日本リーダーパワー史(52)名将・川上操六―日清戦争前夜の戦略⑧
2015/02/16
名将・川上操六―日清戦争前夜の戦略について⑧
前坂俊之(ジャーナリスト)
清国(中国)には古来から中華思想がある。「中」とは世界の中心であり、「華」とはずば抜けて高い文化をさす。周辺の文化の低い未開人を東夷、北狭、西成、南蛮とし、われのみ中華の民、世界の中心なりと自負した。
日本はさしずめ東夷、つまり東方の未開の野蛮人であり、文化は低レベルいとみていた。遣隋使、遣唐使しかり、日本は中国から文化を輸入してきた国である。数千年続いてきた中国側の日本に対する文化的優越感情(エスノセントイズム)は明治時代になっても変わりなかった。

清国皇帝に謁見するのに三跪九叩頭の礼(床にひざまづき、九度床に頭をつける最敬の礼)を外国使臣に強いた。これは清国皇帝に対する臣礼であるから、外国使臣は怒ってこれを拒否し、このため紛糾が絶えなかった。
明治七年、日清修好条約により、日本側が特命公使を北京に送り込んだが、清国から公使を派遣してこず、やっとの明治十年になって初代駐日公使が赴任してきた。以来、明治二十七年八月まで約十七年間に六人の公使が着任したが、ほとんどが帰国後、日本は文化的な属国で取るに足らずと次のように報告している。
① 日本は取るに足らない小さな島国。人口も少なく体格も劣り、軍備も不充分。
② 国内は不安定で、議会では政府と民党が抗争をくり返し、政治は混乱、反乱事件も起きている。
③ 文物制度すべて上国(自国の尊称、清朝のこと)の模倣で、文化的従属国にすぎない。漢字、風俗、習慣のすべてに上国に起源を有する。
④ 数千年来上国に学びながら、現在の政府になって急に洋夷の風を尊び中国の恩にそむいた。一挙に征して懲すべきーという東征論(日清戦争)が大きくなっていた。
当時の世界は帝国主義戦争による弱肉強食の世界、ヨーロッパ列強による怒涛のようなアジア侵略競争の真っ最中であった。大砲、軍艦、軍事力で持ってアジア各国に開国をせまり、ノ―といえば力づくで鎖国の門を吹き飛ばす、砲艦外交が幅を利かしていた。ペリーによる黒船もまさしく「砲艦外交」(Gunboat Policy)そのものであった。
今の平和な時代の軍事否定、力の外交を否定してのスピーチ・デベート外交を前提に150年前の外交、戦争を理解しようとすると間違うことになる。
アジア最大の大国・清国も新興国・日本に対して砲艦外交を展開した。日清戦争の3年前、明治24年に清国海軍の丁汝昌提督は、親善訪問に名をかりて、「定遠」「鎮遠」の二大戦艦および「済遠」「致遠」の二巡洋艦を従えて、横浜港に入港、数千の各界代表を招待して艦内を見学させた。
「定遠」「鎮遠」は、清国がドイツで建造させた世界最強の戦艦2隻で、排水量七千四百トン。十二インチ(三十センチ)主砲四門などを備えており、舷側も十二インチ鋼帯で装甲されていた。
一方、日本海軍といえば、わずか十九隻、三万二千トンしかなく、主力艦は英国製の「金剛」「比叡」「扶桑」、などで、「定遠」鎮遠」にかなう艦艇は一隻もなかった。これみよがしの訪問は明らかにアジア最強の海軍力をみせびらかすためのデモンストレーションであり、露骨な憫喝外交にたいして日本全体が震えあがった。
長崎に入港した清国水兵が上陸した際、飲食店での口論が発端となって日本人と衝突、両方に数百人の死傷者をだすという長崎水兵事件が勃発して、両国の対立はエスカレートしていった。
こうした世界状況・アジアの状況を見据えながら国家百年の長期的視野にたって、戦略的見地から清国との開戦を考えていたのが陸軍中将参謀次長の川上操六であった。川上が再び参謀次長に任ぜられたのは明治二十二年三月。二ヵ年間のドイツ留学から帰朝したばかりで、陸軍部内でも屈指の偉材として期待されての就任だった。
参謀総長は陸軍大将有栖川宮熾仁親王だが、親王はいわば象徴的な存在で、実権はすべて川上が握っていた。彼は朝鮮問題を解決するためには、清国と一戦は避けられないと見ていた。このため参謀本部の俊秀を東洋の各地はもとよりヨーロッパの列国に派遣し、周密な情報網を張りめぐらしていた。当時の参謀本部には陸車中の偉材、逸材を集めていた。
川上が藩閥にとらわれず、すべて国家的見地にたって、優秀なものを登用した。その中で特に異色の人材をあげれば、シベリア単騎横断の福島安正である。福島は信州松本の人で、慶応元年、江戸に出てオラソダ式兵法を学んだのが語学を手がけたはじめで、明治維新後、大学再校で正式に洋学を学んだ。のち明治七年、通訳として陸軍に入り間もなく陸軍少尉に任官、十一年中尉に進級した。
以来約四十年間、情報戦略の専門家として重きをなし、大正三年、陸軍大将として退官するまで情報分野一筋だった。彼は語学の天才で英、仏、独、ロシア、中国の五ヵ国語を自由にあやつり、ネイティブに現地人と話した。福島の才能を見込んで藩閥を超えて川上操六が抜擢いしたのである。
明治十八年、はじめて次長として参謀本部に入った川上は、ベトナムをめぐって清仏戦争が起こり南アジア情勢が緊迫した際、当時大尉で北京公使館付武官であった福島を早速、インドに派遣した。翌十九年、福島は詳細な調査報告を参謀本部に提出した。
二十年、更にドイツ公使館付武官としてベルリソに赴く。ほぼ同じ頃、川上もドイツ派遣を命ぜられてベルリンに到着した。ここでモルトケに弟子入りして、モルトケ・クラウゼヴィッツの戦略を徹底して研究したことは前回、この項で書いたので省略する。
川上は在ドイツ一年半の間陸軍の機構、戦術その他を研究、創設期の明治陸軍に最も必要な情報戦略を練った。福島ともここで協議して、ロシア関係の情報収集の任務を与えた。
川福島大尉にロシアの東方進出の意図や進捗状況について情報収集を命じた。
この結果、福島は明治二十五年帰朝を利用して、破天荒な単騎シベリア横断旅行を決行することになる。これは文字通り決死の冒険ということだけでなく、壮大な情報活動であり、極寒のシベリアを単騎で横断して四百八十余日を費やして見事に成功し、翌年六月帰国した。
これより先、川上は実際に朝鮮、支那の状況を実地に見聞しようと、参謀本部員(伊知地幸介、田村怡与造、柴五郎等)数名を随えて旅立ったのは明治二十六年四月。まず釜山に上陸、その地の朝鮮軍の司令官や知事に面会、兵士の訓練状況を視察した。ここに一週間滞在、船で仁川にいき、京城に着いたのは四月二十八日、ここには十三日間いて、この間に公使大石正己の先導で国王に謁見している。単なる表敬訪問であったが、宮廷の雰囲気はよくわかった。
その他、朝鮮軍の兵曹(大将)や清国公使の袁世凱とも懇談した。袁世凱これまで何人かの日本人や軍人とも会っているが、ただ一人、川上の人物やそのインテリヒジェンスには畏敬の念をもち、後日、李鴻章に書を送って「川上将軍は一世の人傑なり」と激賞したというのだから、袁世凱もただ者ではない。
(つづく)
<参考文献『明治天皇と軍事』渡辺幾治郎、昭和11年刊より>
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