を常に内蔵させながら、あえて死刑の選択を裁判官にゆだねるのは酷ではないかとも、思えてくる。
「私は今までに死刑判決を二度言渡している。裁判官によっては在職中一度も死刑判決をしない人も相当ある。実際、死刑の判決をするときほど不愉快なものはない。法を司るから言渡すのである。ときには、なぜこのような因果な職についたかとさえ思うことがある。一件の死刑の宣告は傍聴人から判事さんの頭が真赤になったといわれた程興奮したと憶えている。ある若い被告に死刑に処すと宣言した瞬間、若者の顔色は蒼白となり、首をうなだれ実に見るも憐れであった。被告人は無期になると思っていたらしい。
 この若者に対する死刑執行の記事を見た私は二、三日食欲がまるでなかった。ところが、A(入海事件の被告)はこの若者と比べて、天地の相違を感ずる。Aは二人の老人を殺して何等悔ゆるところがなく、死刑判決を受けた時も嘲笑的な苦笑をしていた。(中略)われわれ裁判官は重大事件と軽罪事件を問わず、一つひとつの事件が被告人にとっては人生途上の重大事である点に鑑み、その一つでもおろそかであってはならないことを常に心がけ、全身全霊を打ち込んで審理に当たっているのである」(藤崎酸『入海事件-裁判官の弁明』一粒社・昭和三一年刊)
 これは、死刑-無罪-死刑-無罪と七度も裁判を繰り返した八海事件の一審の裁判長の言葉である。八海事件の主犯とされたAの態度を少年と比較して痛罵しているが、Aが無実であったことは、真犯人が出所後にも明らかにした。
 裁判官の思いこみや固定観念がどんなに恐しいか。全身全霊を打ち込んでも誤ることもあり、誤判と死刑の恐しさを象徴したケースだが、現在、こうした危険性が十年、二十年前以上に排除されていると果たして断言できるだろうか。
(3)法務大臣と死刑
○法務大臣の権限=執行サイン
 さて、裁判官が「生きる値打ちなし」の死刑判決を下しても、それで終わりというわけではない。帝銀事件の平沢貞通氏が死刑確定後三十年を経過したのをトップに、二十年以上も死刑確定囚ながら獄中で生と死の間で苦闘している者は少なくない。
 その人たちにとっての本当の終わりを告げる処刑を決めるのは、法務大臣である。刑事訴訟法四七五条一項には「死刑の執行は法務大臣の命令による」とあり、法務大臣がその死刑を命じた時は五日以内に執行しなければならない、とも同四七六条に書いてある。法務大臣のサインこそ、「生きている死者」と呼ばれる死刑確定囚の命綱を確実に切断する最後の合図なのである。
死刑確定囚の執行に至る過程はどのようなものなのか。そして、法務大臣はこのサインをどのような気持ちでなすのか。それについては勢藤修三著『死刑の考現学』(三省堂・昭和五八年八月刊)の中の第四章「死刑執行手続と法務大臣」に詳細に紹介されている。勢藤氏は法務省担当を十三年間続けてきたベテラン記者だっただけに一般にはうかがい知れぬその内幕を興味深く伝えている。
 それによると、死刑執行までの手続はこうだ。高検、地検から死刑執行に関する上申書が法務大臣あてに提出される。法務省刑事局は事件の記録をとりよせて、局付検事が記録を精査して死刑執行起案書をまとめる。死刑起案書は犯罪事実、証拠関係、情状、結論の順序で書かれ、最後は「以上、いずれの点からしても本犯は刑の執行の停止、再審、非常上告の事由なく、情状に照らして恩赦に浴させる余地はないと思料される。よって、死刑執行命令の発付方につき高裁を仰ぐ」となる。
 この起案書が刑事局、矯正局、保護局などに順次、回覧され、それぞれの上司の決裁を受けて、最終的に死刑執行命令書と名前をかえて大臣の机の上に置かれる。あとはサインを待つだけとなる。以上、何重ものチェックを受けて、慎重にも慎重を重ねるらしい。
 法務省の局付検事として、実際に二件の起案書を書いた元検事は語る。
「死刑となると大変です。こんなヤツは悪いからすぐ死刑執行しろという意見を書く人は少ない。たいがいは、これは気の毒だからなんとか死一等を減ずることができないかという結論でむすぶんです。やはり行政でもずっと上の方の人になると、インテリジェンスが高いんです。早く死刑にしろ、なんて刑事局付の検事がいうと、むしろ蔑視されるわけです」
