前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『オンライン講座・日本戦争外交史④』★『日露戦争・樺太占領作戦②―戦争で勝って外交で敗れた日本』★『早くから樺太攻略を説いていた陸軍参謀本部・長岡外史次長』★『児玉源太郎の一喝!で決まった樺太攻略戦』

   

 

 児玉の一喝で決まった樺太攻略戦

ここで長岡は一計を案じた。元老たちが頭の上がらぬ児玉総参謀長にもう一度ご登場願い、局面を打開しようと考えたのだ。そして御前会議で樺太攻略作戦が延期された六月十二日、児玉大将と長岡の二人だけが分かる特別暗号電報を打って、樺太攻略作戦実施のプッシュを願い出たのである。
翌々十四日、児玉から返電があった。「絶対的に休戦を拒絶し、ロシアの痛いところを攻め立てて、談判が一日おくれれば一日だけの要求が大きくなることを敵に痛感させる。そのためにはサガレン(樺太)に兵を進めこれを占領し、ウスリーに向っても前進を継続し、満州軍でも準備出来次第、猶予なく地歩をすすめて、一大打撃を与えることが、講和談判をすみやかに解決する道である。児玉自署す」

 

大喜びした長岡は、さっそくこの返電を石版刷りにして首相、外相、陸相をはじめ、手の届くかぎりの関係者に配布した。山県参謀総長には何も言わずにナマの電報を差し出した。そして児玉にお礼の電報を打った。

「百年に一人の戦略家」児玉源太郎大将の指示に、元老、政府首脳陣は態度を一変させた。

六月十五日、山県参謀総長を中心に桂首相、寺内陸相、小村外相、曾禰蔵相などが鳩首(きゆうしゆ)協議し、樺太攻略作戦はまたたく間に決定された。山県は長岡に言った。「北韓軍も前進させる、樺太占領もやることに一決した。かねての計画通り手落ちなく進めることにし給え」(谷寿夫『機密日露戦史』)

長岡は参謀副官一同を次長室に招き、シャンパンを抜いて杯をあげ、決定事項を告げて万歳を三唱した。こうして樺太攻略作戦は六月十七日に天皇の裁可が下り、新設の独立第十三師団に出動命令が下された。二個旅団編成の第十三師団長原口兼済(はらぐちけんさい)中将指揮の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第三、第四艦隊からなる北遣艦隊(司令長官・片岡七郎中将)に護送されて七月七日早朝、樺太南部のアニワ湾に侵入、メレヤ村(女麓)の海岸線から上陸を開始した。

当時、樺太のロシア軍は歩兵一個大隊、民兵約二千、砲兵一~二個中隊程度で、防衛軍と呼べるものではなかった。民兵の多くは囚人や高齢者が多い寄せ集め部隊で、散発的な抵抗はあったが、日本軍の敵ではなかった。

七月九日には樺太南部の要衝コルサコフ(大泊)を占領、二十四日には師団主力が北部のアルコワ付近へ上陸、二十七日までに樺太北部の要衝アレキサンドルフとルイコフを占領し、ポーツマス講和会議が始まる前の七月三十一日にロシア軍が降伏して樺太全土を制圧した。

↓ 樺太での日本とロシアの降伏会見(ハムスサダで、明治38年7月1日)

予定以上に早く作戦完了したため、長岡参謀次長はカムチャツカの占領計画を起案した。カムチャツカも樺太同様、守備兵もほとんどいない。樺太派遣軍をまわせば容易にかたづけられたが、これは山県参謀総長の反対で実現しなかった。

「講和談判を有利に導く唯一絶対の力は講和大使の能弁でも、駆け引きでもなく、軍の威力をのばして敵を説服させることだ」

とは児玉の言葉だが、もし樺太全土を占領していなければ、ポーツマス講和の交渉は日本側にもっと不利なものになっていただろうし、カムチャツカも占領しておけば、さらに有利に展開できたことは間違いない。

「百里の道も九十九里で半ばとす」とのことわざ通り、連戦連勝に舞い上がっていたのか、日本軍は最後の詰めを欠いたきらいがある。いずれにしても長岡のインテリジェンス(先見の明が)光るケースであった。

 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
<日中韓三国志・新聞資料編>『日清戦争の原因の1つの金玉均暗殺事件の真相とは・・・・』

<日中韓三国志・新聞資料編>   『日清戦争の原因の1つの金玉均暗殺事 …

「終戦70 年」ージャーナリスト高杉晋吾氏が「植民地満州国の敗戦地獄」の少年体験を語る(3/3)

「終戦70 年」歴史ジャーナリズム)ージャーナリスト高杉晋吾氏が 「植民地満州国 …

no image
日本メルトダウン脱出法(577)●『香港民主派デモ:天安門以来の難局に直面する中国』(英FT紙)●「香港民主化デモ特集」

 日本メルトダウン脱出法(577) <チャイナリスク再び!> &nbs …

no image
「日本敗戦史」㊴徳富蘇峰が語る『なぜ日本は敗れたか』⑤「昭和天皇の帝王学とリーダーシップー明治天皇と比較」

『ガラパゴス国家・日本敗戦史』㊴   『来年は太平洋戦争敗戦から70年目―『日本 …

no image
『オンライン/日本史戦争500年講座』★『太平洋戦争と新聞報道』<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年の世界戦争史の中で考える

  再録『世田谷市民大学2015』(7/24)-   『太平 …

 『オンライン講座・日本リーダーパワー史研究・山県有朋とは一体何者か!』★『国葬で菅元首相が読み上げた弔辞で紹介された山県有朋が一躍トレンド入りをした』★『政党政治の父・原敬は藩閥政治の元凶・山県閥をどう倒したか』(服部之総の「原敬百歳」を読む)

日本リーダーパワー史(289)「政党政治の父・原敬は藩閥政治の元凶・山県有朋をど …

『葛飾北斎の「富嶽三十六景」を追跡―富嶽を撮影する湘南絶景ポイントを紹介する』③『逗子なぎさ橋珈琲店テラス、逗子海岸から撮影(12月22日午前7時)』★『鎌倉材木座海岸からみる富士山(動画)』

  暮れも押し迫り木枯しが舞う今日このごろの12月。湘南から拝む富士山 …

no image
[ オンライン講座/清水寺貫主・大西良慶(107歳)の『生死一如』12訓★『 人生は諸行無常や。いつまでも若いと思うてると大まちがい。年寄りとは意見が合わんというてる間に、自分自身がその年寄りになるのじゃ』

清水寺貫主・大西良慶(107歳)の『生死一如』   人生は諸行無常や。 …

no image
日本リーダーパワー史(521)『「明治の国家参謀・杉山茂丸に学ぶ」⑤そのスピーチ力・プレゼン力」はどこから生まれたか。

    日本リーダーパワー史(521) &nbsp …

no image
日本リーダーパワー史(516)日清戦争120年➂高陞号事件で見せた東郷平八郎の「国際法遵守」が日本勝利を決定した。

 日本リーダーパワー史(516) 日中韓150年パーセプションギャップ …