『リーダーシップ・無料電子図書館を読む』『高杉晋作伝』(東行先生遺文)-NHK「花燃ゆ」は『まるで少女マンガ』のノリのお粗末
2015/01/22

By: Kuruman
『リーダーシップ・無料電子図書館を読む』―『高杉晋作伝』(東行先生遺文)
東行先生五十年祭記念会編(1916年刊)
http://book.maesaka-toshiyuki.com/book/detail?book_id=166
「期待してみたNHK大河ドラマ「花燃ゆ」(3回まで)は『まるで少女マンガ』のノリのお粗末。毎度のことだが、NHKドラマの歴史認識のレベルにはあきれる。今年は奇兵隊創設から152年目、鎖国ガラパゴスの錆びついた封建時代の重い扉を開いた明治維新は吉田松陰の開国思想と、その実践、実行部隊長の「高杉奇兵隊」(伊藤博文、山県有朋ら松下村塾門下生の兵士)によってである。ヨーロッパ以外の有色人種の日本が初めて近代化に成功した明治維新の実像、男の革命ドラマであった事実を『少女メロドラマ』にゆがめてはならない。」
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『魔王と呼ばれた明治維新の革命家・高杉晋作』
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〔維新実現のリーダー〕
2013年は、文久三年(一八六三)六月六日の高杉晋作による奇兵隊創設から百五十年。明治維新に火をつけたのは時代を切り開いた吉田松蔭
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の開国思想だが、その一番弟子・高杉の奇兵隊による破天荒な突破力と獅子奮迅の活躍がなければ倒幕、明治維新は実現しなかったに違いない。
英国外交官のアーネスト・サトウは高杉を「魔王」とまで評したが、日本が多事多難のいまこそ、高杉のような国難突破カのあるリーダーが待望される。
高杉晋作は天保十年(一八三九)九月、長門国萩(現、山口県萩市)で百五十石の長州藩士、高杉小忠太の長男に生まれた。
剣術に熱中する暴れん坊の少年だったが、安政四年(一八五七)、十八歳で吉田松蔭の「松下村塾」 に入門、久坂玄瑞
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とともに門下の双璧をうたわれた。
ふたりはよきライバルとして切磋琢磨し、松蔭は久坂の「才能」を高く評価し、高杉はその『見識」を愛した。
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松蔭は安政元年、国禁を冒してペリーの黒船で米国密航を企てるが失敗、安政の大獄に連座し、同六年十月に処刑される。松陰の最期を見とり、遺体を埋葬したのは高杉であった。高杉は師の戦闘的精神を受け継ぎ、やがて長州藩での倒幕派の中心人物に成長していく。
文久二年五月、高杉は藩主の許可を受けて上海に渡った。そこで目にしたのは西欧人から奴隷扱いされている中国人の悲惨な状況で「シナ人はほとんど外国人の使用人。日本もこのような運命に見舞われてはいけない」(上海日記)と危機感を募らせた。このとき、中国では太平天国の乱の最中であり、身分や職業に関係ない国民軍が活躍していたことを目撃し、のちの奇兵隊創設のヒントとなった。
幕末の動乱は一層激化する。長州藩や全国各藩で尊王攘夷、開国佐幕派の各派が入り乱れて争うい外国人襲撃、要人テロが多発する天下大乱に突入する。高杉は伊藤博文らを率いて御殿山の「英国公使館」焼打ち事件(同十二月)を起こし、いちはやく武士のシンボルであるチョンマゲを切って断髪にするなど過激な行動を繰り返した。
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〔イギリスの度肝を抜いた外交力〕
文久三年、下関海峡を通る外国船を長州藩が攘夷のもとに砲撃したことをきっかけに、翌元治元年(一八六四)八月、四ヵ国連合艦隊(英米仏蘭)十四隻と長州藩の間で下関戦争が勃発する。
