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日本リーダーパワー史(62) 辛亥革命百年⑤―孫文を全面支援した怪傑・秋山定輔②

   

 
 
辛亥革命百年⑤―孫文を全面支援した怪傑・秋山定輔
秋山定輔が語る「孫文と私」(村松風筆録昭和15年11月「月刊亜細亜」)

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 
 
 
前のやうな理想も語らぬではないが、実際問題となると、直ぐ金である。一も金、二も金、三も金だ。勿論私は金はない。無以上の大マイナスだ、凡そ金くらい私にとって不得手なものはない。其の最も不得手な柄にない役廻りを私は引受けたのだ。
 理想や理窟で、孫文を力付けてくれる人は沢山ある。又一身を支那の革命に投じて働いてくれる志士も日本にはあった。併し孫文が一番欠乏を告げているのは金であった。革命の資金であった。此の問題になると、いかなる雄弁家も忽ち沈黙して了ふのが常である。そこで私は勢ひ金の方を引き受けざるを得なかったのだ。
「どうせ自分の財政は赤字である。他人からも赤字の権化の如く思はれている。思われついでに一層赤字を殖すことに決めよう」私はさう決心したのだった。

 交りが深くなるにつれて、見掛けは青白いヒヨロ〈したハイカラだが、此の孫文の有ってゐる偉大な天才や革命の指導精神や、驚くべき強い意志や、燃え上る熱や尊敬すべき信義や、其の他いろんな長所や美点を私は理.解した。そして結論として、
「孫は必ず支那革命をやり遂げる」といふ確信を持った。

私は其の確信をもって自分の国の先輩や有力者の多くに向って説いたのであったが、耳を傾けてくれる人は殆んどなかつた。併しそれも無理はない。老衰したとは云へ、清朝宗室は厳然として存在しているのだ。それを白面の青年の分際でぶつ潰さうと云ふのだ。誰でも信じて呉れない。
私自身は斯く孫文を高く買っているけれども、自分が附けると同じやうな点数を孫に附けてくれる人はない。

会って先輩に話をするが、其の都度失望し、悲観した。併しこれは必ずしも人の明不明ばかりではない。人は縁に依って繋がれる。縁のない人には話しても通じないのである。
 今から考へると可笑しいやうな話があった。其の1,2の例を話して見よう。いよいよ孫文が事を挙げるといふことになった。真っ先に必要な物は武器だ。
 さて此の武器を手に入れることだが、これはいくら理想に走って見たところで、武器を取り扱ふ所は一国に一所よりない。国家の要路の人に諒解してもらわん限り手に入れる方法はない。これは好むと好まぬに係はらず巳むを得ないことだ。


其の時代では何といふても、当時の伊藤伯(博文)であった、が恐らく伊藤は承知しまいと私は思った。彼も昔は維新の大業に参加した人だが、今では齢も高く、国老として一世に仰がれてゐる身分だ。たとひ私が三十台の若さをもって、自分の胸に燃えてゐる理想を相手の胸に移さうと念っても、余り隔りがある。伊藤が容易く「それぢや支那革命をやれ」という筈はない。云はないばかりか事に依ると大目玉を頂戴して勘気を蒙らねとも限らない。が、ともかく当って砕けろだ。破れかぶれだ、国の為だ、人類の使命だ、やつ付けろといふ勢ひで伊藤に話したのだった。
 どう考へても、此の人が幾分でも賛成する筈はないと思ひながら話したのであったが、其の結果生息外であった私の話を聴き了ると、伊藤は暫らく考へていた後で、
「うん、さうだな、それあ理屈だ。がやれるかいな」
と、ニコニコ笑いながら云った。私は驚いた。良い悪いの話ぢやない。一足飛びに「やれるか、やれないか」といふのだ。
 
 
 
「やれます、必ずやれます」私は断乎として答へた。最早、我事成れりと思った。心の中で手を合わせて拝んだ。涙を流して喜んだ。
「支那の革命は出来た」と私は思った。七八分-否全部出来たと思った。そこが、人間の若いところで、殆ど出来たと思った。
 明治三十八九年のことと思ふ。孫文と初めて交りを結んでから六七年経ってゐた。孫文は広東へ還って兵を起すことになった。それに対して日本から武器を送らなければならない。
 
