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野口恒のインターネット江戸学講義⑧>第3章 町人文化を創った出版文化のネットワ-カ-(下)「十返舎一九」ら

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義⑧>
 
第3章 町人文化を創った出版文化のネットワ-
カ-(下)蘭学隆盛を仕掛けた「須原屋市兵衛」、武士を捨てた
「十返舎一九」の波瀾な生涯、“戯作者魂”を発揮した山東京伝
 
野口恒著(経済評論家)
 
 
蘭学を日本に紹介し、蘭学隆盛を仕掛けた「須原屋市兵衛」
 
 江戸の出版プロデュ-サ-として蔦屋重三郎と共に大きな役割を果たしたのが須原屋市兵衛である。須原屋は茂兵衛を元祖として暖簾分け・分家を行い、そのグル-プである須原屋一統は江戸の出版界で一大勢力を成していた。
 
須原屋茂兵衛は「武鑑」や斎藤月岑の「江戸名所図会」「武江年表」を刊行するなど、「江戸書林の魁」といわれた出版界の大物であった。武鑑とは、諸大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、相続、参勤交代の期日、家紋、旗指物、重臣などの情報を掲載したハンドブックのような本である。
 
須原屋市兵衛は茂兵衛の大店で修行し、その後暖簾分けして分家筋を名乗った。彼の正確な生年は不詳であり、蔦重より十歳以上先年上ではないかと言われている。独立してから日本橋・室町二丁目に自分の店「申淑堂」を構え、宝暦10年(1760年)に最初の書物「寒葉斎画譜」(建部涼袋)を出版した。
 
出版プロデュ-サ-としての市兵衛の功績は日本に蘭学を紹介し、蘭学隆盛を牽引したことにある。なかでも特筆されるのは、日本最初の西洋解剖学訳述書である杉田玄白「解体新書」を安永3年(1774年)に出版したことである。
 
杉田玄白はオランダ解剖図譜「タ-ヘル・アナトミア」を前野良沢、中川淳庵、石川玄常、桂川甫周ら蘭学者と協力し、4年間の歳月を費やして苦労の末に翻訳した。挿絵は秋田角館の城代家臣で蘭画家として活躍した小野田直武が描いた。その解体新書を発行したのが須原屋市兵衛である。彼は杉田玄白が82歳のときに描いた、解体新書刊行時の苦心談や蘭学初期の回想談をまとめた「蘭学事始」も出版している。
 
「今時、世間に蘭学といふ事専ら行れ。志を立つる人は篤く学び、無識なる者はみだりにこれを誇張す。その初めを顧み思ふに、昔、翁二三人、ふとこの業に志を興せし事なるが、はや五十年にちかし。
 
今頃かく迄に至るべしとはつゆ思ざりしに、不思議にも盛んになりしことなり。漢学は、中古に遣唐使といふ者を異朝に遣され、或いは英遇の僧侶などを渡され、直にかの国の人に従ひ学ばせ、帰朝の後、貴賎上下へ教導のためになし給ひし事なれば、ようやく盛んなりしはもっともな事なり。
この蘭学ばかりは左様の事にもあらず。しかるに、かく成行しはいかにと思ふに、それ医家の事は、その教えかたすべてに実に就くを以って先とする事ゆえ、却って領会する事速やかなるか、又は事の新奇にして異方妙術もある事の様に世人も覚え居たる事ゆえ、奸猾の徒、これを名として、名を釣り、利を射る為に流布するものなるか。(中略)
 
この時、和蘭解剖の書も初めて手に入れし事なはれば、照し視て、何れかその実否を試べしと喜び、一かたならぬ幸の時至れりと、かの処へ罷る心にて、殊に飛揚せり。さて、かかる幸を得しことを、独り見るべき事にもあらず、朋友の内にも、家業に厚き同志の人々へは知らせ遣し、同じく視て。業事の益には相互になしたきものと思ひ量りて、まず同僚中川淳庵を初め、某誰と知せ遣せし中に、かの前野良沢へも知らせ越たり」(杉田玄白「蘭学事始」)
 
蘭学事始は杉田玄白が文化12年(1815年)に書いた回想録である。蘭学の沿革を述べ、初期の蘭学者の苦心談を晩年に回想したもので、とくに「解体新書」翻訳のときの共同研究の苦心談は圧巻である。
 
