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野口恒のインターネット江戸学講義⑦『第3章 町人文化を創った出版文化のネットワ-カ-(上)』

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義⑦>
 
 第3章 町人文化を創った出版文化のネットワ-
カ-(上)出版文化を支えた木版印刷、
高い識字率、貸本屋の普及―
 
 
野口恒著(経済評論家)
 
 一般に出版文化や出版ヒジネスが発展するには、次の3つの要件が必要である。
   多種多様な出版物を大量に印刷する印刷技術
   文字が読め、知識欲の高い人が相当数、広範に存在する
   読者に出版物を届ける出版流通の本屋・貸本屋の普及
 
 江戸初期に印刷技術は中国大陸から輸入した、文字を一個ずつ彫って行く金属活字や木活字による活字印刷が中心であった。しかし、これでは大量の印刷物の需要に応えられない。そこで、寛永期(1624~1644年)には大量印刷に応えるため、1枚板に文字や図絵を彫っていく木版印刷が開発され、主流になった。
 
木版印刷は日本人の器用さと繊細さが存分に発揮できるもので、多種多様な出版物を大量に印刷するのに適した印刷技術であった。江戸の出版文化は文芸物から浮世絵のような絵画まで、多様な文字や多彩な図絵を組み合わせた出版物が多い。こうした出版物も木版技術によって支えられ、華やかに発展した。
 
 大量の本が売れるためには文字が読める人たちが相当数、広範囲にいなければならない。その点で、当時江戸の庶民の識字率は世界有数の高さを誇っていた。とくに8代将軍の徳川吉宗の施策が庶民の識字率の向上に果たした役割は大きかった。
 
享保2年(1717年)にはそれまで幕臣でしか受講できなかった昌平黌の経書(儒学の経典)講義を町人でも受講できるようにした。また、「六諭衍義大意」という本を中国から輸入翻訳して全国の寺小屋に手習い用の教科書として配布したのである。
この本はもともと中国明朝の太祖・朱元璋が民衆教育のために作ったものだ。それを徳川吉宗の命で入手し、荻生徂徠が訓点を、室鳩巣が要約して庶民教育用の教科書として使われた。
 
江戸時代に庶民の識字率向上に寺小屋が果たした役割も大きかった。
寺子屋は江戸時代の初等教育機関のようなもので、明治維新までに全国に1万5000もあったといわれる。主に商売往来、問屋往来、呉服往来、廻船往来、農業往来、百姓往来、日本国尽、都名所往来など、武士・商人・農民などの職業・用途に応じて各種往来物を初等教育用(手習い用)の教科書として使っていた。
 
こうした教科書を通じて庶民は読み書き算盤能力を修得した。庶民の識字率や読書欲が高まれば、それに応えるため洒落本、黄表紙、合巻、読本、滑稽本、人情本など多種多様な出版物が出版された。
 
 江戸初期・中期には、それまで文化の中心であった上方の京・大坂に比べて江戸には民間の本屋(出版社兼書店)が少なかった。
例えば、享保元年(1716年)に京都の本屋は約200軒、大坂は24軒、それに対して江戸は享保6年(1726年)でも46軒に過ぎなかった。しかし、中期以降の宝暦から天明期(1751~1789年)になると、出版文化の中心が京・大坂から江戸に移ったことにより、江戸にも多くの本屋が急速に増加した。
 
この時期に江戸は毎年平均して50~60点の出版物を出し、寛政から文化期(1789~1818年)には年平均180点以上の出版物を出版していた。しかも、これには大衆本の草双紙や絵双紙は含まれていないので、それを含めればかなりの点数になる。
 
京の本屋(書物問屋)が医学書や古典書などの学術書、中国の翻訳本、儒教・仏教書、図鑑類など地之本という堅い本を中心に取り扱っていたのに対して、江戸の本屋(地本問屋)は庶民相手に大量販売できる娯楽的な草紙や絵草紙、洒落本、滑稽本、浮世絵、細見など地本と呼ばれる軽い本を主に取り扱った。
 
草紙には表紙の種類の色によって赤表紙・黒表紙・青表紙・黄表紙の種類があった。黄表紙は現在でいう劇画マンガ本に近いものである。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や式亭三馬の「浮世風呂」「浮世床」のように、合巻と呼ばれる長編シリ-ズの滑稽本もよく読まれた。
たとえば、「浮世床」は世間の噂話やニュ-スの供給源であった髪結床を舞台設定にして、作中に登場するいろいろな人物の口を借りて一種の対談形式で、庶民感覚による世間への風刺や皮肉、ユ-モアを面白おかしく描いた作品である。
 
