終戦70年・日本敗戦史(95)15年戦争(満州事変→大東亜戦争)で新聞はどう死んでいったのか①
2015/06/23
             終戦70年・日本敗戦史(95)
『大東亜戦争とメディアー戦争での最初の犠牲者
はメディア(検閲)である』③
15年戦争<満州事変→2・26事件(日中戦争)→大東亜戦争開戦→敗戦>
で新聞はどう死んでいったのか①
<1995年2月15日 「新聞労連」での講演を再録する>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
1・関東大震災で新聞勢力地図が変わる・大阪勢が全国制覇へ
1995年1 月17 日早朝に起きた阪神大震災は5000 人を超える死者をだす大惨事となったが、いまから72 年前の関東大震災では、東京の各新聞社は壊滅した。
今回は地元の神戸新聞が甚大な被害を受けたが、72 年前は現在の毎日新聞の前身である「東京日日新聞」はじめ、国民新聞、報知新聞など歴史ある東京の新聞社は壊滅的打撃を受けた。そこで、大阪本社の前身である「大阪毎日」と「大阪朝日」の2つの大新聞社が東京に進出して東京勢を押し潰しれて、『朝毎時代』を築くこととなった。
きょう私が問題提起すのは「新聞と戦争」のテーマだが、現在のマスコミ状況と戦前では全く違う。現在はテレビの比重が大きいが、戦前はいうまでもなくプリントメディアである新聞が中心で、中でも朝日と毎日だけが全国紙として圧倒的影響力を持っていた。
読売は現在1000 万部を超える発行部数だが、戦前は東京だけの新聞で、発行部数は少なかった。
朝日は「東京朝日」、「大阪朝日」とし、毎日は「東京日日」、「大阪毎日」と東京、大阪で別々の題字で発行していたが、朝日、毎日が全国紙として存在していた。
読売は大正末には4、5 万部の新聞でつぶれかかっていたが、正力松太郎が買収して、その後、急速に増えていく。1938(昭和13)年には100 万部を突破する。東京だけの新聞であったわけだが、当時としては朝毎を抜いて東京では第1 位の部数となっていた。
そして現在、1000 万部の新聞になっている。ことしはちょうど「昭和70 年」だから、この70 年間で4、5 万部から1000 万部へ、となんと250 倍に増えたことになる。
戦前のマスコミは新聞と出版、ラジオしかないが、ラジオは満州事変で初めて臨時ニュースを流した。では新聞は戦争に突入していく過程で、どのような報道をしてきたのかを検証していきたい。
2・毎日・東亜調査会と読売・憲法調査会のアナロジー
1994年11月、読売新聞は憲法改正試案を発表したが、その時、私は、1929(昭和4)年6 月に毎日が行った「東亜調査会」の設立と歴史的アナロジーを感じた。歴史には、何度かの大きな節目というものがある。マスコミの歴史にも同じようなことがいえる。昨年はその意味からも、大きなターニングポイントとなったといえる。
「東亜調査会」は東亜の共栄の世論喚起と国策樹立を目的として設立されたもので、顧問には林権助、井上準之助、近衛文麿、斎藤実、宇垣一成など、時の政府の要人らがズラリと入り、1931(昭和6)年に設立された。
満州事変が日中戦争につながり、太平洋戦争へと発展する、いわゆる15 年戦争の、そのターニングポイントであった。満州事変に国民を導いていったスローガンは、「満蒙は日本の生命線」というものであった。
これを最初に国策として樹立しようとして、一大キャンペーンを張ったのが調査会であった。さらに当時の本山彦一社長は、1929(昭和4)年に国民新聞社長であった徳富蘇峰を社賓として迎える。
徳富は戦前のファシズムを代表する言論人であったが、その徳富に現在の主筆の役割を与え、毎日、夕刊1 面のコラムを書かせる。
戦前の毎日新聞は、15 年戦争の突破口になる「満州は日本の生命線」の国策を先導し、一大キャンペーンを行うなど、日本の軍部が行った満州事変、中国侵略を起こす上で、「満蒙生命線論」を社説で30 数回掲載している。
事変後も「国策」に沿った紙面展開を行っており、軍部支持、右翼的、親軍的な姿勢で報道してきた。
これに対し、朝日はどうだったか。社説は大阪朝日と東京朝日でそれぞれ別なものが書かれていたが、特に「大阪朝日」の方が反軍的であった。
「大阪朝日」の高原操編集局長は、満州事変に一歩々々近づいていく段階で、軍部、政府を厳しく批判、牽制する論説を書いていた。
特に、満州事変が起きた前日の昭和6 年9 月17 日の社説では、関東軍が暴走した場合、「日本は滅亡の道を歩むであろう」と、その後を全く予見するような先見的な社説を書いている。
満州事変は関東軍の謀略によって引き起こされた。事変が起きるまでは、朝日は軍部に批判的であった。毎日は軍部寄りで「満州は日本の生命線」、満州は日露戦争で日本の権益によって獲得したものだ、という強硬路線で軍部を支持していた。逆に、朝日は批判的な立場であった。
