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日本リーダーパワー史(29)ー明治、大正、昭和の40年にわたって活躍した全盲の代議士・高木正午

   

日本リーダーパワー史(29)
 
明治、大正、昭和の40年間活躍した全盲の代議士・高木正午
 
                          前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
 
 わが国で最初の普通選挙が実施されたのは一九二八年(昭和3)二月のこと。この時、東京品川を選挙区に立候補した民政党の高木正午は四万七千票と全国最高点を獲得し、衆議院議員に再選された。当時、七十三歳の高齢であった高木は目がまったく見えなかった。
帝国議会の国会議員の中で唯一の目の不自由な代議士であったが、高木は「憲政の神様」といわれた尾崎愕堂と並んで明治、大正、昭和にわたって約四十年間も活躍した堂々たる政治家でもあった。
 
 明治二十三年、第一回帝国議会選挙で当選以来、昭和九年十二月、七十九歳で亡くなるまで、わずか二年足らずの期間を除いて、常に衆議院議員として選ばれてきた、ということもむろん珍しいが、昭和三年、日本で最初の「普通選挙」 が行なわれたとき、四万七千二百七十八票で、圧倒的に「全国最高点」の票数を得たのは、東京第五区選出の高木正年であった、という不滅の記録である。
 
 それまでの選挙は、帝国議会の開設以来三十八年間は男性のみが財産、納税額によって選挙権がある、制限選挙が行われていた。これが撤廃され、普通選挙法になったのは画期的なことであった。
前回の総選挙 (大正十三年) では三円以上の直接国税を納める有権者は三百二十七万人だったのが、この普選では一挙に約四倍近い千二百四十一万人に増加した。
左翼政党や社会主義的な思想の広がりを恐れた政府は、普選法と抱き合わせで治安維持法を成立させ、野党の違反に特にきびしい目を光らせた。
 高木は筋金入りの普選主義者で、明治四十二年に河野広中、島田三郎らと初めて普選を唱えた先覚者であり、以後も熱心に運動してきており、女性にも選挙権を認めよという婦選主義者でもあった。「こうした先輩の努力がやっと実を結んだもの」と高木は勇躍、選挙戦にのぞんだ。
 
第一回普通選挙のなかで、大弾圧をはねのけ当選
 
 この「第一回普通選挙」では、田中義一内閣の手で行なわれ、鈴木内相は野党に対して大がかりな選挙干渉を行なった。労農党党首大山郁夫は、「弁士中止!」 の警官の声に、ただの一回もまともな演説会を開けずに落選し、「憲政の神様」尾崎行雄でさ、え、危うく当選できたというほどの選挙干渉、弾圧選挙であった。
  
 時の田中義一内閣は検事総長を務めた鈴木喜三郎を内務大臣にすえ、内務省は全国の警察を動員して野党の民政党や無産政党を激しく弾圧して選挙干渉を加えた。
 警察は与党の政友会には目をつぶり、野党の候補者や運動員には尾行をつけ、きびしく取り締まった。摘発された選挙違反の検挙件数をみると民政党は千七百一人、無産政党の三百一人に対して、政友会はたった百六十四人と十分の一以下で、選挙干渉のひどさが数字にはつきりと現れていた。
 そうした中で、高木はあくまで公明選挙をくり広げた。高木の地盤の東京府第五区 (荏原、豊多摩、伊豆七島) は二十六万票ある全国第二の大選挙区である。
 支持者がわずか一週間ほどで全有権者に手分けしてくまなくハガキを送る。自宅以外には別に選挙事務所など設けず、高木や関係者が根気よく演説をするだけで、運動員が走り回ることはなかった。 伊豆七島の人々は総出でポスターを作った。これを品川の船頭たちが配って歩き、おかみさん、娘さん、小学生まで一家総出で高木の手足となり熱心に応援した。これには警察官も手を焼いた、という。
 選挙中には 「貧者の一灯」 と書かれ金一円の入った封筒がそっと置かれていたり、 「私の血と汗でかせいだ金です、使って下さい」 と五十円を置いていった職工もあるなど、事務所に続々とカンパが集まった。
 選挙民には親子二代、祖父から三代も続く「高木宗」を自称する信者や参謀、運動員が多く、女房から「先生に投票しなければ、お暇をもらいます」というほど家族全員、手弁当で熱心な応援を続けた。
 
佐倉宗吾、田中正造と並ぶ義人政治家
 
 普選になると、字を書けない有権者も相当でてくる。こうした選挙民のために 「高木正午」の四文字を切り抜いたものを作って、これを投票所に持参して、なぞって書いた者もたくさんいた。
 二月二十日の開票日。東京・南品川の高木宅。代議士の邸宅とはほど遠い、それこそ破れ長屋の狭い六畳の客間や玄関などには、詰めかけた支持者や運動員で身動きできないほど。
 「日本一の最高得票」 との報が入ると、支援者は大歓声が上げ、高木を胴上げして喜んだ。「この目の不自由な私を出してくれた人の心がうれしい。当選なんか、責任が重くなるから、ちっともうれしくない。負けた方が余程気楽で、負けたらどこかに引っ込んでしまおうと思っていましたよ」。
 高木が当選の弁を新聞記者に語ると、「先生!。誰が引っ込ますものですか」 と支援者から冗談が出て、事務所はドット選挙民の歓声や笑い声に包まれた。
 この時の高木の選挙費用は六千円であった。中でも「選挙事務員の報酬なし」 となっており運動員は全くの手弁当の理想選挙の証明であった。
 目に余る選挙干渉と金権、腐敗選挙をしりぞけて、典型的な理想選挙で全国最高点を記録したことは、わが国の選挙史上を飾る快挙であった。
 高木への圧倒的な支持はその人格にたいする傾倒、信仰的な投票であって、決して目の不自由なことへの同情的な投票ではなかった。これほど、民衆が一体となって応援した者はそれまで佐倉宗吾、田中正造しかいなかった。高木は政治家というよりも志士、義民に近い存在でもあった。
 