「栄枯貧福さまざまななる中にも、楽隠居と見えたる老人、紙衣羽織に置頭巾して大路次より出来り、浮世床の門首に佇立 いんきょ▲トントントン トたたきながら サアサア起きねへか起きねへか。遅いぜ遅いぜ。あて事もねへ。朝寝も程があった物だ。髪結床といふものは早く起る筈だに、馬鹿しい馬鹿しい。ヲイ鬢公。コレ鬢さん起きねへか 奥の方にて主鬢五郎 寝ほれたる声にて ●ハイハイ ▲サア起きたり起きたり 見世にねてるとおぼしき下剃りする弟子をおこす 留や。
 
起きねへか起きねへか。ヤイ エエべらぼうめが。親方が寝坊だから、あの野良まで寝濃い トつぶやき居るうちに弟子の留吉そっとおきて出しぬけに戸をあけ とめ■ワット大きな声して戸をあける●いんきょびっくりしてとびのき エエ、この野良め。おれにはびっくりさせおった。恩を仇とはこの事だ。
 
とめ『ねっから恩なことはござりません。こっちはねむくッてならねへ。隠居さんこそ寝あきなはるから、夜の明けるのを待兼ねなはるけれど、わっちらは寝たうちばかりが命の洗濯だア』いんきょ『何こいつが口巧者な。命の洗濯よりは褌の洗濯でもしろ』」(式亭三馬「浮世床」)
 
庶民はこうした本(草双紙・絵双紙等)を民間の本屋で買ったり、貸本屋で借りたりして読んで楽しんだのである。
とくに貸本屋が大衆本の普及に果たした役割は大きく、文化5年(1808年)には江戸に貸本屋が700軒近くもあったとされる。それは江戸庶民の識字率がいかに高く、読書欲が旺盛であったかを示すものだ。
 
多様な人材を発掘し、江戸の“出版文化”を育てた「蔦屋重三郎」
 
 江戸の出版文化は、老中田沼意次・意知父子が幕政の実権を握っていた田沼時代(1767~1786年の20年間)に隆盛を極めるのだが、その出版文化を牽引したのが名出版プロデュ-サ-として知られる耕書堂の「蔦屋重三郎」(略して蔦重)と申淑堂の「須原屋市兵衛」であった。
 
二人の凄いところは、百花繚乱のごとく登場した作家たちの多様な人材・才能を見抜いて経済的に支援し、出版のアイデアや企画の相談に乗り、彼らが世に出るチャンスを提供して一流作家に育てただけでなく、個々にはバラバラで独立志向の強い人材や才能を組織し、江戸の「出版文化」という新しいジャンル(メディア文化)を作り上げたことにある。
その意味で、蔦重も須原屋も、人と人、才能と才能をつなぎ、多彩な人材・才能を組織して江戸の出版文化を作り上げた「ネットワ-カ-」(出版文化の伝播者)であった。
 蔦重は寛延3年(1750年)1月7日に江戸新吉原に生まれた。父親(丸山氏)は吉原で遊郭の勤め人だったといわれる。
 
のちに母方祖父にあたる茶屋を営む喜多川家に養子入りし、その屋号の「蔦屋」を名乗った。安永2年(1773年)24歳のときに、彼は吉原大門の前に本屋(出版社兼書店)を開業した。そして、26歳のときに「吉原細見」(吉原遊郭の店ごとに遊女の名簿を紹介した案内書)を出版し、それが独身の多い江戸在勤の武士や町人だけでなく、参勤交代で国許に帰る武士にまで土産代わりに大いに売れ、ベストセラ-となった。
 
体裁は1ペ-ジ1軒、店ごとの遊女の名を記して本にしたもので、細見売りが遊郭内で売り歩いた。文治3年(1783年)以降、鱗形屋と山本の2つの版元が年2回吉原細見を刊行していたが、その後山本が手を引き鱗形屋も廃業したので、蔦重が鱗形屋に代わって刊行し、吉原細見の出版を独占した。
 
蔦重はこれを機に出版業に深く関わっていった。そして、安永8年(1779年)には浄瑠璃の「富本節正本」を、同9年(1780年)に当時売れっ子作家・朋誠堂喜三二の黄表紙を相次いで出版し、それで儲けた資金で黄表紙や洒落本などを出版して、本格的に出版業に進出したのである。
 