したがって、当時の朝日と毎日との関係は、現在の朝日、読売の関係とウリ二つであった。しかし、事変勃発後、朝日は百八十度変わってしまう。
3・抵抗は満州事変まで
では、なぜ満州事変にこだわるのか。「戦争と新聞」を考えるとき、戦争が始まってからでは遅い。もう、新聞は抵抗できない。抵抗が可能なのは、戦争が姶まるまでの時期。戦争にエスカレートして押し流されるまでにどれだけ、新聞がブレーキ、歯止めをかけられるかである。
15 年戦争をトータルで見たとき、5 年ごとに次の3 段階にわけることが出来る。
15 年戦争と新聞の3 段階 <戦い、屈服、協力の3 段階>
「ジャーナリズムの戦いは5・15 事件(1932 年、昭和7 年)で90%終わり、2・26 事件(1936 年=昭和11 年)で99%終わった」といわれる。
(1)第1 期(1931 年、昭和6 年~1936 年=昭和11 年)満州事変から2・26 事件まで=戦争へ発展する小さな芽のうちに、これをつぶしておかないと、大きく発展した段階では遅い。
この点では15 年戦争の発火点となった満州事変で「新聞が一斉に放列を敷いて抵抗していたならば、あるいは歴史は変わっていたのではないか」というのは朝日の戦争中の責任者・緒方竹虎の戦後の回想だが、この弟1 期では戦争へと大きく発展する過程で、毎日、朝日などの大新聞は軍部と二人三脚で協力し、ほんの一部の新聞、「福岡日日新聞」などが抵抗した○ しかし、全体的にはなだれをうって挙国一致の協力をしていった。
(2)第2 期(1937 年=昭和12 年~1941 年=昭和16 年)日中戦争から太平洋戦争の勃発まで=新聞は統制時代に入り、ペン部隊、内閣情報局に組み込まれる。言論の自由は100%息の根を止められた。
(3)第3 期(1941 年=昭和16 年~1945 年=昭和20 年)太平洋戦争から敗戦まで=「新聞は死んだ日々」。26 種類もの言論統制の法規によって新聞はがんじがらめにされ、大本営発表に終始し、ニ重三重の検閲によって、新聞はウソを書きつづけた。
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第1 期にあたるこの時期に新聞の抵抗は90%程度終わっており、第2 期は99%言論の息の根を止められ新聞は言論の統制から企業として統制される。
新聞が抵抗出来たのは第1 期の時期である。軍部と一体となった右翼に攻撃された中で、真正面から抵抗した新聞は、「大阪朝日」、「福岡日日新聞」 (現在の西日本新聞)ぐらいであった。「大阪朝日」も満州事変が起こるまでは高原操編集局長らを中心にして抵抗していたものが、なぜ百八十度変わってしまったのか。
4・経過を「朝日百年史」に記述
その裏には何があったのか。朝日新聞70 年史では「木に竹をついだ」ように転換したと、なぞめいた表現をしているが、一昨年、出版された[朝日新聞百年史]では詳細にその経過が書かれている。
「満州は日本の領土ではない。中国の領土の一部だ」という社説を書いていた大阪朝日に、満州事変が勃発した翌日、9 月19 日、笹川良一(当時、右翼の国粋大衆党総裁)が訪れる。
24 日には」右翼の総本山「黒竜会」の代表・内田良平が同様に訪問している。内田らによる大阪朝日への攻撃と脅迫が陸軍幹部と一体となって行われ、その暴力、脅迫、テロを恐れて朝日は屈伏していく。
同月25 日には村山良平社長が病をおして、重役会に出席して満州事変についての社論の決定を行う。10 片1 日に社説「満州国緩衝論」が出る。それまでの「満州は中国の一部」から百八十度転換、軍部の認める満州独立論に切り換えた。
社内、特に編集局内で激しい批判が出た。しかし、12 日には「国家重大時に日本国民として軍部を支持し国論を統一することは当然のこと。満州事変については絶対批判を許さず」という厳しい重役決定が行われ、翌日の編集局内での説明で高原局長は、「軍部に協力するのか」との質問に対して「船乗りには<潮待ち>という言葉がある。遺憾ながら、われわれもしばらくの間、潮待ちする」と答えた。
これによって、満州事変に反対する朝日が転換。急先鋒の毎日は、本山彦一社長が満州事変は「正当防衛」という声明をアメリカの25 の新聞に発表するなど一貫して軍部と一体となって強硬路線を突っ走った。
さらに11月4 日には新聞界が一致して「満州事変は自衛権の行使である」との声明を各国に送った。これによって日本の新聞社全体がひとつの方向になっていく。「満州独立論」が決定的な流れになった。
つづく
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