 日本から武器を送るには、直接広東へ輸送することは不可能だ。それにはアモイへ送るより外はない。アモイへ送るにも、一先づ台湾の澎湖島へ送り、其処から戎克船に積み替へて秘密にアモイへ陸揚げをするのだ。これは孫文の証文であった。
 当時台湾は見玉源太郎大将が総監で、民政長官は後藤新平だった。後藤は当時はまだ無爵である。而して私は後藤とはかねてからの知り合ひであり、又、官僚とはいえ最も早解りのする人と思っていた。
 ともかくも国老伊藤が諒解しているんだから、澎湖島から武器を出す位は容易く後藤が承知すると思った。だから我が事成れりと早喜びをしたのだが、実際に当って見ると世の中の事望思想外に出るものである。
 当然判ると思った後藤に、其の一端を話すと、これがどうも聴かんのだ。聴かんのみならず、いくら孫文のことを云ってもテンデ相手にしないのだ。況や支那革命、飛んでもない。そんな事は壮士、ゴロツキの仕事くらいに思っている。
 
 彼日く、
「我輩も一般に支那の研究をすることは人後に落ちんつもりだ。況や職を台湾民政長官に置いている。見玉伯は勿論だ。対岸支那のことは十分研究しているが、支那は一見すると、いかにもグラグラしていて何処から押しても崩れさうに見えるが、あれでなかなか動かない。其処が孫文の偉いところだ。不思議な処だ。ただし理想はどれだけ完備してゐても、孫文がどれだけ偉くても、支那の革命などがそんな素浪人の手で出来て潜るものか。少くとも道台の五人や六人味方につけて力を併せてやるんでなければ物になる道理がない。澎湖島から武器を送るなどと、思いも寄らないたわごとだ、以ての外だ。併し君がそれほど孫文を買ふなら余程の者であらうが、我輩が孫文に会って見たところで議論を聴くだけでは何にもならん。支那の事は問題にならん。寧ろ滑稽である。老生どうかしてゐいんぢやないか」
かういった調子だった。

勿論此の事について一度や二度ではなかった。是非共後藤の諒解を得る必要があるから、たびたび頼みに行った。が、其の都度の後藤の答へを綜合すると以上のやうな言葉で、全く取り付く島がなかった。

あれだけ聡明な後藤でも、事前に判断は出来なかったが、之は無理もないといへば無理もないことではある。それから七八年経った。革命は成って、孫文がエキスプレシデント・オブ・チャイナ号に乗船して、世界環視の中で日本へやって来て、桂公爵と会見する舞台が開けた。前後三回桂と会見した。
後藤は其の時、内閣に列なり大臣の1人であった。彼は孫文を賓客として招待し、非常なもてなしをして、盛大な晩餐会をやった。然るに、それ程エライ待遇をした際に、矢っぱり後藤の頭にはあつたと見えて、私を招ばなかった。
 私は可笑しくてたまらなかったから、其の次後藤に会った時、
「君は孫文をエライ大御馳走をして招んださうだな」「うん」
と云ふから、
「僕も陪席の栄に浴したかったな」
と云ふと、流石の後藤も一寸名状出来ない顔になって、「ウームウーム」
と云っている。
「誰を招んだんだ」
「朝比奈知泉(東京日日新聞主筆)を呼んだよ」
此の時ばかりは彼も余程窮したのだった。
 が、これを以って人を見る明の有る無しを私は云ふのではない。世の中のことは、形が副はなくては人が信じない。神や仏も形が現れなくては御利益はないのである。

<以上は昭和15年11月「月刊亜細亜」誌大中社より>

 
以上は、秋山定輔の直話だが、以下は、宮崎龍介の話である。秋山が孫文のために日本政府にいかに掛け合ったか、「日中友好、孫文中国支援」のためにいかに熱心に桂を説得したか、その内幕を語っている。このHP「日本リーダーパワー史(53)辛亥革命百年孫文を助けた日本人たち・宮崎滔天、秋山定輔ら」の中からポイントを採録する。
 
宮崎竜介の話・「そこでひとつ、先程ちょっと触れました孫文と桂太郎のことを申上げて置きましょう。それは大正二年のことです。この年は中国の民国二年に当るのですが、この年の二月、孫文が国賓待遇を受けて、日本へやって来たのであります。ところでどのようなことで、彼が日本に来るようになったか、また何のために来たのか、そのいきさつを申し上げねばなりません。
ご承知の通り、中国の武昌(湖北省)に革命ののろしが揚ったのが明治四十四年(1911年)の十月でしたが、翌年の一月に孫文は南京に出来た革命政府の臨時大総統に就任したのであります。
ところが一応政府の形ができあがると間もなく、孫文は革命を援助してくれた日本の人々に、御礼のため、日本に出向きたいと云う意向を示したのであります。それで滔天がこのことを日本に伝えたのですが、特に秋山定輔を介して、日本政府の考えを打診してもらったのであります。この秋山と云う人は、前々から、あまり表面に現われない政界の実力者であったのですが、識見の高い太っ腹な人で、孫文が日本に亡命して居た時から、孫文に対しては色々と力になってくれていました。
 