市兵衛は、江戸の博物学者で作家(戯作者・画家)でもあった天才・平賀源内に心を寄せ、彼の大ファンであった。平賀源内の博物学者としての主著ともいうべき「物類品隲」(物産会に出品された物品類を源内が精選して解説したもの。
 
挿絵は源内と交友のあった宋紫石が描いた)、江戸言葉で始めて書かれた浄瑠璃本「神霊矢口渡」を出版しただけでなく、すでに刊行されていた「根南志具佐」(ねなしぐさ)、「風流志道軒伝」などの版権を買い取って再出版した。源内との交流を通じて知り合った同じ蘭学者仲間の平秩東作や森島中良の本まで引き受けて出版した。
 
須原屋市兵衛が蘭学者や蘭画家と深い交流を持ったのは、室町二丁目の申淑堂の近くにあった長崎出島のオランダ商館長一行が江戸参府のときに定宿にしていた旅館「長崎屋」の存在が大きかった。
 
申淑堂と長崎屋の地理的な近さが、須原屋が蘭学の紹介や出版に取り組む大きなきっかけになったものと推察される。長崎屋にはオランダ人だけでなく、蘭学者や蘭画家、医学者や博物学者の人たちが世界の先端知識や情報を求めて集まり、濃密な交流をしていた。
 
当然、彼らは近くにある出版社「申淑堂」に立ち寄り、主人の市兵衛と交流することでさまざまな出版企画の話を持ち込んだり、相談したりしたものと想像される。市兵衛も彼らとの交流や信頼関係を築いていくうちに、わくわくするような知的興奮と刺激を受けたであろう。彼らの知的活動を経済的にも支援し、蘭学を日本に紹介するだけでなく、蘭学隆盛の機運を積極的に牽引していこう。
それを出版人としての使命にしようと彼は考えた。彼は蔦重と同様に、出版人としてそれだけの志と思想を持った気骨の人でもあった。
 
須原屋は、平賀源内、杉田玄白、森島中良らの著作の他に、中根玄覧の「地図一覧図」、長久保赤水の「大清広輿図」など世界地図や地理書などの啓蒙書も出版している。また本格的な医学書として、医学者・蘭学者であった宇田川玄随が書いた日本最初の西洋内科書「西洋内科撰要」(ヨハネス・デ・コルテル著「簡明内科書」を訳したもの)も出版した。
 
 しかし、出版統制の緩やかな田沼時代から統制の厳しい寛政時代へと、時代の変化は出版人、作家や知識者たちにとってあまりに厳しいものがあった。
 
あれほど日本に蘭学を紹介し、世界に窓を開き、蘭学隆盛を牽引した須原屋も出版統制の厳しい寛政期になるとさすがに出版事業は衰退し、52年間に200点以上の本を出版した華やかな出版活動も幕を閉じねばならなかった。市兵衛自身も文化8年(1811年)失意のうちに亡くなった。蔦屋重三郎と須原屋市兵衛は江戸に「出版文化」という新しいジャンルを確立した開明的で革新的な出版人である。
 
武士を捨て、作家稼業を選んだ「十返舎一九」の波瀾な生涯
 
 蔦重の庇護のもとで戯作者として修行を積み、ベストセラ-作品「東海道中膝栗毛」の出版で東海道ブ-ムを巻き起こし、一躍江戸最大の大衆作家になった十返舎一九(1765~1831年)の生涯は、成功と挫折を繰り返し、貧乏と戦いながら創作活動に励む、この時代に活躍した戯作者たちの典型例でもある。
 
一九は、駿府(今の静岡県)の生まれである。本名は重田貞一(しげたさだかつ)といい、十返舎一九はもちろん号(ペンネ-ム)である。彼が大阪にいる頃に学んだ香道の名香「黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」と呼ばれた。ペンネ-ムの「十返舎」はここからとり、「一九」は彼の幼名の市九から来ている。
 
彼の人生はじつに波瀾と曲折に富んでおり、彼は出奔と放浪を繰り返し、一所に落ち着かない根無し草のような人生を送っている。作家を志してからとんとん拍子に出世して流行作家に成ったわけでは決してない。彼はもともと武士の出身で、父親は代官とも千人同心ともいわれる。青年になってから駿府町奉行の土佐守に仕え、一時江戸に移り住み、武家奉公した。
 