 当時蔦重が支援し、交流のあった“出版文化のネットワ-ク人脈”には、文人では大田南畝、朋誠堂喜三二、朱楽菅江、恋川春町、山東京伝、式亭三馬、滝沢馬琴、芝全交、十返舎一九などがあり、彼らはいずれも江戸の出版文化を担った作家たちであった。また戯作には絵がつきものであり、絵師には喜多川歌麿、歌川豊国、磯田湖龍斎、勝川春草、北尾政美、鳥居清長、葛飾北斎、東洲斎写楽などがいた。まさに文人墨客、キラ星のごとき多彩な人物・才能が蔦重の周りに集まっていた。
 
 蔦重の耕書堂(出版社)は天明3年(1783年)に旧丸屋小兵衛の店を買収して日本橋・通油町に進出した。この通油町は当時、村田屋や鶴屋などの一流の版元が店を出していた町であった。これにより、蔦重も名実共に一流地本(じほん:上方下りの草紙・絵本に対して江戸で刊行された大衆本をいう)問屋の仲間入りを果たしたわけである。
 
 蔦重が出版した出版物は多種多様にわたっている。そのうち主力の黄表紙では浮世絵師で作家の山東京伝(画号は北尾政演)のものだけでも「三筋緯客気植田」「玉磨青砥銭」「時代世話二挺鼓」傾城買四十八手「江戸春一夜千両」などがあり、その他に朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」、恋川春町の「鸚鵡返文武二道」、芝全交の「」大悲千禄本」など多数に上っている。また浮世絵では喜多川歌麿や歌川豊国の名作を世に送っており、さらに東洲斎写楽の役者絵なども出版した。
 
 黄表紙作家として知られた朋誠堂喜三二は蔦重が支援する戯作者グル-プの一人であるが、彼はもともと秋田藩の武士出身であり、若い頃から吉原通いを続け、勤めの余技に手がけた黄表紙の作品が多くのヒット作となった。
しかし松平定信による寛政の改革の文武奨励策を風刺した黄表紙「文武二道万石通」を執筆したことにより、藩主からきつい叱責を受けてそれ以降は黄表紙から手をひいた。その作品は当時の世相に対する風刺が利いていてなかなかおもしろいが、寛政の改革前後の事件を滑稽化して描いたことにより幕府の怒りに触れて絶版となった。
 
「頼朝公御前の人をしりぞけておゝせけるは、『いかに重忠、われ四海をおさめしより、日本の大名小名安堵の思ひをなすといへども、武備におこたる心生ずべし。治世といへども文ばかりにておさめがたし。今鎌倉の大小名、文にかたぶくもの何ほど、武にはやるもの何ほどという事を、なんぢ智恵をもってはかるべし』
 
(重忠)『文武兼備したる武士なければ、どりたへか片より申すべし。又文でもなく武でもなき、ぬらくら武士多かるべし。二つにわけてお目にかけませふ』
(武士一)『御人ばらひの御用はなんであらふ。なにか文福茶釜で、剣菱をのむといふやふな声がきこへた』」(朋誠堂喜三二著「文武二道万石通」)
 
 蔦重は当時すでに、江戸・出版界の大立者としての地位を得ていたが、人を大事にし、人の面倒見も非常によかったといわれる。
それは、出版業の本質は人と人をつなげ、才能と才能を結びつけ、ひとつの作品に作り上げていく出版文化の仲介業(ネットワ-カ-)であることを理解していたからだ。
彼は人の才能を的確に見抜き、新人発掘の眼力が優れていて、写楽、馬琴、一九など彼らがまだ無名で貧乏の頃に、仕事の世話をして生活の面倒までみている。
 
山東京伝の紹介で滝沢馬琴を寄宿させ、馬琴と入れ替わるように十返舎一九も寄宿させていた。蔦重以前の版元は、すでに実績のある既成の作家を使うことが多かったが、彼はリスクを承知しながら無名の新人を起用して、一人前の作家に育て上げた。
 
 蔦重の功績はこれら才能のある作家たちを単に世話し支援しただけでない。彼は、庶民の知識欲・読書ニ-ズに応えて出版ビジネスという新たなジャンルを築き、現在の出版業の原形にもなる企画・編集・制作、印刷・製本、流通・販売の仕組みや大量出版・大量販売によるビジネスモデルを作り、出版業を大衆的な文化産業にまで育て上げたことにある。
 
原稿料を前払いして才能のある流行作家を確保し、ベストセラ-をつくるために企画段階から意識的に関わって数々のアイデアを提案・実行している。まさに、蔦重は現代における「才能をビジネスに変える」プロデュ-サ-の先駆者ともいえる存在であった。
 