たとえば中国同盟会の発会式は、赤坂の坂本金弥邸で行なわれたのですが、この坂本と秋山とは棒組の政客で、桂太郎が立憲同志会をつくった時の資金は、坂本が出したと云う話も聞いております。日露戦争が終ると間もなく、秋山定輔は欧州を中心に世界漫遊に出かけまして、帰国後は、日本のアジア政策が転換期に来ておること、日本と中国は提携を密にしなければならないことを考えて、これを政治活動の目標にしていたのであります。
 
ところがそのやさきに、中国革命が成功して、孫文が臨時大総統になったのだから、秋山にとっては、得たりや応と云うわけ。そこへもって来て、孫文が日本に来たいと云って居るのだから、ここでひと芝居うたねばならぬ。
秋山は熟考のあげく、「まだお座敷の掃除ができておらん。お客の訪日を一年延ばせ」と、上海に居た滔天のところへ云ってよこしたのであります。こうして孫文の訪日を一年間延ばして居る間に、秋山は桂をくどいた。三日の問、毎日桂を訪ねて徹夜で口説いたと云うことであります。
 
そして得た結論は、
①日英同盟をやめて、日独同盟と日露協商に切りかえる。
② 中国の建設は孫文に任せる。
③ 桂は国内輿論を背景とした大政党を作り、強力な内閣を組織する。
④ ダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立を達成して、これ等と連帯する。
 
 日露戦争で日本が勝ったのは、イギリスのささえがあったからだとか、日本は極東に於けるイギリスの番犬だとか云われていたくらいですから、このイギリスとの関係をたち切ることは、日本にとっては、国策の大転回だったのであります。アジア民族の自立をはかって、これ等と連帯すると云う点は、孫文の大アジア主義の線と一致しているのですが、このことは、孫文と交りのあった秋山はかねてから承知していたのであります。
 
  大正二年の二月には、桂は立憲同志会の結成をやりましたが、これと見合って、孫文が日本にやって来たわけです。孫文が東京に着いたのが二月十三日でありました。
日本へ来た孫文は、国賓の待遇をうけて日本の各地を廻り、横須賀の軍港を見る。九州では三池炭坑の坑内まで見学する。大阪では造兵廠も見るという具合で、朝野から大変な歓迎を受けたのであります。この歓迎は孫文にとっては非常な喜びでしたが、しかし孫文に最も満足を与えたのは、さき程申した桂からの四つの提案だったのであります。桂と孫の会談で通訳に当った戴天仇は、その著書『日本論』の中で云って居ります。
 
 「……中山先生と密談二回に及んで居る。この両度の密談中、桂は中山先生と肺肝を吐露して語った。このことがあってから、桂太郎と中山先生とは相共に心服し、相互に大に嘱望するところがあった」
 ですが、残念なことに、孫文が希望に胸ふくらませて帰国してから幾何もなく、桂太郎は急に病を得て亡くなったのでありまして、そのために、せっかく出来た立憲同志会は分裂する、内閣は倒れると云った混乱が起り、このために孫文が抱いた期待も希望も、すべて頓挫してしまったのであります。
 
この時の孫文の落胆を戴天仇は、
「桂の死後中山先生は『日本には今や、共に天下の大事を語るに足る政治家なく、東洋大局の転移は更に現在の日本に望むことはできなくなった』と欺いた」と書いております。桂以後の軍閥の実力者は寺内正毅、これは長州閥で山児有朋の一の子分でしたが、これが内閣の首班になり、国際的には日英関係を一層緊密にしまして、中国に対しては蓑世凱をはじめ、北洋軍閥を露骨に援助すると云う方向をとるようになりました。
 
これは日本に対するイギリス外交が効を奏したのかも知れませんが、この日本の方針は大東亜戦争にいたるまで、一貰して続けられたのであります。寺内内閣がやった西原借款や、蓑世凱の帝政を画策した奉安会の組織や、大隈内閣時代の対支二十一条の押しっけなどは、その最なるものでありまして、中国に対する強行政策の積み重ねが、とうとう日華事変となり、大東亜戦争となったのであります。
 