その後、土佐守が大坂町奉行になったのに伴って大坂に移る。その間おとなしく宮仕え稼業に勤しんでいたかといえばそうではない。ある日突然、宮仕えをすっぱり辞めて義太夫語りの師匠の家に転がり込み、居候の身となった。彼がなぜ突然脱サラしたのかその理由はわからないが、30歳ぐらいまで大坂や京など上方を放浪していたといわれる。
 
一九は、大坂時代に材木商の跡取り娘に惚れられて結婚し、入り婿となった。しかし、もともと商売にまったく関心のない彼は義太夫や香道(香をたいて楽しむ芸道)等に熱中していたため、やがて姉さん女房から三行半を突きつけられて離婚した。そして30歳になると、またも突然出奔して江戸に出た。
 
知り合いのつてで、当時江戸出版界の大立者・蔦屋重三郎を紹介され、日本橋・通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)にあった蔦屋の家に食客として居候した。その頃は蔦屋も出版経営が厳しいときで決して経済的に豊かではなかったのだが、一九の才能を見込んで食客にしていた。ただ食客といっても一九はそれほどの大物ではないので、蔦屋の店で用紙の加工や挿絵描きなどの仕事を手伝ったりしていた。彼が戯画に文章だけでなく、絵も器用に描くのを見た蔦屋は彼の才能を見抜き、黄表紙(今でいう大人の劇画マンガ本に近い)を描いてみないかと薦めた。
 
さすがに名伯楽といわれた蔦屋は人の才能を見抜くのに長けていた。そのとき、彼が描いたのは江戸の遊郭吉原の遊女と客とのやりとりであった。もともと彼の吉原通いは洒落本の人気作家山東京伝と並んで有名であった。吉原の光景を描くのはかつて知った馴染みの題材であった。
 
一九は狂言、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、落語、川柳など芸事全般に詳しく、狂歌も寛永期に修行し、それらを作品の素材に生かした。やがて黄表紙・人情本、合巻、狂歌集などいろいろな作品を書き、その数は120種以上に及んだ。
 
しかし、当時の彼はまだ流行作家として世の中に広く認められるほどのものではなかった。その間に彼は町人の娘と結婚してまたも入り婿となってその家に入るが、度重なる吉原通いがばれて追い出されてしまう。風流三昧の道楽がたたって離婚を繰り返したが、二度も結婚して入り婿になっているのを見ると、女性には相当もてたらしい。
 
不遇をかこっていた一九に思わぬ幸運の女神が訪れたのは享和2年(1802年)、彼が37歳のときであった。当時まだヒット作品がなかった一九は、東海道中膝栗毛の出版企画を提案、本の文章や挿絵そのうえ版下まで清書するという器用さや安直さに版元の村田屋治郎兵衛がのり、出版したのが「東海道中膝栗毛」(本名題「道中膝栗毛」)であった。
 
お世話になった蔦重は「旅行記など売れないだろう」と出版に難色を示したので、代わりに村田屋が版元を引き受けた。これが村田屋も一九も予想さえしなかったロングセ-ラ-となった。
この作品は、当時庶民が抱いていた「一生に一度でいいから、京や大坂、東海道を旅してみたい」という強い憧れや願いを汲み取って、弥次さん喜多さんがおもしろおかしく旅をする滑稽本にしたものだ。大衆作家としての一九の才能がいかんなく発揮されている。
 
この本はその後21年間も続刊(シリ-ズ本)が次々と出版されるほど人気があった。これで、一九はたちまち流行作家となり、その後も読本、人情本、咄本などあらゆる分野の作品を書き、黄表紙や合巻だけでもその数は360種以上に上った。
 
一九はこれほどの流行作家であったにも関わらず相変わらず貧乏で、生涯根無し草のような生活であった。文化7年(1810年)46歳のときに目を病み、その後しばしば再発した。
また文政5年(1822年)58歳になると中風を患ったりして、晩年は貧乏と病気に苦しみ、67歳で孤独のうちに寂しく亡くなった。壮年期にありあまる才能を発揮して成功のチャンスを掴みながら、晩年の人生は決して幸せといえなかったようだ。
 
秋霜烈日の厳しい時代も生き抜き、“戯作者魂”を発揮した山東京伝
 
 寛政の時代になると、江戸の出版文化を代表する蔦屋重三郎の耕書堂や須原屋市兵衛の申淑堂まで経営難に陥り、多くの作家(戯作者)たちも発表の機会と生活の場を失い、経済的にも追い詰められていった。
ある者は生活のために職替えをし、他のものは二度と筆をとることがなかった。寛政期は出版人や作家たちにとってまさに秋霜烈日の厳しい時代であった。そんな中で、厳しい時代をしぶとく生き抜き、プロの戯作者魂を発揮した人物がいる。それは“江戸の出版文化の雄”ともいわれた山東京伝である。
 
