『日本史を変えた大事件前夜・組閣前夜の東條英機』
2004年5月 「別冊歴史読本89号」に掲載
日本史を変えた大事件前夜・組閣前夜の東條英機
前坂俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
対米交渉が行き詰まった昭和十六年、御前会議は対米開戦を決意する。開戦を渋る近衛文麿首相に対し、東條英機陸相は大陸撤兵の断固反対を主張して譲らない。窮余の1策だった東久邇宮擁立も失敗に終わり、近衛内閣は崩壊する。後継首相に楕名された開戦論者・東條は一転、御前会議の白紙撤回、開戦回避を画すが、和平への道はあえなく閉ざされ、日本は開戦への道を転がっていく。真珠湾攻撃の前日、戦争準備を終えた東條は、一人寝床で涙にくれていた。
① 万策尽きた近衛内閣
真珠湾攻撃の三ヵ月前、初めて国策として日米戦争が決定された。 昭和十六年(一九四一)九月六日の第三次近衛内閣の御前会議で、「日本は自存自衛のため、十月下旬をメドに、戦争準備を完整する。十月上旬に至っても外交交渉のメドが立たない場合は開戦を決意する」との方針を決めた。
この二ヵ月前には米国は在米の日本資産を凍結し、石油禁輸を断行。これに対して日本軍は英米戦を辞せずと強硬方針のもとに南部仏印(ベトナム)へ上陸を強行し、アメリカ、イギリス・オランダは対抗措置として「ABCD包囲網」をしき、一触即発の危機にエスカレートしていた。
何とか日米外交を打開したい近衛文麿首相はルーズベルト米大統領との首脳会談を申し込んでいたが、米側は「中国からの撤退」を要求し、開催の見込みはなかった。石油の輸入途絶がこのままつづけばあと一年で底をつく状態となった。
「戦争か、外交か‥」
行き詰った近衛文麿首相は十月十二日、荻窪の私邸に豊田貞次郎外相、東條英機陸相、及川古志郎海相を招き、荻外荘会談を開いた。戦争に反対の及川海相は、和戦の決を総理に一任する態度を示したが、肝心の近衛は「戦争は私には自信がない。自信のある人にやってもらいたい」と発言、「戦争に自信がないとは何ごとですか。御前会議の決定変更はできない」と東條は怒り、話し合いは決裂。責任の押しっけ合いが始まった。十月十四日、定例閣議の直前、近衛は再度念押ししたが、東條は「撤兵は絶対にしない」と答え、「人間、たまには清水の舞台から目をつむって飛び降りることも必要だ」と優柔不断に終始する近衛を皮肉った。 閣議でも東條は「撤兵問題は心臓だ。……米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果が壊滅する。満州国をも危くする」と断固反対を主張。「御前会議(九月六日)の決定をくつがえすためには、総辞職して宮様の東久邇宮稔彦内閣を作るしかない」とその夜、使者を立てて近衛に伝言した。
十六日朝、近衛は「自ら総辞職し、東久邇内閣へバトンタッチする」と木戸幸一内大臣、天皇に打診するが、木戸から「戦争になったとき皇族に責任を負わせることになり、結果によっては皇室が国民の怨府となる恐れがある」と一蹴され、近衛は万策尽き果てて、夕方、政権を投げ出した。
② 組閣の大命下る
東條は自分が後継首班になるとは予想だにしなかった。近衛内閣を倒した責任者は自分であり、政府と統帥部がすでに決定した御前会議の「帝国国策遂行要領」を、統帥部の強い反対を押し切って変更するには皇族内閣しかない、と東久邇宮を強く推薦していたからだ。 この日、大命降下など思いもおよばず、東條は陸相官邸で辞職の後始末や、書類整理などをして、玉川用賀町の私宅への引越し作業をはじめていた。
「前夜、自分に大命が下るという情報は東條にも入っていたが、本人は全く信じていなかった」と東條の側近の佐藤賢了(当時、陸軍省軍務課長)は証言している。
十七日朝から引越し準備をしていると、午後、杉山元参謀総長と懇談中の東條に宮中からお召しがあった。天皇から叱責されるな、と思った東條は総辞職の原因となった陸軍の資料を整えて参内した。
木戸内大臣が「今日は御椅子を賜わりません」と事前に知らせた。通常、天皇に拝謁した後は、椅子を勧められさらに詳しい話をするのが通例となっており、これは叱責に間違いないと、悲痛な覚悟で天皇の前に進み出ると、思いがけず組閣の大命が下った。「突然組閣ノ大命ヲ拝シ、全ク予期セサリシ処二シテ茫然タリ」(東条日記」)