 ここで私は、私個人のことになりますが、ひとことお話して置きたいことがあります。それは昭和十二年のことであります。例の盧溝橋事件の直後でありますが、南京へ行けと言われまして、憲兵隊につかまったことがあるのであります。その頃、中国では蒋介石が北伐をやって北京まで進み、南から北まで統一の形勢をつくりまして、そこへ日本軍が山海関を越えて北京にはいっていく。そして梅津、何応欽協定ができたりしまして、北方が日本からの圧迫を受けると云うこのときの日本政府は第一次近衛内閣。この近衛内閣ができますと、秋山定輔は近衛公を説得しました。この時、秋山はかつての桂と孫文の問題を思い起こした訳であります。
 
中国で蒋介石が中国統一の形勢を作り出した。日本では近衛公が政府を作った。ここで近衛と蒋介石の提携をやらせて、そして極東の安定を計り全アジアの復興を実現しようと考えたのであります。ところで桂と孫の問題のときには、滔天が介添えをしたのでありましたが、父は既に亡くなっております。
 
それで結局、私に使いをさせようと云うことになったのであります。盧溝橋事件が起こったのが、昭和十二年の七月七日だったと思いますが、七月の十九日に秋山邸から私のところに電話がありまして、「すぐに来い」とのこと、元来秋山と云う人は、電話をかけて「すぐ来い」などと云う人じゃない。こっちから面会を申し込んで三度ぐらい申し込まなければ、なかなか時間の取れない位、非常に凡帳面な人だったのですが、向うから来いと云うのだから、何かよくせきのことがあると考えて、私はさっそく秋山邸にかけつけたわけです。
 
すると彼は私に「すぐ南京へ行ってくれ」というのです。「何しに行くんですか」と問いかえすと、いきなり「蒋介石を連れてこい」という命令。その時蒋介石は抗日軍総司令として、保定に頑張っている時です。私は驚いて答えたのです。「向うは抗日軍の総司令ですよ。それを日本へ連れてこい。とんでもないことです。私は神様じゃありません」こういって、私は断りました。
 
「どうしてもだめか」と彼は言う。「私は神様じゃありません。一介の書生ですよ」といって、私はまた断った。すると彼は「それじゃ汪精衛じゃどうか」と念を押す。その時、汪精衛はそのとき廬山におりまして、盛んに抗日の宣伝をやっておりました。汪は行政院長、つまり総理大臣ですね。「これは政治家で、軍人じゃありませんから、あるいは承知するかもしれません。汪でよければ行ってみましょう。そのかわり失敗して腹を切れと云わないで下さい。私は腹は切りませんよ」と云うと、「よし、それでもいい、行ってこい」こういうことになったのです。
そのとき蒋介石や汪精衛と何を話してくるのか、秋山は全然言及しない。「何のために彼等に来いと云うのですか」と私が問ねると、秋山はこう云うのです。「おれとお前のおやじとやったこと知っているだろう。それをやるんだ」「その責任は誰が取るんです」と私が問うと、その返事はひとこと「近公が取る」と答えたのであります。
 
そしてつけ加えて「すべてお前が思う存分やればよいのだ」という。それで私はこれは大変なことを仰せつかった。これは命がけの仕事だと思ったんですが、まあしょうがない、行こうと決心したわけです。それで、その月の二十三日の晩、東京駅を避けて新橋駅から出かけました。船は翌朝出帆の長崎丸でした。
 
そして二十四日の朝神戸で船に乗りましたが、出帆まぎわに、船の中で憲兵隊員に捕り、神戸の憲兵隊分隊につれて行かれましたが、私はその晩神戸から東京につれてこられ、板橋の憲兵分隊に一週間監禁されました。私の家は家宅捜索されるやら何やら、いろいろのことがありましたが、こうしてとうとう目的は達せらずじまいになったのであります。これは私の行くことが軍でわかったらしいんです。
 
私が蒋介石にうった電報を軍が読んで、憲兵が私に尾行しておったと云うことが後になって判りました。ともかくも何事もなく二週間で帰されてよかったわけですが、結論は近衛公の私的な依頼を公的な命令だと思ったことが間違いだったという始末書を書けと言われまして、先方で書いて来た書類に署名してそれで済んだのであります。
 
 
                                             (おわり)
 

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