世界が尊敬した日本人ー『エ・コールド・パリ』・パリ画壇の寵児となった『世界のフジタ』藤田嗣治
世界が尊敬した日本人
『エ・コールド・パリ』・パリ画壇の寵児となった『世界のフジタ』藤田嗣治
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
明治以降の日本の画家で世界的な巨匠になった筆頭は何といっても藤田嗣治である。一九二〇年代、エコール・ド・パリを代表する画家として、パリ画壇の寵児となった藤田は帰国し、第二次世界大戦中には数多くの戦争画を描いたが、戦後、これが日本画壇から問題視され日本を去った。フランスに帰化、カトリックの洗礼を受けたレオナール・フジタは、晩年は聖堂の壁画などの最後の大作を手がけた『パリの画家』として亡くなった。
明治二年(1886)、軍医の息子として生まれた藤田は東京美術学校(現・東京芸大)を卒業して、大正二年(1913)、二十七歳で渡仏した。翌年、第一次世界大戦が勃発、戦時下のパリ・モンマルトルなどで貧乏とアルバイトに追われながら、独自の画業を追究した。世界中から集まった新進の画家たち、いわゆるパリの異邦人画家集団「エコル・ド・パリ」のピカソ、キスリング、バスキン、シャガール、バン・ドンゲン、モジリアーニ、スーチンらと交友を深めた。「エコル・ド・パリ」は世界の美術運動の中心となった。

★東京美術学校でのフジタは決して優秀な生徒ではなかった。卒業制作の 「自画像」は、師黒田清輝に「このような作品が一番いけない」と批評された。パリに留学して間もなくピカソを知り、彼のアトリエでアンリ=ルソーの作品を見せられたフジタは、美術学校で学んだことがほとんど役に立たないことを知り、自分の絵具箱を地にたたきつけて、一からやりなおさなくてはならないと考えた。(同前)
『パリに来て一流になるには女道楽をして、酒場に入りびたりで、人生の裏の裏まで知らにゃ・・』という藤田は、トレードマークのおかっぱ頭にロイドメガネに、チャップリンひげに耳飾り、手製の派手な服を着て、毎晩乱痴気騒ぎの画家たちのパーティーにあらわれては顔を売って人気者になる。
◎一九一三年、二七歳の青年藤田がパリに入った時、街にははや秋の気配がただよいはじめていた。早速。ハリ一四区オデッサ街にある安アパートを借りうけると、もうじっとしていられない。街の通りに飛び出して商店のウインドを眺め、マロニエの並木道やその木陰に立つ広告塔や共同便所のパリの街の匂いを嘆いで興奮していた。
着いてすぐのサロン・ドートンヌ (秋の画展)の初日にも出かけ、すでに夜のカフェで知り合ったロシア人彫刻家のメッシャニーフに誘われて、バン・ドンゲンの夜会にも行っている。
当時バン・ドンゲンは、ピカソと並んで売り出し中の新進画家であった。金銭的に少し豊かであったドンゲンは、モンマルトルのおんぼろアトリエ付貸アパート「洗濯船」からピカソと一緒に足を洗い、新興の美術街モンパルナスに移っていたのである。以下、筆者の親友の玉川信明著『エコール・ド・パリの日本人野郎』朝日新聞社(1989年から)
藤田は酒は飲めないが、余興の名人で突然、ふんどし姿で「アラ、エッサッサー」と、皿を持って〝ドジョウスクイ“を踊り出したり、厚化粧の女装して現れたり、石黒敬七と柔道ショーをやったり毎回その奇行で、『フーフー(おばかさん)」と面白がられた。ただし夜中十二時をまわるといつの間にか騒ぎから抜け出して家に帰り、夜の明けるまで一日に十四時間も絵筆をとって技法を磨いた、という。
▼『藤田嗣治』(田中穣)によれば、その新アトリエでの夜会の騒ぎのひっちゃかめっちゃかさは、パリの絵描き仲間のうちでもセンセーショナルな話題になっていることを藤田も知っていた。藤田は「たのむ、ぜひ連れていってくれ」と出かけ‥ハリ・デビューの興奮の一夜を味わった。連れてゆかれたノートルダム・デ・シャンのドンゲンの画室にすっかり度胆を抜かれた。裸体画がどこもかしこも食堂の壁にも、廊下にも、寝室にも家中いたるところに描かれているのである。(当時の日本では黒田清輝ら女性の裸絵に風俗紊乱として警察が白い布をかぶせてみえないようしたレベル)
やがてみなが飲み、うたい、踊り、果てはお決まりの乱痴気騒ぎとなった。酔った連中が藤田に向かってしつこくこう迫った。
「おい、伊達男、日本の歌をうたわんか」
もはやこれまでと覚悟を決めた藤田はその場を逃げるようにして、しばらく画室の騒ぎから身を潜ませていたが、再び現れるや、なんと首はタオルではおかぶりし、筋肉質の細い体には毛布をまとっていた。さすがにメッシャニーフも「これほ一体なにごとならん」と驚いた様子であったが、やがて早口の口上で参加者たちに藤田を紹介した。一座のどよめきが徐々に静まった、その一瞬の間をとらえた藤田は突然、