天皇は「しばらく及川海相も呼んであるので、木戸と三人でよく相談して組閣したらよい」と言葉をかけた。東條は足がふるえて何が何だかわからなくなった。
木戸内大臣からは「九月六日の御前会議の決定を白紙に戻すように……」との天皇の意思も告げられた。陸相官邸に戻った東條は依然としてふるえっづけ、頬を休みなくけいれんさせていた、という。
十七日夕刻、組閣の大命は東條陸相に降下し、翌十八日東條内閣が成立したのである。
③ 東條首相誕生の裏
『昭和天皇独自録』で昭和天皇は、「九月六日の御前会議の内容を知った者でなければならぬし、陸軍を抑え得る力のある者であることを必要とした。会議の内容は極秘となっているから、内容を知った者と云へば、会議に出席した者の中から選ばねばならぬ。
東條、及川海相、豊田外相(海軍身)が候補に上ったが海軍は首相出す事に絶対反対であったので、東條が首相に選ばれる事になった。よく陸軍部内の人心を把握したのでこの男ならば、組閣の際に、条件さへ付けて置けば、陸軍を抑へて順調に事を運んで行くだろうと思った」と経緯を述べている。
東條は陸軍部内の人心をよく把握しており、陸軍大臣時代に信賞必罰の英断を示している。強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいない。天皇への忠誠心では東條以上の軍人はいないし、天皇の「御前会議の決定を白紙還元せよ」という聖慮を実行できるのも彼しかいない。
天皇、木戸とも東條を高く評価しており、天皇が「虎穴にいらずんば、虎児を得ずだね」と木戸に漏らしたのも、東健への厚い信頼からであった。
東條にはまさに晴天の霹靂であった。わずかの距離の宮中から一時間以上たってやっと官邸に帰ってきた東條は「神様に相談してきた」といって明治神宮、靖国神社、東郷神社まで参拝してきた、と側近に告げた。不安と緊張に震えていたのである。
東僚首班は天皇、木戸にとって毒をもって毒を制する、ギリギリの選沢だった。忠誠一途な東條なら御前会議の白紙還元、開戦回避に努力するだろうという甘い思惑はすぐ挫折した。東久邇宮は驚いて、「日米開戦論者の東條をなぜ推薦したのか」と日記で疑問を呈した。米側も陸軍最強硬論者の東條内閣の出現に戦争必至との体制をとる結果となったのである。
こうして開戦内閣は誕生したのである。
東條は組閣に当たって海相に、外交を主張していた豊田、及川を拒否して、三番手で何も知らない嶋田栄太郎大将を選んだ。東條内閣の主な顔ぶれは、内相・陸相は東條が兼任、外相兼拓相は東郷茂徳、蔵相は賀屋興宣、商工相は岸信介、書記官長は星野直樹である。
④ 首相官邸の号泣
総理となったカミソリ東條は、天皇の指示を忠実に実行し、今度は開戦派から和平派に立場を変えて日米和平の可能性を探り始める。九月六日の御前会議をいったん白紙還元して見直す作業を行い、連日、寝る時間もけずって連絡会議で開戦回避の方途を探った。
しかし、客観情勢に変化があったわけではなく、石油禁輸によって生命線の石油は日々底をついており、座して(戦わずして)死を待つよりも万一の勝利を期待してでも、戦った方がよいという考えが大勢を占めていった。
十一月二日夜、東條首相は天皇に再検討の結果、御前会議の決定は白紙撤回できず、同じ結論になったとを泣きながら報告した。
「ジリ貧をさけようとして、ドカ貧にならぬように注意すべきだ」との米内光政元首相などの警告も届かない。天皇も、いざここまで来て戦いを避けると、世論が憤激して陸軍強硬派が暴発してクーデターを起こして国内は内戦になるのでは、と危惧して沈黙する。天皇も、政府も、海軍、外交当局者も開戦回避を願いながら断固命をかけて阻止する勇気を持たず、様子見を決め込んで現実に追従し、ここまでくればやむを得ない、と状況に押し流されていった。総無責任体制に陥っていたのである。
十一月二十七日、「ハル・ノート」によって米国の強硬姿勢が示された。
① 本軍の中国、仏印よりの撤退
② 満州国、国民政府の否認
③ 日独伊三国同盟からの脱退 -がなければ日米交渉には応じないという最後通告的な内容で、これを見た東條は興奮状態で、「もう戦争以外にない」と口走った。開戦に百パーセント固まった瞬間でである。