高杉が農民や商人など下級武士などで組織した奇兵隊が中心となった長州軍が応戦したが、わずか一日で惨敗する。このあと、連合艦隊との戦争賠償交渉となるが、長州藩の重臣は逃げ回り、当時、囚われの身で牢獄にいた「エース高杉」がに講和交渉役に担ぎだされる。
敵艦上での会談に、高杉は黒の烏帽子に白地のド派手な礼服を着て現れ、「まるで魔王のように倣然と構えて」(アーネスト・サトウの日記)交渉に臨んだ、連合艦隊軍、外人部隊の度肝を抜いた。
また、パークス英公使にもプレゼントの返礼に自分のフンドシを脱いで与えるなど、その豪胆ぶりは天下無類であった。
高杉は連合軍側の賠償請求を「幕府の責任だ」とはねつけ、彦島租借も断固拒否した。その芝居がかった態度と、あまりの強硬姿勢に毒気を抜かれた連合軍は彦島租借をあきらめたほど、高杉のタフネゴシェーターぶりは存分に発揮された。
慶応二年(一八六六)六月の幕府の第二次長州征討では、高杉は長州藩海陸軍総提督になった。結核で喀血しながらも二隻の西洋軍艦の指揮をとる姿には鬼気せまるものがあっこれには坂本龍馬も協力して軍艦を指揮して参戦、奇襲作戦で幕府艦隊を打ち破り、小倉城を総攻撃して占領、幕府軍を蹴散らした。この敗北で幕府の威信は地に堕ち、崩壊のきっかけとなる。
高杉はみずから「東行」 「西海一狂生」と名づけたように、ニヒリズムと天衣無縫の詩人の魂、それに剛胆不敵、強靭なサムライ精神を兼ね備えた志士であった。
慶応三年四月十四日、臨終の床で「おもしろきこともなき世をおもしろく」と筆でかき、側にいた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつづけると、「面白いのう」とつぶやいたまま目を閉じた。二十七年八ヵ月、疾風怒涛の人生をかけぬけた。
伊藤博文は「西郷隆盛と同じタイプの勇敢な人物で、創業的な精神に富んでいた」と評している。サトウも西郷と並んで「魔王」と評した高杉を、維新の端緒を開いた革命家として高く評価した。圧倒的に力に勝る諸外国を前にして一歩もひるまぬ強靭さと、突破力は今こそ見直されるべきだろう。
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『英外交官・パークスに自分のフンドシをプレゼントした高杉の剛胆機略』
「上海には下関から輸出される品物がたくさんあり、下関の港には外国品があふれているなどといわれた。」下関は形式上はともかく、実質上は開港されたも同然の状態となり、かつては外国船の間に魔の海と恐れられた下関海峡も、いまではかれらに巨利を約束する希望の海に変わった。摸夷の拠点が自由貿易の拠点に一変したわけである。
このような下関の変貌が自由貿易の発展をめざしていたイギリスにとって、好ましいものにみえたことは、いうまでもない。昨日まで自由貿易の敵であった長州藩はいまでは自由貿易の味方になったからである。自由貿易を約束しながら、その約束を忠実に守らないばかりか、できればそれを反古にしようとしていた幕府の場合よりも、よほど信頼できた。
「長州人を破ってからは、われわれは長州人が好きになっていたのだ。また、長州人を尊敬する念も起ってきていたが、大君(将軍)の家臣たちは弱い上に、行為に表裏があるので、われわれの心に嫌悪の情が起きはじめていたのだ。それ以来、私はますます大名の党派に同情を寄せるようになったが、大君の政府は、われわれを大名たちから引き離そうと、いつも躍気になっていたのである」とアーネスト・サトウは日記にかいている。
英公使の更迭
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しかし、イギリスにとって好ましいこのような大きな変化を、長州藩の上にひきおこした当の立役者、イギリス公使オールコックは、馬関砲撃が当時のイギリス外相ジョン・ラッセル卿の訓令に反したかどで譴責され、その地位を罷免された。
この訓令というのは、イギリスはイギリス臣民の生命財産の保護のため止むを得ない場所を除き、日本の政府ないし大名に対し軍事力を行使してはならないとした一八六四年七月二六日付けの本国からの訓令である、当時、セイロン(現スリランカ)以東にはまだ電信が通じていなかったので、オールコック公使が四国連合艦隊を動かして、長州藩に対し軍事行動をとったときには、この訓令はまだ届いていなかった。それが届いたのは、軍事行動が予期以上の成果を収めて終了した後であった。
