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日本経営巨人伝⑬伊藤伝七ーーーわが国紡績界の創始者・三重財界の重鎮の伊藤伝七

   

日本経営巨人伝⑬伊藤伝七
 
が国紡績界の創始者・三重財界の重鎮の伊藤伝七
 
伊藤伝七翁
昭和11
絹川太一
伊藤伝七 1852-1924
(解)前坂俊之
00.09
13,500
大空社
 
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
 
 
 
  伊藤伝七はわが国の紡績界の創始者の一人であり、三重財界の重鎮として活躍した企業家である。明治から昭和戦前までの紡績界のリーダーといえば、山辺丈夫、武藤山治、和田豊治らの名前がすぐ挙げられるが、伊藤は明治初期に三重紡績の創設者、東洋紡績社長となった先駆的な人物である。
 
  伊藤伝七は嘉永五年(一八五二)六月、伊勢国三重郡四郷村室山で、九代目伊藤伝七と母みすの長男として生まれた。伊藤家は農業を営みながら、質屋、木綿仲買業、清酒の醸造業を営み、九代目は清酒「八島」を創醸して、維新の際には二千七百石の酒株を所持、藩からの公儀の酒造取り締まりや米問屋、開拓方にも従事していた。
  幼名は伝一郎。母みすは四歳のときに病死した。父はすぐ再婚して、弟二人が生まれたが、後妻も又、病死して、三度目の結婚をするが、これまた亡くなるという相次ぐ不幸に見舞われた。
 
  元治元年(一八六四)、伝七が十三歳の時、代官所から父の公儀の代理に命じられ、名字帯刀を許された。明治四年、廃藩置県による区制制定と同時に副戸長に就任した。同八年、二十四歳で四日市の鈴木吉兵衛の二女まさ子と結婚した。
 
 わが国のトップを切って機械紡績に着手した薩摩藩は、慶応三年に英国から三、六〇〇鐘の紡機を輸入して鹿児島紡績所を設立、明治三年にこの分工場として大阪堺に堺紡績所を作った。父伝七が文明開化のシンボルとして紡績に注目したのはこの頃であった。
 
 綿糸の輸入は明治になってからうなぎのぼりに増え、明治元年には百万円、三年は四五〇万円、五年には五三〇万円と、明治元年から十年までのわが国の全輸入額の三〇%を占めるまでになり、正貨の流出が激しく国家経済を直撃した。父伝七は外糸の輸入を阻止して内国綿糸を興隆させため、機械紡績を興すことを念願していた。
 
 伝七父子は富岡製糸、横須賀造船や各地の工場を回って動力をいかにするか、紡績の機械構造などについて研究を続けた。明治十年に父の意を受けて伝七は綿糸紡績業の調査を行うため、ついに堺紡績所に一介の見習工として入った。工員としての作業を行ないながら、紡績に必要なすべての業務、工場内での人の配置、機械の動き、作業から工程に関する実地指導、帳簿の整理などすべてを学んだ。
 
 工場見習いを終了して帰宅した伝七はさらに強い情熱を持って工場の設置、実現に向けて研究した。その結果、水力を動力として紡績所を運転する方法がよいことを父に報告した。さらに、三重県の勧業委員となって、明治十二年には内務省に出頭して紡績機の払い下げを陳情した。
 
 明治十五年(一八八二)九月、故郷に近い川島村(三瀧川流域)に面積約五千平方メートル、払い下げを受けた紡績機を設置して、わずか紡錘二、〇〇〇錘だが工場を作った。これが三重紡績の前身である。すべてが手さぐりで始めたこの工場は失敗続きだったが、それは規模が小さいためであった。
 
 翌年、伝七が三十二歳の時、父が亡くなったが、その遺志を継いで綿糸紡績業に専念することを決意、石井邦三重県知事の紹介で、渋沢栄一と面識を得て、その資金援助を仰いだ。
 
 今度は規模の拡大をはかり、渋沢栄一の全面的な支援で株式会社とすることになった。地元の人々は川島工場の失敗で金を出さなかったが、渋沢の応援に驚いて、資金が集まった。渋沢は資本金二十二万円のうち半額の十一万円の募集については自らが行い、四日市で発起人を集めて紡績工場建設の手筈を整えてくれた。
 
  明治十九年、伊藤は四日市に紡錘一万四四〇錘を備えた大工場を建設した。伊藤は翌年三月に支配人に就任し、同工場の技師長には工学博士斎藤恒三を大阪造幣局から招いた。三重紡績の成立、発展には斎藤の功績も大きかった。
 
 初期の紡績業では大阪紡績株式会社が近代的な紡績業の基礎を築くのに初めて成功した。これには渋沢栄一が大きな役割を果たしたが、伊藤伝七の三重紡績も同じように地元の資金では足りず、渋沢の援助を受けて発足して、大阪紡績に次ぐ一万錘規模の工場を創った。
 