十二月八日、真珠湾奇襲攻撃で日米戦争は火を噴くが、その前日の七日未明、首相官邸の寝室から東條の号泣が聞こえた。驚いた妻のカツと三女が部屋をのぞくと、東債は皇居に向かいフトンに正座してただ一人で泣いており、それがだんだん号泣に近くなっていく様子を目撃したという(保阪正康著『昭和陸軍の研究』上巻・朝日新聞社1999年11月刊)。透徹した世界観、長期ビジョンは欠如しているが、目先の事務能力にたけ、カミソリ、能吏、軍人官僚の典型といわれた東條は、その結果のゆきつく先の敗北という暗い予感に恐れおののいたのである。
関連記事
-
-
『オンライン/日本恋愛史講座』★『今年は日米戦争から80年目』★『1941年12月、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官が1日千秋の思い出まっていた手紙は愛人・河合千代子からのラブレターであった』
日本リーダーパワー史(60) 真珠湾攻撃と山本五十六の『提督の恋』 …
-
-
日本史の復習問題/『日本で最高のリーダ―シップを発揮した英雄は・・西郷隆盛です』―『山県有朋から廃藩置県の相談を受けた西郷隆盛は「結構」と一言の基に了承、断固実行した➀』
記事再録2012/03/23 /日本リーダーパワー史 …
-
-
『Z世代への昭和史・国難突破力講座②』★『アジア・太平洋戦争で全面敗北した軍国日本(1945年)は、戦後一転し「平和経済国家」を目指し、奇跡の高度成長を遂げ米国に次ぐ経済大国にのし上がった』★『鈴木貫太郎、吉田茂、田中角栄、松永安左衛門、田中角栄、松下幸之助らの国難突破バトンリレーが成功』★『『吉田茂と憲法誕生秘話①ー『東西冷戦の産物 として生まれた現行憲法』『わずか1週間でGHQが作った憲法草案』①』
『東西冷戦の産物としてのマッカーサー憲法 前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授) < …
-
-
「オンライン外交力講座」日本リーダーパワー史(396)『中国が恫喝・侵略と言い張る台湾出兵外交を絶賛した「ニューヨーク・タイムズ」 (1874(明治7年)12月6日付)」★「日中韓150年対立・戦争史をしっかり踏まえて外交力を再構築せよ⑤
2013/07/20 …
-
-
「日韓衝突の背景、歴史が一番よくわかる教科書」④記事再録/日韓歴史認識ギャップー「伊藤博文」について、ドイツ人医師・ベルツの証言『伊藤公の個人的な思い出』伊藤博文④-日本、韓国にとってもかけがえのない最大の人物
2010/12/05 の 日本リーダーパワー史(107) 伊藤博文④-日本、韓国 …
-
-
NHKスペシャル[坂の上の雲」を理解するためにー 水野広徳全集〈全8巻〉の刊行によせて〈平成7年7月>
水野広徳全集〈全8巻〉の刊行に〈平成7年7月> ・編集委員/静岡県 …
-
-
『Z世代のための明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力講座⑩』『杉山という男は人跡絶えた谷間の一本杉の男だ』(桂太郎評)―「玄洋社の資金源を作るため、その雄弁を発揮して炭坑を獲得した」
2014/02/21 日本リーダーパワー史(478)記事再録編集 <日本最強の参 …
-
-
『 2025年は日露戦争120年、日ソ戦争80年とウクライナ戦争の比較研究③』★『児玉源太郎・満洲軍総参謀長とその懐刀の長岡外史参謀次長のインテリジェンス③』★『満州軍総司令部と大本営間の電報では遅いと九時間半もかかった。』
2010/05/14 日本リーダーパワー史(45)記事再編集 前坂俊 …
-
-
トランプ政権の「大学、学問の自由への介入、政府助成金カット」「米国での頭脳流出が進行、米国の国際競争力低下へ」(上)
ロイター通信(5月01日)によると、 トランプ米大統領は4月30日、多様性・公平 …
-
-
日本リーダーパワー史(638)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(31)<川上参謀総長からロシアに派遣された田中義一大尉はペテルスブルグで活躍<ダンスを習いギリシャ正教に入信して情報収集に当たる>②
日本リーダーパワー史(638) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(31) …