40歳で両目を失明
 
 高木は初代の米駐日総領事・ハリスが下田にやって来た一八五六年 (安政三) 十二月、武蔵国 (東京) 品川で生まれた。
 父は細井半兵衛は宿役人の家柄だったが、のちに伯父高木以善の養子となった。正午は幼い暗から大変利発な子供で、八歳の時、飢饉があると父親に家計簿をつけるようにすすめたり、荒地の開墾に力をいれ、そこで野菜を作って売り借金を返した、などのエピソードが残っていこれに心を打たれた高木は猛然と決心して、政治家を続ける決意を固めたのである。
ところが、 明治三十年春のこと、突然、不幸に襲われた。高木は眼病を患い、帝大病院河本眼科に入院した。疲労と神経による眼病と診断され、間もなく左眼だけは完全に回復したので、「無理をしなければ大丈夫」と認められて退院した。高木は「回顧録」で、「念には念を入れて、専心、その後も静養を続けた」と書いている。
 
 ところが、ここに品川漁民たちの死命を制する大問題が起こった。得意先であった南葛飾の海面が閉鎖され、従来許されていた入荷の自由が禁止になったのである。この漁業問題は、代議士としての責任だけではなく、品川に生き続けてきた人間として体を張って先頭に立たなければならぬという使命感に燃えた。この事件での活動の無理がたたって両眼を失明することになった。四十歳である。このときの気持を、高木はこう書いている。
「それは寂しいとか悲しいとか、心もとないというような生ぬるい言葉でいい表わせるものではない。しかし、時間が経ち、深く考えるうちに、結局は諦めるしかない、と思うほかはなかった。私はまだ議席があったので、帝国議会には前例のない、従者を連れての登院を許されることになった。
しかし、心中の寂実は、覆うべくもなかった」
 
失明した以後も高木は三十年近く政治家として活動したが、この後半生が一層光彩を放っている。 高木は主に民政党に属し、尾崎等堂とは同期の長老議員として活躍したが、廃娼運動の先頭に立ち、軍の存在にも反対を唱え、軍人が政治が介入し、政権の座につくことは 「狂人に刃物を持たせるようなもの」 と強く反対していた。
 
抜群の記憶力で暗記して質問に立った
 
 特に、数字に強く予算に明るい政治家で予算委員を長年務めており、書生に資料や新聞、統計などを読ませて、その抜群の記憶力で暗記して質問に立った。
 ある時、海軍の予算について四、五十分の長い質問をしたが、それも 「この予算書の数字を見ますと・・」 を連発し、膨大な数字を一カ所も間違うことはなかった。これには予算書と首っ引きだった政府委員や、議員たちもその記憶力のすごさに舌を巻いた。
 
 高木はすでに家の財産は遣い果たしてなく、多数の信者によって喜捨によって当選する貧乏代議士だったため、その姿はいつも木綿袴に木綿羽織のままの質素なものであった。ごま塩頭に黒眼鏡をかけて角帯をしめて、帯の間に目薬の小びんをはさんでいた。
  帝国議会では前例のない従者に連れられて登院することが許可され、議会ないでも議席の横に書生ようの小さな箱が椅子として置かれていた。
 目が見えなくなると、どうしても人手に頼るしかない。国会議員として活動するためには、膨大な活字や印刷物に目を通さねばならない。常に4、5人の書生を置いており、書類や新聞を声を出して読んでもらったり、外出の際は手を引いてもらっていた。議員の歳費は年間三千円だが、大半はこうした経費や書生の養育費などですべてふき飛んでしまった。
 そのため、選挙民から依頼される色紙や、短冊、掛け軸、扁額などの揮墓をして五円、十円と謝礼をもらって、その収入を選挙資金に当てていた。こうした苦労を見かねた渋沢栄一は毎月五十円を高木が死ぬまで送り続けて援助をしていた。
 
 貧乏な高木の東京南品川にあった陣屋はかべは落ち、軒は傾き、狭い玄関は足の踏み場もない。がたがたの格子戸は開けるたびにはずれるため、開けっ放しの状態だった。
 玄関の土間は一間足らず。障子はところどころ破れ、三重がタテに並んでいた。妻には早く先立たれなく、子供はなく、一人ぼっちだが、ここに書生は四人置いていた。
 
 昭和の初めに政友会の幹部から高木を勅撰議員に推薦したいという打診があった。
 「私は生きている限り、衆議院議員として大衆の味方となり、国のためにも尽くしたい。貴族院、とくに勅撰議員は政治家のための養老院のような存在で、私の好ところではない」 と大抵の議員なら喜んで引き受けるところを、あっさりと断ってしまった。
 
 昭和九年十二月二十五日。 「腹切り問答」 で知られる浜田国松が衆議院議長に内定したので、高木に祝辞をいただきたい、との電話が入った。高木は持病のゼンソクがひどく病臥して登院できる状態ではなかったが快諾した。
 
「老いたりとはいえ議員の義務だ」 と当日、議壇場に四人の守衛にかつがれてやっと登った高木はゼンソクで声がでず、しばらくたったままでその演説はかすれて聞こえなかった。これがもとで三十一日に七十八歳でなくなった。
 
 四十年もの長い間、十三回も当選し、二回を除くほかはいずれもトップ当選を果たした国会議員で平代議士のままで終わったのは、高木のほかにはいない。
 
 

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