  当時、紡績には国の手厚い保護育成があったにもかかわらず、技術的、財政的に国も民間のほとんどの紡績所が失敗して悲惨な状況にあったが、その中で大阪紡績と伊藤の三重紡績だけが発展していった。
 
  三重紡績はそれまでは麻糸製で高価だった漁網を、初めて綿糸での製造に成功した。また、インド綿の輸入を率先して行った。インド綿は安く、品質が良好だったため、各社も競ってこれを見習った。
 
  三重紡績は次々に工場を拡大し、他の工場を合併していった。二十二年に第二工場、二十六年には名古屋に分工場、三十年には津市にも建設、三十四年には伊勢紡績を買収、三十八年には名古屋にあった関西紡績と合併し、三十九年には津島紡績、大阪西成紡績、四十年には桑名、知多の両紡績所などを次々に買収して、新工場を作っていった。
 
三重紡績の発展ぶりを見ると、スタートした川島時代は資本金三万五千円、錘数もわずか二千本に過ぎなかったが、二十二年には三十五万円、三万錘、三十年には二五〇万円、七万四、六〇〇錐と拡大し、相次ぐ合併、買収によって四十年には資本金九六〇万円、紡績機二十一万九、〇〇〇錘、撚糸機五、七〇〇錘を備える大躍進ぶりで、二十一万八、〇〇〇錘の鐘紡を抜いて、わが国最大の紡績会社となった。
 
 伊藤は優れた経営手腕を発揮して数年後に三重紡績を大阪紡績を上回る二十五万錘規模の当時日本一の大工場に育て上げた。
 大正三年(一九一四)六月、三重紡績は大阪紡績と合併して、文字通り日本最大の紡績会社・東洋紡績が誕生した。合併の背景には両社とも渋沢によって設立され、ともに渋沢が相談役についているという姉妹的な関係にあり、その製品や販売市場も同一であり、合併のメリットが最大限活かせるという判断があった。
 
 社長には大阪紡績の山辺丈夫が就き、副社長には伊藤が就任した。東洋紡績は資本金一、四二五万円、本社は四日市に置かれた。東洋紡の誕生によって、紡績界は以後、東洋紡、鐘紡、富士と並んで三大紡績時代になっていく。
 
 東洋紡は資本金や諸種立では鐘紡、富士とほぼ互角だが、錘数では四十四万本、(鐘紡四十一万本、富士十九万本)と多く、織機では一万台(鐘紡五千本、富士千二百本)と他の二倍以上とズバ抜けて多かった。三大紡績を比較すると、いかに東洋紡が財政堅固で規模が大きかったかは一目瞭然で、しかも、時代は綿布輸出が中心となってきており、東洋紡に有利であった。
 日露戦争から第一次世界大戦までの間は、継続的な不況が続いていたが、大正三年に大戦が勃発すると、紡績業界も一転して大好況に突入して、綿布の輸出が激増し、綿物の需要が爆発的に増加して黄金時代が現出した。
 
 大正五年、伊藤は六十五歳で東洋紡の社長に就任し、古希に達した大正九年に辞任して後進に道を譲った。この間の東洋紡の躍進は利益が十倍の一、一六〇万円、配当金も七倍の七分、棲立金は二十倍、配当率も一割二分から六割という目を見張るものであった。
 
伊藤は本業の紡績業と同時に財界活動にも活躍して、明治二十六年に四日市商業会議所副会頭に選ばれ、二十七年には日印貿易合資業務担当委員、四日市倉庫取締役、三重鉄工所取締役、三重県農工銀行取締役、伊藤メリヤス商会相談役、四日市製紙取締役、東海倉庫取締役、豊田式織機監査役、大日本ホテル取締役、福寿生命保険取締役、愛知電気鉄道監査役、三重軌道取締役などを工業、保険、電鉄など幅広く歴任し、三重や中京財界の重鎮でもあった。
大正十三年(一九二四)八月、七十三歳で伊藤は亡くなった。
 
本書は絹川太一編『伊藤伝七翁』(伊藤伝七翁伝記編纂会発行、昭和十二年、非売品)の復刻である。
伊藤の伝記は本書が唯一のものであり、質の高さ、資料の正確さでは決定版といってよいものである。綿糸紡績業を独学と不屈の精神で立ち上げ、三重紡績の基礎を築き、大阪紡績との合併、東洋紡績の設立と近代綿紡績の歩みを伝記を通して知ることができる。先駆的な経営者の苦闘史としても興味深く、日本経済史、紡績史の研究に有益な資料でもある。
 
         (2000年執筆、静岡県立大学国際関係学部教授)
 
 

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