前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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世界が尊敬した日本人- 自動車修理工からー代で〝世界のHONDA〃を築いた本田宗一郎

   

世界が尊敬した日本人
 
   自動車修理工からー代で〝世界のHONDA〃を築いた本田宗一郎
 
                         前坂 俊之
                      (静岡県立大学名誉教授)
 
「いたずらの天才から発明・ビジネスの天才へ」「私の仕事の99%は失敗の連続だったが、1%の成功がHONDAとなった」―このチャレンジ精神によって本田は戦後の日本経済の奇跡の成長のシンボル的な存在となり、世界の自動車王に輝いた。
 
本田は明治39年(1906)11月、静岡県浜松市に鍛冶屋の長男に生まれた。小学校卒業すると、東京の自動車修理工場に丁稚奉公して機械の油と泥まみれで働いた。31歳で独立してピストリングの開発に取り組むが、壁にぶつかり浜松工高(現・静岡大学工学部)の社会人聴講生となって3年間、技術の勉強に取り組んだ。本田技研工業を創業したのは昭和22年、39歳の時で従業員20人で二輪車の開発に取り組んだ。
 
中小企業のオヤジ
 
それからは挑戦に次ぐ挑戦。敗戦後の物不足の中で湯たんぽをエンジンタンクとして自転車に取り付けた2輪車から高性能のスーパーカブを開発、マン島レースでの優勝の数々、昭和37年、通産省の規制と戦って四輪車へ進出、39年には F1GPへの出場を宣言して優勝する。47年には米国の大気清浄法案(マスキー法)にあう低公害エンジン「CVCC」の開発にビッグ3に先駆けて成功し、「世界のHONDA」へ、平成元年には日本人初の米国の自動車殿堂入り。と40年で自動車ナンバーワンへ上り詰めた。本田の人生は奇跡と栄光のドラマに満ちている。
 
生涯、職人技術社長だった本田の手はハンマーでつぶれて傷だらけ、親指、人と指し指は左右で1センチも違う町工場のカミナリオヤジ。ナッパ服で工場で真っ黒くなって働く。「バカヤロ!」「アソコト、頭は生きているうちにこき使え」と部下を大声で怒鳴り、すぐぶん殴る。工場に本田が現れると、社員は設計台の物差しをすぐに隠した。これで殴られるからで、社員は本田の来訪を「空襲警報」と怖れた。そうかと思うと大口を開けて人なっこく笑う。バイクですっ飛ばす中年カミナリ族の親分とみまがう陽気で豪快なオヤジなのである。

本田語録①「常識は破るためにある」
 
最初の成功は1959年、スーパーカブである。五〇ccのOHV、四サイクルで四・三馬力の驚異のエンジンの小型バイクを完成した。世界中に輸出し「バイクはHONDA」の名を世界にとどろかせた。
 
②本田語録「得手に帆を上げよ、夢をもて」
 
 昭和34年、本田は経営危機のなかマン島レースに出場して優勝すると高らかに宣言した。実際に現地に行くと各国の高性能のエンジンの格差に歴然とする。しかし今さら引けない。出場3年目には2部門で1から5位まで独占して、世界をアッと言わせた。
 
本田語録③「バカヤロ!、お前ら官僚が日本をダメにするんだ」
 
昭和36年、通産省の既存メーカー3グループの保護の参入規制と戦い、これを打ち破って4輪車に進出。三菱、マツダ、日産までもあっという間に追い抜いて、売上高10兆円の世界的自動車メーカーに躍り出た。
                                          
                                                    本田語録④「お客の安全こそが一番大事」。
 
南青山の本社ビルの街路に面したビルの壁面のガラスは地震の場合に通行人の頭に降り注ぐので中止を命じた。お客サービスに徹したのである。
 
                                                                                        本田語録⑤「みんなありがとう」
 
 現役引退後、国内の各製作所、販売会社、関連会社のみならず、世界中の関連会社、工場を回り、「ありがとう」の気持ちを伝える行脚に出た。社員一人一人の前に立ち、名札を手で持ち、顔を近づけ、名前をきちんと読んで「○○さんか、世話になったな、ありがとう」と感謝の意を述べた。
平成3年8月、肝不全で84歳で亡くなったが、「怖いのは失敗することではなく、失敗を恐れて何もしないことだ」という本田のチャレンジ精神は世界の人々に勇気と感動を与えた。
 
カミナリ、せっかちオヤジの「世界の自動車王」
 
 「せっかちで短気」が、本田宗一郎の代名詞である。なにか閃くと、場所がどこであろうと書きなぐるのが常だった。
設計室まで行くのがまどろっこしいからである。ある日、外を歩いていたらアイデアが浮かんだ。すぐにポケットからチョークを出し、コンクリートの上に図面を描く。
シャーシを描いてエンジンの位置まで決めた。宗一郎が去ったあと、残った社員はコンクリートの上にトレーシングペーパーをかぶせ、それをなぞった。
 
 宗一郎の怒り方は半端ではなかった。怒鳴られた本人はもとより、周りにいる者も震えあがった。なかでも見込みがある社員には徹底して怒鳴った。意見が食い違うとハンマーをふりあげたことがあるし、逃げれば血相を変えて追いかける。屋根に逃げても下から石を投げつけ「降りてきやがれ」と怒鳴り散らした。
 
                                                                                    宗一郎の来訪を「空襲警報」!
 