「アラ、エッサッサー」
と、一声叫ぶと、まるで闘牛士のようにさっと毛布を払いのけ、タオルを縫い合わせた即製の
姿フォルムで、スパッと裸身を現した。 この姿を見て、会場には驚きと爆発的な笑いの渦がたちまち巻き起こった。それをしてやったりという顔でながめた藤田は、今度ほ裸のまま手にした食器洗いをふりかざし、右に左に腰をふりながらジャポン伝統的庶民芸能〝ドジョウスクイ″ を踊り出した。 観客ほむろんやんやの喝采 -。(玉川信明『エコール・ド・パリの日本人野郎』より)
●フジタは当時パリの社交界で頻繁忙行なわれていた仮装舞踏会や乱痴気騒ぎによく足を運んだ。老年に至って手に毒えが出ることを避けるため、酒は飲まなかったが、その奇行ぶりには定評があり、「フーフー(おばかさん)」とあだ名されて面白がられていた。しかし、夜中の十二暗か一時にはいつの間にか騒ぎから抜け出して家に帰り、絵の修業に励んだ。一日に十四時間仕事をするのを常とし、妻フエルナン=バレーを「フジタにはお茶とクロワッサンを用意したら、あとは何もすることがない。フジタは絵を女房正しているんでしょう」と嘆かせた。(田中穣『藤田嗣治』)
苦節七年、モンパルナスの女王キキをモデルにした「裸のマヤ」ばりの雪のような白い肌の美しい裸婦の大作が完成、パリ画壇で最も権威のあるサロン・ドートンヌに出品した。カンバスは日本画のような乳白色の地色、その上に日本の面相筆で黒い輪郭線が引かれ、裸婦を浮かび上がる。これまでの油絵には全くない透明の質感に、批評家は「すばらしい白地」と絶賛した。油絵に水彩画の技法を融合させ『繊細な人肌を再現した』この白地はフジタ・マジックと呼ばれた。
◇ある日フジタは、日本の浮世絵には裸体画が少なく、脚部の一部分をのぞかせるなどするだけで肌の実感を描いていることに思いあたり、美しい肌の質感を出そうとし、カンバスそのものが肌の質感を持つよう工夫した。「グランーフォノ㌧フラン(美しい陶器の自)」とよばれる独自の乳白色の下地はこのようにして生れた。(同前)
大正11年(1922)にはサロン・ドートンヌ審査員になり、「女と猫」「オカッパのジャボネ」は一躍、パリ画壇の寵児となった。『パリでは日本人と見ると、どこでもフジタ、フジタと呼ばれるほどの大変な人気ぶり』と当時を画家・荻須高徳は回想する。一四年にはフランスで最も権威のあるレジオン・ド・ヌール勲章も獲得した。ピカソ、モジリアーニと並ぶエコール・ド・パリの巨匠としての地位を不動にした。
昭和四年(一九二九)、十七年ぶりに帰国した藤田は中南米、南アメリカ、中国など世界を旅行して裸婦中心から風景画、戦争画と作風は一層円熟味を増した。第二次世界大戦中には陸、海軍の嘱託として戦地を訪れノモンハンでは「ハルハ河畔之戦闘」、「アッツ玉砕」「血戦ガダルカナル」『サイパン島同胞臣節を全うす』などの戦意を昂揚させる戦争画の大作を次々にものにして『聖戦美術の巨匠』となった。

1945(昭和20年)年8月、敗戦、一転する。日本画壇では戦争責任論議が噴出する。画家たちはGHQから戦争責任を追及されるのではないかと戦々恐々とし、藤田を最大の戦犯とみなした。親しかった仲間が次々と藤田から去っていった。しかし、昭和二二年(一九四七)二月にGHQが発表した戦争犯罪者リストには画家は一人も入っていなかった。
あらぬ容疑やウワサはこれで晴れたが、藤田の受けた心の傷、不信感は癒えなかった。日本画壇の狭く、陰湿な人間関係にすっかりイヤ気がさし、昭和二十四年、二度と故国に帰らぬつもりでフランスへ旅立った。空港での記者会見で、「絵かきは絵だけ描いていてほしい。仲間喧嘩をしないでもらいたい、もっと国際人となって」と語った。
●昭和二十四年、二度と故国に帰らぬつもりでフジタはフランスへ旅立った。これに際し、空港での記者たちの質問に答えて、「絵かきは絵に誠実であること、絵だけ描いていてほしい」「仲間喧嘩をしないでもらいたい。日本画嗜も早く大人になってもらいたい。一日も早く、意識でも、経済的にも、国際的水準になってほしい」と語っている。フジタの扇には絵具箱が掛かっていたが、この絵具箱の中にはダイヤが詰められていた、という。(同前田中穣)
昭和30年、69歳でフランスに帰化した藤田は子供や聖母マリアや宗教画を描くことが多くなった。78歳でカトリックの洗礼を受けて尊敬するレオナルド・ダビンチにちなんでレオナール・フジタと改名したのにはフランス人も驚いたが、パリの画家として終えたいと思ったのである。
ランスの礼拝堂(通称・シャペル・フジタ)の内部のフレスコ画の制作を最後の仕事に取り組んで、昭和四三年(一九六八)一月、八十一歳で亡くなった。
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