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「日本開国の父」福沢諭吉の義侠心からの「韓国独立支援」はなぜ逆恨みされたか「井上角五郎伝」から読み解く①

      2015/01/01

  

 

日本開国の父」『近代民主主義者』の福沢諭吉

の義侠心からの「韓国独立支援」はなぜ

誤解、逆恨みされたのかー

福沢の一番弟子「井上角五郎伝」から読み解く①

 

<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和18刊、570P、非売品)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8E

の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)から、転載する>」


前坂俊之(ジャーナリスト)

 

第二章 韓国顧問時代――『大院君の乱』

 

  明治十五年(二十三歳)、慶應義塾を卒業した年の十二月に、先生(井上角五郎)は重大な使命をおびて朝鮮に向かって出発した。

 

 

こゝに先生の巨大なる第一歩が踏み出されたので、これから四年間にわたって朝鮮半島文化啓発の大任をつくすと共に、我が大陸進出の先駆戦に従事したのであった。

 

  明治維新後、わが国力の発展に伸なって朝鮮との関係が重大問題となってきたことはいうまでもなく、早くも征韓論の激発を見たのであったが、其の後明治九年には日韓修好條約

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F

 

が成立して、我が国は率先して韓国を独立国として待遇したのである。

 

しかるに韓国の態度は相かわらず動揺、不安定で、朝鮮半島は日本・清国(中国)・ロシアの勢力角逐の場所となり、かつ、英・米・仏の諸国もまた野心の目標として虎視耽々たる状勢であった。

 

  福沢諭吉

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89

 

はつとに日本の国権を拡張するために、欧米の勢力が支那(中国)及び朝鮮に侵入するのを防止する必要を痛感し、なかんずく焦眉の問題として対朝鮮製策について考察し.たびたび「時事新報」にもその卓見を発表していた。

 

一方に後藤象二郎伯

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E

 

もまた征韓論を主張して下野した位であるから朝鮮問題には深い関心を持っていたので、両氏は互に意見を交換したが、手紙を以てするときは後日に残るところがあるので、総べて口上を以てし、その口上の取次役は先生(井上角五郎)に命ずるのが定例で、時によると先生は一日の中に数回も両邸の間を往復させられる事があった。

 

この使番を一年ばかりもやっているうちに、先生もすっかり朝鮮事情に通じ福沢翁、後藤伯の意見、また日本政府の朝鮮に対する方針をも知り、同時に朝鮮に対する関心も次第に高まるに至った。

 

 

ちょうどその頃、明治15年年7月に朝鮮に変乱が勃発した。いわゆる、大院君の乱(壬午事変)

であって、端なく先生(井上角五郎)渡韓の機縁となったのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E4%BA%8B%E5%A4%89

http://maesaka-toshiyuki.com/war/detail/2107

http://maesaka-toshiyuki.com/war/detail/2110

 

 

 

 当時の韓国王は李朝第26代李太王

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97_%28%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%29

 

であったが、その国位継承は十八年前の我が元治元年で、常時わずか13歳であったから、その生父・李是が推されて摂政となり、大院君

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B

http://maesaka-toshiyuki.com/tag/6465

http://maesaka-toshiyuki.com/tag/7561

 

と尊称されたのである。その後、大院君は精悍の資を以て鋭意.内治を図るとともに攘夷・鎖国の主義を執りますます外敵を撃退し一時は威望隆々たるものがあった。

 

しかし一面には種々の失政もある上に、王妃閔氏の族とその党は勢力が次第に強くなって、百方で大院君の施政を妨害した。その内、明治六年には、国王も二十三歳に達して自ら国政に当たることを望んで大院君の勢力を厭うに至ったので、大院君は自ら病と称して一旦退居したのであった。

 

 

 然るに、人民の中には大院君の治政を思うものもなかなか多く、その翌明治七年には三道の儒生が連合して上奏し、不孝を痛言して国王諌めるに至った。

 

そこで大院君は再び迎られて官延に入ったけれども、実権はやは閔氏一族にあって、大院君にはまた昔日の威望なく、欝々として不平の境地にあった。

 

 国王の施政方針は大院君とは反対の進歩主義で、広く海外各国の文明をとり入れて自国の開明を図ることを欲し、政府部内にも進歩主義者の一団があってこれを助け、当時、これから陸軍中尉・堀本礼造氏その他数人を招して軍事教練を行い、金玉均・徐光範等の有為の青年を日本に遣はして文物制度を視察させ、大いに国政の改革を図ろうとしていた。

 

これらの新政に大院君は固より甚だ不平であったが、多年大院君の配下に養成されて来た旧式の兵士の一団も是深く大院君を徳とすると共に、これらの新政にはあげて反感を持ち、事毎に抗争妨害して、其の対立は次第に激化してきた。

 

 

たまたま閔氏の一族の閔謙が兵曹判書(兵部大臣)の職にあって、兵士の食料を私すること数ヶ月に及んだので、明治十五年七月二十三日、兵士は決起して閔謙鎬の家を囲んで破壊し、閔謙を殺し、さらに大院君に訴えて閔族一党を斬殺する令を得ることになった。

 

大院君はこれを幸いとして鎮撫を名として密かに指揮して、閔族の巨頭を斃して、多数の廷臣を殺害し、転じて我が堀本中尉以下七名を虐殺し、勢に乗じて我が公使館を襲撃した。

 

 

当時の公使館には護衛兵がなかったので弁理公使・花房義質氏、書記官近藤真鍬氏等は館員を指揮して力戦7時間に及んだが、韓兵がついに火を放って迫ったので、囲みを突いて仁川に走り、済物浦に入り月尾島に上り英船に救われて漸く虎口を脱し、同月三十日,一行二十人名長崎に着いて東京へ急報した。

 

 

我が政府は時を移さず直ちに軍艦数隻を派遣して居留民を保護し同時に陸軍少将高島鞆之助、海軍少将仁礼景範に兵二中隊を率いて護衛にあたらしめ、外務卿井上馨氏は自ら下関に出張して訓令を伝へた。

 

そこで花房公使は護衛の海陸軍と共に朝鮮に至り、八月中旬に進んで京城に入り、韓延と談判を開こうとしたが、韓廷は首を左右に託してなかなか決答をしない。

 

公使が憤然として袂を分かち京城(ソウル)を去り、済物浦に至るに及んで、韓延は初めて全権大臣を遣はして談判をさせ、しばらく成若立を見たのがいわゆる済物浦条約である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E7%89%A9%E6%B5%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

http://www.japanesemission.com/detail/2170

 

その要点は韓国から償金50万円を五年間に支払う事-遭難者に弔慰金5万円をおさめる事、韓延は大臣を日本に派して謝罪する事などであった。

 

                      つづく

 

 

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