 戦後初めての法務大臣は岩田寅造であり、その後、現在の嶋崎均まで計四十四人が次々とそのイスに座ってきた。その間の死刑執行は五百七十六人にのぼる。単純計算すると、一人の法務大臣が十三・一回、サインをした勘定になる。 
しかし、これはあくまでも単純計算で、実際は各大臣の在任期間の長短や思想、信条によって、一回もサインをしなかったり、逆に信条とは別個に法務大臣の職務としてしなかった者などさまざまである。
 前に紹介した元検事はそのあたりを、皮肉をこめてこう述べている。
「法務大臣は死刑執行命令を自分の任期中にはやりたがらない。任期交代ですから、どうしても十件ぐらいはやってもらわないと、と(下の者から)言われると、気の弱い人はそうかなと思ってサインをする。逆に老巧な人は『イヤ、今日はちょっと腹が痛いから』と逃げてしまう。坊ちゃんみたいな大臣がくると『大臣、これは六カ月以内にやることになっていますから』『おお、そうか』なんて、サインをしてしまう」
 相手が凶悪犯罪を犯した死刑確定囚とはいえ、自分のサインがその生死を分けるとなると、法務大臣でも尻ごみする人も多い。
『死刑の考現学』によれば、昭和四二年一一月から四三年一一月まで法相だった赤間文三は、「そんなことをしたら、今度はオレにお迎えがくるよ」 とサインをするのを逃げ回ったという。
このため、任期中の昭和四三年は執行ゼロを記録した。
 
○サインをめぐる悲喜劇
 法と人情の板バサミになるのは裁判官、刑務官、法務大臣もかわりはない。特に、政治家という人気商売故に、法務大臣のサインをめぐる悲喜劇も少なくない。
 五九年七月、仙台高裁で再審無罪が決まった松山事件の斎藤幸夫さんの母親ヒデさん(七十六歳)は、法務大臣の一言でピンチを切り抜けたという。死刑が確定して間もなく、死刑執行か、という情報が舞い込み、ヒデさんは直ちに上京し、当時の植木庚子郎法相に直談判した。
 ヒデさんの話では、法務省の会議室に案内され、待っていると、植木法務大臣が十人ほどの部下をつれて現われた。
「私、宮城県から参りました。松山事件の無実の死刑囚の親です。うちの子供は何もやっておりません。無実です。是非、死刑の執行だけはしないで下さい。もし、死刑になればあなたの犠牲になるんですよ。死刑になった後に事件が明るみに出たら金で賠償すればいいと考えていられるとしても、私は金は欲しくありません。金は働けばいくらでもできます。生きた子供で返して下さい」
 そういうヒデさんの気迫に押されたのか、植木法相は、「お母さん、私の在任中は執行しません」と告げ、「本当ですか」とヒデさんが念を押すと、「僕を信じて下さい」といったという。(以上、『自由と正義』昭和五八年九月号)
 松山事件で斎藤氏の死刑が最高裁で確定したのは昭和三五年二月で、ヒデさんが植木法相に会ったのは翌三六年のことである。約束通り植木法相がサインをしなかったのと、その後の大臣も慎重であったために、斎藤氏は二十九年ぶりに無罪にこぎつけた。大変ラッキーな例である。
 この植木法相も全部の死刑確定囚にこうした温情を示したのではない。何十人かにジュズを片手に念仏をあげながらサインしたという。その時の気持ちを植木氏はふり返る。
「ぼくがどのくらいサインしたかは覚えていないが、思い出すのもイヤなものです。周わりのものはその辺を知っているから就任当時は遠慮してもってこない。二、三カ月たつとたまってくるから仕方なく持ってくるが本当にイヤだった」(『東京新聞』昭和五二年二月一九日付)
 こうもつけ加えた。
「死刑にしても被害者が生き返るわけじゃないしね。私の場合は蚊も殺すなとしつけられて育ったから、死刑にしないで無人島で一生終えさせたらと思っ

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