ただ、彼が出版ビジネスのプロデュ-サ-兼ネットワ-カ-として縦横に活躍できたのも、規制を緩めて出版文化・出版ビジネスの隆盛を後押しした自由闊達な田沼時代の政策的な背景があったからである。
その後、田沼意次失脚後に登場した老中松平定信の寛政期になると、田沼時代の政治が悉く否定され、その反動から出版文化・出版ビジネスへの統制がきわめて厳しくなった。
 
寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本三部作が発禁処分となり、京伝は手鎖50日、蔦重は身上(財産)半分没収の科料を受けた。蔦重は何とかしてこの危機を打開して起死回生を図らんと、当時新人であった東洲斎写楽を起用してわずか1年足らずのうち140枚以上の作品を出版した。
 
しかし、残念なことに業績は回復せず、寛政九年(1797年)48歳で失意のうちに亡くなった。彼は48歳で病死するまでに、黄表紙約200点、狂歌本60点、絵本50点、さらに浮世絵も300点以上刊行した。まさに江戸を代表する出版人であった。
 
 
蔦重の功績は、大衆メディアとしての出版文化を築いたこと
 
 
 出版人として蔦重の最大の功績は、当時の庶民の旺盛な知識欲・読書欲に応えて、黄表紙・洒落本・浮世絵版画などの出版物(草紙・絵草紙類)を大量に出版して、それらを広く読者に提供・普及した「メディアとしての出版文化・出版ビジネス」を築いたことにある。
 
蔦重は多彩な才能をもった多くの作家たちを育てただけでなく、安価でたやすく手に入り、面白くて楽しい大衆的な読物・絵画を出版することで広範な読者を獲得し、出版業がビジネスとしても成りたつような大衆的な出版ビジネス市場も育てたのである。
 
 たとえば、浮世絵は江戸時代に成立した絵画のジャンルである。「浮世」とは当時にあって現代風とか、トレンディなという意味も含まれていて、当時の世相や風俗を描いた最先端の出版物であった。
美人画や役者絵など人物を描いた人物画、江戸の旅行ブ-ムを反映して名所・旧跡などを描いた風景画も多かった。浮世絵は日本古来の大和絵の伝統と流れを汲み、それらを発展させた総合的な絵画様式として文化的背景を持つと同時に、江戸庶民の日常生活や風景、浮世の世相や風俗などを描いた大衆メディアとしての機能も備えていた。江戸後期には、浮世絵は先進的な西洋の事物や文明を紹介し、また日本の風俗や世情を海外に紹介したメディアとしての役割を大いに果したのである。
 
浮世絵には肉筆画と木版画の2種類がある。肉筆画は有名な絵師が描いた高価な一品ものが多く、作品数は自ずと限られていた。それに対して木版画はもともと版画であるために、同じ絵柄のものを大量に刷り上げること(大量印刷)ができ、庶民にも手の届く安価な出版物としてたやすく求められた。
 
 一般に「大衆メディアとしての出版物」には、①大量に作られていること、②安価であること、②広くたやすく求められること、などの要件が必要である。木版印刷はそのために開発された印刷技術である。黄表紙・洒落本・滑稽本など草紙類や浮世絵などの絵草紙はこれらの条件を満たした出版物である。
 
 蔦重は、自らのサロン・ネットワ-クに多くの作家や絵師を抱え、有名な浮世絵師が描いた挿絵を取り入れた洒落本・黄表紙・合巻・読本・滑稽本・人情本・浮世絵など多様な形式の本を出版し、読者のあらゆるニ-ズに応えようとした。
 
蔦重の耕書堂を始め当時の本屋(書物問屋)は出版社・取次店.小売店を兼ねた総合出版プロデュ-サ-のような存在だが、彼は出版という事業(ビジネス)を大衆娯楽だけでなく、時代の息吹や精神を生み出す文化産業にまで高めたい。出版は時代をつくるメディアであるという考えを持っていた。
 
当時狂歌・俳諧・黄表紙の世界で大御所であった大田南畝や山東京伝のような大物作家、喜多川歌麿、歌川豊国、葛飾北斎などの有名な浮世絵師たちが、蔦重の出版事業に深く関わり、とことん応援したのも決して経済的な理由ばかりではあるまい。長い歴史と伝統のある上方文化に対抗して、上方にない“庶民が主役”出版文化を江戸に創ろうとした出版文化のネットワ-カ-蔦重の気概や思想、才能や人間性に心底共鳴したからであろう。
                                                          (つづく)
 
 
 
 

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