技術研究所に宗一郎が抜き打ち的にやってくると、設計台に置いてある三角定規や物差しなどはすぐに隠される。これで殴られるから。また製作所では宗一郎の来訪を「空襲警報」と呼んだ。「下か? それとも上か?」。下というのは車で、上はセスナかヘリを指す。ずらりと揃って出迎えようものなら「お前ら、そんなに暇なのか」と怒鳴られる。
 
その一方で、怒り過ぎたなと思うと「あいつ、落ち込んじゃいねえかな」と心配し、本人を呼んで「さっきは悪かったな、ゴメンよ」と謝り、「これ、お前にやるよ」と、ポケットに入っているものや、机の引き出しを開けて様々なものをあげたという。怒った後にフォロー、気配りも決して忘れなかった。
 
 「チンポと頭は生きているうちにコキ使え」。これは年頭あいさつで宗一郎がよく言った言葉だ。男性社員はなるほどと頷き、女性社員は下を向いて必死で笑いをこらえた。
 
 男性トイレに入り、隣で用を足している社員のアレを覗きながら「おめえ、俺のよりデカかったら承知しねえぞ」と笑わせた。また、キンタマのつかみ合いというのもあった。
宗一郎に怒鳴られてショゲていると「おい、俺のキンタマをつかんでみろ」と宗一郎。遠慮していると「お前のはどうだ」とわしづかみにする。そして「今度はお前の番だ」と掴ませ、「どうだ、デケえだろう」と自慢したという。これは宗一郎お得意のパフォーマンスで、元気を出せ、しっかりしろという励ましでもあったのである。
 
若い頃から芸者遊びが上手で、浜松では鳴らした。オートバイで名をあげたばかりの宗一郎に、経団連記者会から事業計画を聞く機会がもうけられた。ところが会見の場にあらわれたのは、強烈な酒の臭いをさせた宗一郎だった。
「昨夜は芸者遊びが過ぎてね」と豪快に笑って居合わせた記者たちを唖然とさせた。また、馴染みになった芸者とドライブしていたときのエピソードだが、山道を走っていると霧が出てきて1メートル先もみえなくなってしまった。車を止めて晴れるのを待つことにしたのだが、せっかちな宗一郎、「ここでやっちまおうぜ」と、睦み始めたのである。
 
しばらくすると外が騒がしいし、クラクショウも鳴っている。窓の外を見るとすでに霧は晴れ、宗一郎の車の後ろには何台もの車がつながっていたのである。あわてて車を発進させたのはいうまでもない。
 
 全国の販売会社をねぎらう「ご苦労さん会」
 
 ホンダには全国の販売会社の社主をねぎらう「ご苦労さん会」という大パーティがあった。

大会では参加者たちの一人一人に「ありがとう」の連呼。会が終われば厨房へ直行し、まかないのオバちゃんたちに「ありがとう」。そして裏方のスタッフたちにも同様の挨拶があった。稲垣謙治は当時、最も若かったデザイナーだったが、その彼のもとに宗一郎がやってきて、「ありがとうな、一杯いこうぜ」と右手でビールを持ち、左手で瓶の首をしごきながら「濃いとこ、濃いとこ」と、注いでくれたのである。その卑猥なしぐさに苦笑しつつも、宗一郎から受けたこの感激は今も宝物となっているという。

 
 川奈ホテルで労働組合30周年の記念式典が行われたときのこと。組合との交渉、話し合いには宗一郎、藤沢武夫、共に一度も出たことがないのだが、本田労組に貢献した経営者として表彰されたのである。
招かれた宗一郎は壇上で挨拶したのだが、その第一声が「ありがとう」だった。居合わせた労組の役員は感心したようにこう言った。「本田宗一郎という人は、どんなときでも、どこででも『ありがとう』から始まる人なんだな」と。
 
 宗一郎が現役引退を表明し、国内の各製作所、販売会社、関連会社のみならず、アメリカやヨーロッパの各関連会社、工場を回り、社員たちに「ありがとう」の気持ちを伝えるための行脚に出た。

社員一人一人の前に立ち、名札を手で持ち、顔を近づけ、名前をきちんと読んでから「ああ、○○さんか、世話になったな、ありがとう」と感謝の意を述べたという。国内ばかりか、世界からも尊敬された経営者・技術者は、感謝の心を常に持ち、忘れなかった。

 
 

 - 人物研究

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