 山東京伝は、寛政3年(1791年)に出した、深川遊女を描いた洒落本三部作「娼妓絹籭」「錦之裏」「仕懸文庫」が風俗を乱すという理由から発禁処分になり、作者の京伝は手鎖50日、版元の蔦重は動産・不動産など財産半減の刑に処せられたのである。原稿料で生活しているプロの戯作者である京伝は、厳しいこの処分に精神的にも、経済的にも大変なショックを受けた。
彼はいっとき職替えを決意し、江戸・京橋に紙製煙草入れの店を開き、商売に専念したほどだ。それまでの戯作者は余技で書いているものがほとんどで原稿料もなかったのである。プロの戯作者として原稿料が支払われたのは山東京伝が最初であった。
 
 煙草入れの商売のほうは、彼がデザインした煙草入れが意外と庶民の間で大評判となり、商売は大いに繁盛した。しかし、根っからプロの戯作者である京伝は、煙草入れの商売がうまく行っているからといって自らの戯作者魂まで捨てたわけではなかった。
 
彼は厳しい秋霜烈日の時代を商売のやりくりでしぶとく生き抜きながら、やがて戯作者の意欲も回復してきたので、洒落本から手をきって歴史や伝説を題材にした読本の作者として再出発したのである。そして、読本の分野でも多くの作品を発表し、当時読本作家として地位を築きつつあった曲亭馬琴と並んで、新しい江戸読本の世界を確立したのであった。
 
 山東京伝が書いた江戸伝奇小説の代表作「復讐奇談安積沼・桜姫全伝曙草子」は、親の敵を尋ねる美少年喜次郎、妻の密通相手に殺される役小幡(こはだ)小平次。陸奥を舞台に孝子(こうし)の復讐と怨霊の祟りを描いた「安積沼」と、叶わぬ恋に狂う破戒僧清玄、様々な怪異に魔されて離魂病を患う桜姫、美女玉姫の怨霊に翻弄される鷲尾家の転変を描いた「桜姫全伝曙草子」から成っている。
 
 「桜姫全伝曙草子」は歌舞伎でも取り上げられ、江戸伝奇小説の傑作である。その粗筋はだいたい次のような内容である。
 
 江ノ島の僧清玄は稚児の白菊丸と心中する。しかし、清玄だけが助かり生き残ってします。数年後、新清水寺の高僧となった清玄のところへ、京の名家の息女である桜姫が尼になるためにやってくる。桜姫は父と弟を何者かに殺され、貴重な家宝も奪い取られてしまう。さらに、屋敷に盗賊として忍び入った釣鐘権助に陵辱され、妊娠してしまうのである。桜姫が白菊丸の生まれ変わりと知った清玄は桜姫につきまとうようになる。
 
しかし、権助のことが忘れられない桜姫は清玄を拒絶して相手にせず、ついには誤って清玄を殺してしまうのである。権助の女房になった桜姫は生活のために女郎屋に身を売り、遊女に転落して風鈴お鈴と名乗る。生まれつきのお姫言葉や上品な仕草が客に受けて客の人気を集めるが、いつしか桜姫の枕元には幽霊が出るという噂が広まる。
 
それは、何と清玄の亡霊の仕業であった。ある夜のことである。清玄の亡霊から、父と弟を殺し、家宝を奪ったのは権助であると桜姫は聞かされた。父・弟殺しの犯人が権助であることを知った桜姫は、権助が酒に酔いつぶれたときに自らの手で権助を殺してしまい、家宝をも奪い返すという、最期は誰も救われることのない非常に悲しい物語である。
 
京伝のこの作品は、読むうちについつい引き込まれてしまう不思議な魅力があり、江戸読本・怪異伝奇小説の傑作といえよう。
 寛政の出版取締りで発禁処分を受けた後、京伝のしたたかな生き様には学ぶところが多いのである。それは多彩な才能を持っていて、どんな時代にもしぶとく生き残る術を心得た京伝だからできた芸当かもしれないが、江戸の出版文化の雄といわれた人間の凄さを感じさせるものがある。決して根無し草の戯作者ではないのである。
 
 

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