『異文化コミュニケーション/ジェミニ・ナール』①「ラクーザお玉、異文化を生き抜いた画家』★『イタリア・パレルモへの旅立ちと「東洋の聖女」』★『異文化の洗礼と孤独』★『苦難の時代:夫の死とアイデンティティ』★『51年ぶりの帰郷、桜の下は「江戸」ではありませんでした。
2026/02/23

明治時代の夜明け、日本から遠く離れたイタリアの地で、東洋の繊細な感性と西洋の力強い色彩を融合させた一人の日本人女性がいました。彼女の名はラグーザ玉(清原玉)。
イタリア彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B6

と結婚し、シチリア島パレルモで半世紀近くを過ごした彼女の生涯は、単なる「国際結婚の先駆け」という言葉では片付けられません。それは、言葉の壁、宗教の壁、そして「東洋の神秘」という偏見の壁と戦いながら、自らのアイデンティティをキャンバスに叩きつけた一人の芸術家の、魂の記録です。
●江戸の少女、異国の美に触れる
玉は1861年(文久元年)、江戸の芝源助町で生まれました。父は植木職人の清原栄之助。植物の生命力を間近で見て育った彼女の観察眼は、後にパレルモの庭園を描く際に遺憾なく発揮されることになります。
1876年(明治9年)、明治政府が設立した工部美術学校(東京芸大の前身)に、イタリアから一人の彫刻家が招かれます。それがヴィンチェンツォ・ラグーザでした。当時の資料によれば、ラグーザは日本人の器用さと精神性に深く心酔していました。彼がモデルを探していた際に出会ったのが、当時17歳の玉でした。
「彼女の顔には、古代ギリシャの彫刻のような静謐さと、日本特有の奥ゆかしさが同居していた」 —— ラグーザの回想(イタリア側記録より)
ラグーザは彼女をモデルに傑作「日本女性の像」を制作しますが、同時に玉の絵画的才能を見抜き、彼女に西洋画の基礎を教え始めます。これが、異文化交流という名の長い旅の始まりでした。
●イタリア・パレルモへの旅立ちと「東洋の聖女」
1882年(明治15年)、ラグーザの帰国に伴い、玉は21歳でイタリアへと渡ります。当時の日本において、未婚の女性がヨーロッパへ渡ることは、文字通り「一生の別れ」を意味しました。
パレルモに到着した玉を待っていたのは、まばゆいばかりの地中海の太陽と、全く異なる生活習慣でした。 イタリアの公文書や当時の新聞記事(Giornale di Sicilia など)を紐解くと、当時のパレルモ市民が「東洋から来た美しい淑女」にどれほどの関心を寄せていたかが分かります。
●異文化の洗礼と孤独
しかし、私生活は平坦ではありませんでした。
① 宗教の壁: カトリックの総本山に近いシチリアで、玉は洗礼を受け「エレオノーラ」という洗礼名を与えられます。
② 食事とマナー: 箸を捨て、ナイフとフォークを使い、コルセットを締めたドレスを纏う日々。
③言葉の孤立: 夫ラグーザは日本語を少し解しましたが、周囲とはイタリア語で話さねばなりません。彼女の初期の日記には、故郷の母を思う言葉が、震えるような文字で記されています。
玉は、この孤独を紛らわせるかのように、狂ったように筆を動かしました。
水彩画に込めた「ハイブリッド」の魂
玉がイタリアで残した膨大な作品群、特に水彩画には、当時のヨーロッパの画家にはない独自性がありました。
光の表現
彼女が描くパレルモの風景や植物は、イタリア的な「強いコントラスト」を持ちながらも、どこか日本画的な「空間の余白」を感じさせます。
- 『パレルモの庭』: シチリアの強烈な太陽を浴びるブーゲンビリアを、彼女は薄塗りの水彩で、しかし鮮烈な色彩で描き出しました。
- 『静物』: ヨーロッパの静物画(ナチュラ・モルタ)の形式を借りつつも、配置や構図には江戸の美意識が息づいています。
- 研究者らの調査によれば、彼女はイタリアの絵具を使いながら、日本の筆のような繊細なタッチを維持するために、道具を自ら改造して使っていた形跡があるといいます。

- ●苦難の時代:夫の死とアイデンティティ
1927年、最愛の夫ヴィンチェンツォがこの世を去ります。パレルモで工芸学校を運営し、共に芸術を愛した伴侶を失った玉は、真の孤独に直面します。
当時のイタリアはムッソリーニによるファシズムの影が忍び寄る時代。日本人である彼女への風当たりも、以前のような「珍しい賓客」への敬意だけではなくなっていきました。
「私はイタリア人として生き、イタリア人として死ぬつもりでした。しかし、鏡を見るたびに、そこに映るのは日本の女なのです。」 —— 親族に宛てた手紙より
彼女は、パレルモの公文書館に保管されているヴィンチェンツォの遺産相続に関する記録の中で、自らを「ヴィンチェンツォ・ラグーザの未亡人、日本人、エレオノーラ・ラグーザ」と署名しています。この署名こそ、彼女が異国で築き上げたアイデンティティの証明でした。
51年ぶりの帰郷:桜の下で
1933年(昭和8年)、玉はついに日本へ帰国することを決意します。実業家や研究者たちの尽力により、51年ぶりに踏んだ日本の土は、彼女が知っている「江戸」ではありませんでした。
彼女が持ち帰った数百点の作品と、夫ヴィンチェンツォの彫刻作品は、日本の美術界に衝撃を与えました。しかし、彼女自身はパレルモの言葉(シチリア方言)が混じった日本語を話し、周囲とのコミュニケーションに苦労したというエピソードも残っています。
晩年、彼女は東京で静かに筆を執り続けました。1939年(昭和14年)、桜の花が散る頃、玉はその波乱に満ちた生涯を閉じます。
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