かれの行動の正しさは、その後ラッセル卿宛かき送ったかれの報告によって全面的にみとめられ、ラッセル卿は直ちにこの出先使臣に対して
「女王がその行為を全幅の満足をもって承認された」
旨をかき送ったが、その書信が横浜についたのは、オールコックがすでに本国に向けて帰国の途についた後であった。
このようにしてイギリス公使は更迭され、オールコックの後任としては、アロー号事件に際し中国で快腕を振ったパークスが、新たに着任した。かれが長崎に着くと、この地にあった大名の代理人たちは争って会見を求めたが、パークスはどこの藩よりも長州藩に一番大きな興味をもっていた。
彼が海路横浜に向かう途中下関に立寄ることにしたのは、そのためであった。長州藩では桂太郎、井上馨、伊藤博文らが、下関の応接館に迎えて歓待した。
この長州側の歓迎がパークス公使にはよほど嬉しかったとみえて、その翌年、藩主の毛利敬親としてもこの機会に下関に出て、公使に会見したい気持ちになった。当時は幕府との関係が悪化して、いつ戦争になるかわからない一触即発状態で、連日、御前会議が開かれ、敬親は片時も山口を離れることができなかった。
そこで藩当局としては、高杉、伊藤に命じて、パ公使を艦上に訪問させた。
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公使は高杉や伊藤に通訳のサトウを通じて、長州側の前年の厚遇に対して謝意をのべるとともに、かれらを大いに歓待した。招き入れた艦内の貴賓室では盛り沢山な御馳走が出され、パークスが長州藩に対していかに好意をもっているが、如実に示された。
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そして話は慶応元年九月のパークスの主導でおこなわれた英仏米蘭四ヵ国連合艦隊の大阪に対する示威行動や、同年10月、長い間の懸案だった通商条約の勅許があったことなどに及び、尽きることがなかった。長州・英国間の交歓は、この高杉らの訪問によって、その目的を十分達したた。この時のエピソードが珍無類で面白い。
高杉がテーブルにおいてあったガラスの大きな花ビンをよほど珍しかったとみえて、しげしげと眺めていると、公使が気がついて、
「その花ビンが珍しいですか? お気に入りましたらさしあげますよ。」
という。天衣無縫の高杉が、
「ありがとうございます。それじゃ御遠慮なしに頂きます。」
と答える.パークス公使はすかさず、
「この花ビンはさしあげますが、その代りひとつ外国にないものを、友好の印にわたしに頂きたいものです。」
といった。ちょっと考えた高杉はやがて大きくうなずくと
「よろしい。日本にだけあって、外国にないものをさしあげましょう。」
といったかと思うと、やおら自分の袴(はかま)をぬぎ、帯をとき、締めていた越中フンドシ(昔の男のパンツのこと)を外すと、
「失礼ですが、これをさし上げます。これは日本にだけあって、外国にはないものです。日本ではこれを越中褌(フンドシ)と申しまして、油断をすると外れてしまうものです。日本人はともすると、この越中フンドシのように、外れたがる……特に幕府の連中ときたら、よく外れますから、閣下としてもよほど御注意なさる必要があるかと存じます。アッバッハハハ……」
と、大笑しながら、まだ暖かいフンドシをさし出した。高杉の豪胆さは天下無類であったが、この自由奔放、天衣無縫の奇行ぶりに、さすがのパークスもあ然とした。
これが日本人なら
「なんたる無礼なことを!」
と怒り心頭で立腹するところであったが、そこは外交のべテランの、パークスのこと、高杉のジョークの意味を即座に理解すると、高杉の手をとって
「気に入りました。御好意ありがとう。」
と謝意を表し、高杉に一層の好意と友情をもった。
このようにして長州藩とイギリスとの連携は、一段と強化された。
<以上の参考文献は具島兼三郎「幕末外交史余談」評論社(昭和49年)
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